第9話 海を渡った初恋 その5

文字数 2,566文字

天野の人生に初めて色彩りと夢を与えてくれた、楽しい日常が戻って来た。
しかし、キャンディは、戻って来たのに日本から帰国する前とは、何か心の中に違うものが芽生えて、それが少しずつ大きくなって来ていることを実感してきている自分に気が付き始めていた。
心に平穏な時が戻って来たことを感じるだろうと期待していたのでその違和感が何処から来るのか自分にも分からなかった。
キャンディがまたいきなり国に帰って居なくなるというような悪い事件が何時か再び起きるかもしれないという不安となって心に住みついていた。
以前だったらまったく気にしなかったキャンディの場内指名に対してのジェラシーを感じるようになっていたからだった。

キャンディは、マブハイで一番若いからということだけでなく、いつもニコニコと笑顔なのと、少しぽっちゃりした体型から純朴な田舎娘的な雰囲気が年配の客に贔屓にされることがあり、最近では、本指名も多くなっていた。
当然天野の席にばかりついていられないことが多くなっていた。

「今度、お客さんが海を見に連れて行ってくれるって誘いしてくれました。」
ある日、天野の席に着くなり、キャンディが嬉しそうに話し始めた。
「海?車で行くの?」
「はいそうです。キャンディの田舎、海だから嬉しい」
「誰?どのお客さん?」
「あの、向こうのお客さん」
キャンディが顔を向けて示した客がこちらを向いて笑っているのが見えた。
その時、天野の胸中に嫌な予感が浮かんで来た。
明らかにちょっと普通の堅気のサラリーマンとは違う、遊び人風のヘアスタイルとストライプの入ったジャケットを着ていた。
雀荘の“ちょんぼ”に出入りするようになってから、歌舞伎町にはまっとうな職業ではない人々が多く群れていることを感じていたが、まさしくそのまっとうじゃない方の人種だとはっきりわかる人相と風体の男だった。
「何時行くの?」
「今度の日曜日だって」
「明後日か・・・わかった」
「わかった?何が?」
「いや、いい・・・今日は、帰る。店長呼んで」
「どうして、すぐ帰るですか?何かキャンディ悪い?」
その問いに答えずに、会計を済ませると天野は、タクシーで大山の自宅まで急いで帰った。

自宅に着くと自分の部屋には行かず、別棟の姉の智代を訪ねた。
普段は大学教授という仕事でありながら、週末の夜はほとんど出歩いて留守にしていたが、その日に限り在宅していた。
部屋のドアをノックすると智代が出てきた。
「あら、雅人・・・珍しいわね、どうしたの?」
「日曜日、車貸して欲しい」
「車?いいわよ、どっちにする?ベンツ?BMW?」
「ベンツの方・・・」
「いいわよ、日曜日は、使わないから自由に使って。鍵はガレージのシャッターのスイッチのところに掛けたままにしているから。だけど日曜日に車なんて初めてじゃない?彼女でもできたの?」
「友達と出かけるだけだよ」
天野は、普段クールな智代が珍しくフレンドリーに笑いながら話してくれたのにも関わらず、要件だけをいうと自分の部屋に戻った。

天野は、大学在学中に免許を取っていたが、車は所持していなかった。
父親も2台、姉も2台所持していたし、ガレージはまだ余裕があったので別に所持していても問題はなかったが、何故か自分には車は不要だと思っていたからだ。
何時でも姉か父親の車を借りれば済むと思っていたが、これまで実際に借りることは、なかった。
姉の車も赤いベンツのセダンとBMWのスポーティなコンバーチブルの2台があったが、赤いベンツのセダンを選んだ。

日曜日の朝早く赤いベンツを運転して自宅を出ると、新宿に向かった。
百人町のキャンディたちが住んでいるマブハイの寮の前に来ると、キャンディに電話を掛けた。
キャンディは、なかなか応答しなかったが、10回ほどのコールを2回繰り返したところでようやく出た。
「もしもし、キャンディ?天野だけど」
「天野さん?はい、キャンディ・・・」
「キャンディ、寮の前の道路まで出てきて、今そこに居るから」
「え~?寮の前?・・わかりました。今行きます」
ほどなくして、寮からキャンディが出てきた。
外出をする格好でお化粧もしていた。
車のドアガラスをスライドさせて開けると、天野は、キャンディに声をかけた。
キャンディは、車に近づいてきて、
「天野さんの車?どうして来ましたか?」
「ああ、これはレンタカー。それよりもう出かける用意はできているだろう? これから山にツーリングに行くから出かけよう」
「山に行く?どうして?今日は、キャンディ・・海に行くよ」
「だめだ。海に行くお客さんには、お腹が痛くなったから行けないといえばいい。山の方が危なくいないから、山に行く。すぐに用意して出てきて」
天野の真剣な顔つきと強い口調から、本気で山に行くと言っていることを察したキャンディは、少し躊躇ったが、「わかりました」と、寮に戻って行った。

ほどなくして、小さなハンドバッグ一つだけ持って出てきたキャンディを助手席に乗せて、ベンツは、新宿を出発した。
「そんな小さなバッグ一つだけで海に行くつもりだったのか・・お金も持っていないだろう?」
車に乗り込んでから黙ったままのキャンディに対して、初めて天野が話しかけた。
「海見るだけ・・・お金要らない」
何か、いつもの天野らしくない異様な雰囲気を感じて、キャンディは小さな声で答えた。
あまり親しくもない、少し危険な客と車で出かけるというのに万が一の時のためにお金を用意しておくというような配慮もしていなかったことに天野は、強制的に連れ出して良かったと納得した。

「わかった、わかった。いきなり急にドライブに行こうと言ってごめんね。山に行って、レストランで美味しいランチを食べて帰ってこよう。今日は、キャンディと車でデートだよ」
天野にしては、これまで女性経験が無かったことが信じられないぐらいの甘い言葉でキャンディをなだめた。
「はい!わかりました」
根っから明るいキャンディは、すぐに気を取り直して笑顔を見せて喜んだ。
天野は、あまり運転に慣れていなかったので、ゆっくりとしたスピードで車を走らせた。
二人は、甲州街道を八王子方面へと出発して行った。
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