第10話 海を渡った初恋 その6

文字数 2,381文字

天野は、まず高尾山にケーブルカーで登ろうと思っていた。
高尾山ならキャンディもその眺めの良さに喜んでくれるだろうと考えたのだ。
キャンディは、ドライブが気に入ったのか、FMラジオから流れてくる音楽に合わせて小さく歌いながら楽しんでいる。

ゆっくりのスピードで走ったのと、日曜日だから甲州街道は、渋滞気味で麓の駐車場に着くのにもわりと時間がかかった。
ケーブルカーに乗って高尾山の頂上に着いたのは、午後1時になっていた。
名物の蕎麦を食べて、下山したのは、3時前になっていた。
「これから海を見に行くよ」
エンジンをかけながら天野がそう告げた。
「えっ?海ですか・・・ここに海がありますか?」
「はは、海と言ってもね、・・み・ず・う・み」
「みずうみ?」
「レイク・・・、レイクのことを日本語でみずうみというから海なんだよ」
「ああ、レイクね。行きたいです」
二人は、車に乗って湖を目指した。
海というには、小さな湖だが、少なくともキャンディが見たいと言った、水のあるところだろうと考えたのである。
まだ小学生の小さな時に、父親が運転する車に乗せられて、大きな有名レストランに食事に来たことがあったが、その時に車から見えた湖のことを覚えていて、それが津久井湖であることを調べていたのである。
そして付近を一回りして帰りしなにそのレストランに寄れば、美味しい料理を食べられるという算段だった。
当時まだナビなど無かった時代だったので地図を頼りに津久井湖にたどり着き、周囲を回りながら景色を眺めては、停まったりして、時間を費やした。
そして陽が暮れ始めた頃、目的のレストランに向かって走りだした。

しかし、土地勘のない天野は、目的地であるレストランと反対方向の山道の方を選んでいたのである。
地図を何回も見ながらそれらしい道を走るのだが、行けども行けども標識らしいものは出てこない。
それどころか道は、だんだん細くなり、山道の険しい道になっていく。

キャンディは、車の揺れと少し疲れたのか、天野が迷いながら地図を頼りに道筋を探している最中に寝息を立て始めた。
とうとう、完全に陽が落ちて、周りは暗闇が支配するようになってきた。
道路の街路灯が所々の電柱にあるものの民家も何もない細い山道が続くばかりだった。
「トイレ行きたい」
キャンディが目を覚まして、そう言った。
「トイレ?」
「はい。ここはどこですか? トイレありますか?」
「ちょっと、道に迷ったみたいだな。だけどここは、東京だから本当の山の中じゃないから大丈夫。すぐ大きな道に出るから・・・ちょっとだけ我慢して」
「はい、わかりました・・・」

しかし、一向にそれらしい大きな道に出くわさない。
さらに道は細く険しくなるばかりだった。
どうやら、同じところをぐるぐる廻っているようである。
「まいったなあ・・・」
思わず、天野の口から困ったことのつぶやきが漏れた。
「道、わからないですか? キャンディ、トイレ行きたい・・」
「う~~ん・・・どうしよう・・・」
まだ、天野は、ぐるぐる廻って道を探そうと努力していた。
「お願い!道でも大丈夫でしょう。暗いから、誰もいないから・・・」

やっと少し大きな道に出てきたが、トイレらしいものどころか、建物が見つからなかった。
すると、道の脇にどこかの会社の保養所らしきコンクリートの建物が出てきた。
しかし、建物には、まったく明かりが点いてなかった。
それでも建物の前に駐車場らしい広場が見えたので天野は、そこに車を乗り入れた。
誰か、中に居るかもしれないと思って建物の方に向かって歩き始めた時にいきなりキャンディがドアを開けて走り出した。
そして、車の後ろの方の闇に隠れた。

天野は、戻ってキャンディの方に寄って行った。
キャンディは、しゃがんで用を足していた。
周りは、暗かったが、月の明かりでキャンディの顔を見ることができた。
キャンディは、しゃがんだまま、顔をあげて天野をみた。
音がしていたので、まだ用を足しているままだということは、すぐに理解できた。

その月の明かりの中で天野が見たキャンディの顔が、その後の人生を変える運命の出来事だったのだ。
キャンディは、いつも通り屈託のないキラキラとして笑顔で天野を見つめた。
その笑顔は、天野のこれまでの人生の中で一度も出会ったことのない雷のような衝撃と心の中に全ての幸福をもたらしてくれた。

この世の中にこれほど美しいものが存在するのだろうか?
そう思ったのである。

キャンディは、用を足し終わると服を整え、天野の前に歩いてきて笑ったまま
「トイレしました」と、言った。
天野は、自分の心の中の変化を悟られないように何事も無かったかのように車に戻り、
また、レストランへの道を探した。
すると、今度は、ほどなく大きな道に出ることができて、看板も目に入ってくるようになった。

大きな街道沿いまで出てくることができたので、目的のレストランまで行くこともできたが、先ほどの衝撃が尾を引いていて、途中で見つけた街道添いのファミレスに入り、夕食を済ませて、新宿への帰路についた。
百人町の寮に着いた時は、もう夜の10時過ぎになっていた。

キャンディが、挨拶をして車を降りようとしたときに、天野は肩を抱き寄せてキスをした。ぎこちなかったが、強い抱きしめ方と情熱的なキスだった。
二人にとってもファーストキスだったが、天野にとっては、正真正銘のファーストキスだった。
「キャンディ・・・・結婚しよう」
もうこの幸せとこの時間を誰にも渡したくない、そして誰にも邪魔されたくない。
そう思った天野は、唐突にプロポーズした。
「はい、お願いします」
何と、キャンディは、瞬間もためらうことなく即答で返事した。
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