第2話 時代の終焉

文字数 2,926文字

 かつてベトナム戦争と言うものがあった。圧倒的な超大国である米国が唯一敗北した戦争である。この時代は逆に仏教に対して教会が理解を示さない時代だった。資本主義の腐敗を眼にした高僧が自らの体にガソリンをかけ、自死して抗議することに対し、教会は冷淡だった。時の傀儡政権である信徒達がかけた言葉が「ガソリンが勿体ない」と言った具合であった。これは全く神の御心に沿わないことである。
 この国では同時に教会も同じ現象に見舞われていた。誰も彼もが教会に興味がない。物珍しさに行く人ばかりだったのである。半世紀前教会に関わる国家連合は世界の富の半分以上を占めていた。経済力があれば、それは誰もが教会の言うことに従うのも道理であった。
 だが、逆の見方をすれば、富に支配された腐敗した時代でもあった。真に神を追い求める者は減り、教会を土台としている国家は次々移民政策に乗り出していた。移民が多ければ多様性が生まれる。
 しかし、その多様性を上手く取り込めず、凋落の一途を辿ったのが教会だったのである。今日では米国の平和は終わったとの意見が世の多勢を占める。欧州連合は独自の路線を歩み、皮肉にも英連邦は米国から距離を置き始めた。とは言っても、ファイブ・アイズは強化されてはいるが。これらが本来は全く米国には面白くない動きで、しかも背後にはロシアや中華帝国の巧妙な世論操作が関わっている。
 五百年続いた教会の優勢は終わりを迎え、共産主義が世界に台頭している。しかも皮肉なのはマルクスが夢見た共産主義ではなく、一部の特権階級が全てを支配するディストピアが現実世界に台頭している。ウイグル自治区の問題の口を挟むのは米国か小アジアを支配するムスリム大国しかないのだ。思想が汚染されていると喧伝され、民族浄化の為に各部族の血を薄める為に望まない妊娠を強制しているのも中華帝国の巧妙なやり口だった。
 恐らく、この国も他人事ではないだろう。天然資源に恵まれた土地は買われ、大量の地下水が中華帝国に運び込まれていることを意図的に隠蔽されているのも事実は予想より遥かに巨大だろう。
 この様な世界を見た時、人生に一体何の意義が見いだせるのだろうか。自分は職を失い、世界の富裕層は肥えていく。
 腐敗しているのも大変だと中華の支配者達は嘆く。では持たない者は尚大変であると言う事実に彼らは何も気付きはしないのだろうか。
 貧しくとも神が共にあれば幸いなりとは真理であろうか? それは判らない。何一つとして解らない。痴れ者の様に自分には何も解らない。所詮は砂の土台の教会であったかと想うばかりだ。大切なもの達が多く召された。『全てに救い』の小教理も整えた。最早、自分の中に生きる気力はなかった。子供が欲しいと願う時もあった。だが、現実は過酷で自分が子供を作れば、必ずその子は忌み子になる定めもみえていた。世界は綺麗ごとを述べるが、精神疾患の者など誰も望んでいないのは薄々感じていた。要するに世界に不要なのだ。だからこそ、世界を変えるべくして『全てに救い』に取り掛かった面もあった。本来は愛犬に捧げる教理として存在していたが皮肉にも全共生社会の教理にもなった。しかし、自分は衰えた。毎日の様に腰痛に悩まされている。易疲労にも悩まされている。身体が思う様に動かない。思考も鈍くなった。仕事をする自信も失った。何もなく眼前に広がるのは虚無の平野だった。
 これか。これが神の独り子が見ていた光景か。無数に溢れ出る妬み、嫉み、誘惑、絶望、虚無。
 そうか、これが世の人々を殺人へと駆らせる闇の荒野だと気付いた。かつてドイツ第三帝国を築いた男の影が見えた様な気がした。秋葉原連続殺人の被告、津久井山百合の被告が視た光景がこれであったか。世の人々が敢えて無視しているこの光景こそ世界の破滅に関わるものだ。そうか、『全てに滅び』の土壌はここで熟成されているのだ。
 どうにも出来ない。
 唯、そう言うしかない。筆舌し難いものだ。人々の罪の根源がそこにあるのに誰も向き合おうとしない。汚いものは誰だって見たくはない。ここは孤独に満ちていて誰も関わろうとしない。世界が産み出したものを世界そのものが眼を背けている。暗い、唯暗い、一つとて希望が存在することを許さない様に暗い心象が荒漠として広がっていた。
 これは何であろうか? 実態が掴めない。底のない沼の様でいて生命の存在しない無機質な荒野でもある。
 一瞬であるが、イスラエルの荒野を連想させた。厳しさと言う点では一致しているだろうが、ここには希望がない。かつてイスラエルの民が神と約束した希望が一切ない。そういう点では地獄と同一であった。地獄にすら希望を見出そうとする『全てに救い』はこの荒野を包み込むことが出来るのだろうか。
 自分にはそれを信じる信仰は最早欠けていた。何が正しきことか何が悪しきことか智恵の分別が恐ろしく欠いていた。人間の強烈な悪意が聖典の伝える善すらも捻じ曲げる。この事実だけが横たわっていた。
 一つの時代の終焉だ。
 欺瞞を貫いてきた者達がどうなるかは解らない。神は黙さないと聖典は示すが現実には沈黙している。神は存在するか? 長い疑問だった。教理が存在しても根源である神が居なければそれは無に等しい。唯の喧しい銅鑼と同じである。だが、それは恐らく人生の最期に解る答えなのだろうとも感じている。生来信徒として誕生した人々には神が根付いている。だが、自分の中の神は曖昧だった。神は愛であり、裁きであった。静寂なる憎悪が燻る様に神に手向けられているのを自分の中で感じ取っている。
 神は不平等だと訴える自分がいる。神の裁きは忘れられたと嘆く自分がいる。裁く自分がいる。何を以って自分は裁くと言うのか。信仰か? 神の代理人としてか? それがことごとく間違っていることを教理の上では理解出来ている。しかし、心が納得いっていないと不平を述べている。何故富のある者は豊かさを享受出来て我々が忍耐しなくてはならないのか。我々は何だろうか? 人なのか家畜なのか、いやそれ以前に存在が認識されているのか? 忌むべきかな、我々は何ら価値を持たない者だ。社会を回す歯車ですらない。代替品なぞ大勢いる。では何が我々を人間として成り立たせているのか? それが全く解けないのだ。物質的豊かさでもない、精神的豊かさでもない。魂の豊かさと言うものを我々は知らない。かつてはその基幹に神がいた。だが、科学が発展し、文明が発展すると神は古臭い黴の様なものとして忘れ去られていった。皮肉にも我々が知識の面で神に近付くと神を知ることが出来なくなってしまう。我々の根本が崩れてしまうのだ。これが『被造物のジレンマ』と名付けたものの姿の一つである。神に追い付こうとすればする程、神を見失う葛藤に直面する。時としては神を全否定しなければならない程に。神を追い求めようとすれば、自然に神への理解を失ってしまう。愛の渦中にいる存在程、ある瞬間にくっきりと神の存在を忘却するのだ。教会の神話がそれを肯定している。大天使長ルシファーは神に最も愛された存在だが、堕落の瞬間に愛そのものを解せなくなる。良い証明だった。
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