三日目:使用人の不満

文字数 4,368文字

「それじゃあ都築君、後はよろしくね。一応仕事用の携帯を持っていくから、もし会社から電話があったら、そっちにかけ直すように言ってね。電波は大丈夫なはずだし」
「かしこまりました。仕事用の携帯、で先方に通じますか?」
「うん、大丈夫。それとお昼時は外していいよ、かかってこないと思うから」

 晴人様との話を終えると、真白が私の隣に立った。
 私が玄関ロビーまで見送れないので、それを不審に思われないように、階段(ここ)で見送る姿勢を見せたのだろう。こういうところは本当に気が回る。

 お二人についていく使用人は、晴人様が執事と相談して決めたそうだ。
 誰でも良いというわけではない。後に正式決定する(きよみ)様付きの使用人の選定も、恐らく絡んでいるだろう。
 少なくとも今回は、荷物を持って一緒に歩けるだけの腕力と体力、それから屋外ならではの気遣いを心得ていなければならない。

「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ」
「お気をつけて」

 晴人様と雪様を階段で見送ってから、私は雪様の部屋にとって返した。真白は晴人様の執務室で電話番だ。

 部屋の清掃をして、観葉植物に水をやり、ベッドのシーツも取り替える。時間が余ったので、二階から下りない範囲で他の使用人の仕事も手伝った。
 やることがなくなって廊下に掛かった時計を見上げると、もうすぐ十一時半といったところ。昼食まで、あと一時間ほどだ。
 もっとも、私や真白のように誰かの世話役をしている場合、状況によって早まったり遅くなったりすることも珍しくないが。

 少し早いが、昼食の下ごしらえでも始めようか。
 使用人の食事に支給される食材は、それなりに質のいいものだ。きちんと手を掛けて料理すれば、十分に美味いものができる。

 何を作ろうかとメニューを思い浮かべると、ぐうと腹が鳴いた。
 そういえば、今朝は朝食をほとんど食べていなかったのだったか。
 昼や夜を抜いたことはあるが、朝食を抜いたのは初めてだ。なるほど、これは結構つらい。雪様の前で鳴らなくてよかった。

 やはり早めに昼食にしようと思って、簡易キッチンへ向かう。
 時間があるので、少し手の込んだものでも作ろうか。

 十一時四十分を過ぎた頃、真白が入ってきた。
 晴人様の執務室で電話番じゃなかったのか。

「まだ早くないか?」

 いつもの真白は、もう十分ほど遅く来る。忙しければもっと後だ。
 私は先に食べ始めてしまうが、彼は遅れてきた分食事の時間が短くなって、ほとんど味わう暇もなく昼食を済ませることも多い。

「あとは午後に回します、って会社(むこう)の人が言ってた。かかってくるとしても午後イチだろ」
「ああ、なるほど」

 真白の返事に納得して、溶き卵をフライパンに流し入れた。溶けたバターと混ざりながら、黄色がふつふつと泡を立てて固まっていく。

「今日は何だ?」
「オムライス」

 フライパンに皿をかぶせて、ひと息にひっくり返す。何が(まず)かったのか、卵の膜が少し破れてしまった。これは私の分にしよう。
 薄焼き卵の中央にチキンライスを多めに盛りつけ、先程と同じ手順をもう一度。今度は成功したので、これは真白の分だ。

「よし、できた。冷蔵庫でカフェオレ冷やしておいたから、出してくれるか」
「あいよ。……あ、これか」

 時計を見れば、分針が四十五分を指している。まあ、丁度いい時間だろう。
 お互いに少し早い、昼食の時間だ。

「――お前さ、もうちょい俺を頼ってもいいんじゃないか?」

 薄焼き卵を崩していると、いきなり真白がそんなことを言い出した。
 朝と同じ、低めの声だ。どうやら不機嫌が再発したらしい。

「今日はやけに機嫌が悪いな」
「お前、朝食抜きだったろ。雪様が来たせいで」
「そういう言い方をするな」

 真白の言い草にむっとして、思わず強い口調で言い返してしまう。

 薄々感じていたが、この相棒は雪様があまり好きではないようだ。
 私からすれば信じられないことだが、真白と私は色々と違いすぎるから、好き嫌いも異なるのかもしれない。私は魚卵が苦手だが、真白は美味そうに食べるし。

「お二人の朝食のとき、俺に任せて飯食ってきても良かったんだ。急げば食後の茶には間に合うだろうし……」

 ……ああ、なるほど。
 そこでようやく、「俺を頼れ」という言葉の意味を察することができた。結局のところ、彼は私が朝食を抜いてしまったのを気にしていたのだろう。どうも、私は(にぶ)くていけない。

「今でも十分助かってるさ。一階の仕事、肩代わりしてくれているだろう?」
「その分、二階の仕事は引き受けてくれるだろ……」

 ふてくされた顔で反論してくる真白があまりに子供っぽく見えて、思わず吹き出してしまった。笑われた真白が、更にむくれる。

「そろそろ食べないと冷めるぞ」

 これ以上彼の機嫌を損ねないように、私は言った。笑いながらではあったが。


 ◇


 晴人様と雪様は、空が茜色に染まる時刻になって屋敷へ戻ってきた。
 雪様から受け取った濃紺のコートが、ひんやりと腕の熱を奪っていく。これで本当に雪様は寒くなかったのだろうか。私が一緒に選んだものなので、少し申し訳ない。

 部屋に戻る途中、雪様が「すっかり冷えてしまったから、熱い紅茶が飲みたいわ」と(おっしゃ)った。やはり、朝の十時から夕方まであちこち散策するのは疲れたようだ。
 楽なワンピース姿になった雪様に、ご所望の紅茶を淹れていると、部屋のドアが控えめにノックされた。

「どうぞ」
「失礼いたします」

 雪様の(いら)えにドアを開けたのは、見覚えのある女性の使用人。確か、今日の外出に付き添っていた者だ。片手に花瓶を抱えている。

「水仙を花瓶に()けましたので、お持ちしました」
「ああ、ありがとう。……夏生」
「はい」

 雪様に呼ばれて、私は女性から花瓶を受け取った。硝子の一輪挿しに、大振りの水仙がひとつ生けられている。
 花瓶を持ってきた女性は、一礼して部屋を去った。私は花瓶を雪様の前に置く。

「外で見つけられたのですか?」
「ええ、冬でも花はあるものね。(ひいらぎ)の花は初めて見たわ」

 雪様は愛おしそうに水仙を見つめている。早速、思い出に浸っているのだろうか。
 それを共有できないことを少し寂しく思いながら、雪様の脱いだ服を畳んで籠に入れた。わずかに香るのは、雪様の香水だろうか。

「晴人も一服してるかしら?」
「昼間に会社から電話があったようですから、その対応をされていると思います」
「あら……。じゃあ、夕食まで会うのはお預けね」

 残念、と軽く言った雪様がティーカップに口をつけたと同時、再びドアがノックされた。

「雪、少し早いけど夕食にしないかい?」

 ドアの前に立っていたのは晴人様だ。少し離れたところに、真白の姿もある。

「さすがにお腹が減ってしまってね」

 晴人様がそう言って苦笑する。
 壁に掛かった時計を見ると、六時三十二分。確かに早めだが、この時間なら準備はできているはずなので、問題はないだろう。

「もう。こっちはお仕事の邪魔をしないようにって、会いに行くのを諦めたのに……」

 雪様がくすくすと笑いながら、「そうね」と首を縦に振った。晴人様の差し出した手を取って、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
 こうして見ると、童話の王子様とお姫様のようだ。
 そういえば、童話のお姫様は多少のバリエーションがあるが、王子様として出てくるのは、晴人様のような男ばかりだ。端整な顔に優しさを湛えた、すらりとした体躯の青年。

 やはりそういう男性の方が、女性受けは良いのだろうか。
 お二人の後ろを歩きながら、そんな下らないことを考えた。



「……そろそろ、君の正式な世話役を決めようかと思ってるんだ」

 夕食を半分ほど食べ進めたところで、晴人様が不意にそう言った。
 言葉を脳が理解すると同時、きゅうと心臓の辺りが苦しくなる。覚悟していたから、顔に出ることはなかったはずだ。

 真白がちらりとこちらを見るのに気付いたが、視線は向けない。
 向けたらどんな顔をしてしまうか、自分でも分からなかった。

「正式に、って。このまま夏生では駄目なの?」

 雪様が眉をひそめるのに、晴人様は彼女から視線を逸らす。何か、後ろめたいことでもあるように。

「ああ、うん……。庄司君はちょっと、都合が悪い。こちらで候補をリストアップしておいたから、そこから選んでくれ」

 雪様は晴人様の様子を不思議に思っているようだが、敢えて何も言わないようだった。

「まあ、晴人がそう言うなら仕方がないわね」

 その言葉が今更ながらに、刃物のような事実を突きつけてくる。

 雪様にとって、私の存在など。
 晴人様への信頼には到底及ばない――。

「ところで候補って、どういう決め方をしたの?」
「一定以上の経験と、それから君の世話に集中できる立場ってとこかな。具体的に言うと、三年以上この屋敷で仕事をしていて、父さんや僕についていたり、どこかの管理を任されたりしていないこと」
「ああ、夏生は晴人付きだから駄目なのね?」
「……まあ、そういうこと。ごめんね、庄司君を取っちゃって」

 晴人様が苦笑した。その表情が、どこか不自然に見える。

「書類を回しておくから、ある程度絞っておいてくれ。明日の昼には決めたい」
「分かったわ」

 晴人様が食事を再開する際、その視線が私を(かす)めたような気がした。
 今朝から、どうも晴人様の様子がおかしい。真白は何か知っているだろうか。


 ◇


 夕食後、真白が書類の束を片手に雪様の部屋までやってきた。
 晴人様が言っていた、雪様付きの使用人候補に関するものだろう。

 書類は履歴書のような体裁をしていた。氏名と年齢、職歴、備考欄には趣味や特技。添えられているカラーの顔写真が、雪様付きになれない私を嘲笑(あざわら)っている、ような錯覚。
 一瞬、書類を床にぶちまけたい衝動に駆られたが、おじいさまの教育と使用人としての矜持(きょうじ)が、行動に移すことを許さなかった。

 雪様と出会ってから、感情を持て余し気味だという自覚はある。
 雪様に見つめられたり話しかけられたりすると、脳のあたりが熱を持ち、顔の筋肉が緩んでしまう。
 そして、雪様のお心が自分以外に向いたと気付いたときの、息苦しさ。

 あまり良い感情(もの)ではない、とだけは分かる。
 雪様が美しいのは確かだが、これはきっと、私が持ってよいものではない。

「……夏生?」
「あ……」

 雪様に呼ばれて、はっと我に返る。考え事に没頭してしまったようだ。
 真白は既に部屋を去っていた。しまった、晴人様の様子について相談しようと思っていたのに……。

「申し訳ございません。少々、ぼんやりとしてしまいました」

 ひとまず真白のことは頭から追い出して、雪様の前に書類を並べる。腕を前へ動かすことすら、強く意識しなければかなわない。
 どうぞ、と言った声は、指先は、震えていないだろうか。

 雪様は書類を手に取ると、一枚一枚に目を通し始めた。
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登場人物紹介

庄司 夏生(しょうじ・なつき)

23歳 使用人

主人公。幼少時に他界した両親の借金を背負い、綾部家に引き取られた。

屋敷の主人から、「他人に身の上を話すこと」「屋敷の一階へ下りること」を禁止されている。

綾部 晴人(あやべ・はると)

23歳 会社役員

屋敷の主人の一人息子。夏生の身の上については知らされていない。

婚約者の雪を大切にしており、使用人たちにも気さくに振舞う。穏やかな人格者。

八束 雪(やつか・きよみ)

22歳 大学生

晴人の婚約者。八束家のお嬢様で、忠の妹。晴人にとっても従妹にあたる。

結婚に先立って、綾部の屋敷に住むことになった。好奇心が強め。

都築 真白(つづき・ましろ)

23歳 使用人

晴人付きの使用人。夏生の同僚で、よく世話を焼いてくる。

性格は明朗快活。趣味は洋菓子作り。

八束 忠(やつか・ただし)

25歳 会社役員

八束家の跡取り息子。雪の兄、晴人の従兄にあたる。

やや気難しい性格で、真白への当たりが強め。シスコン。

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