四日目:使用人の夢
文字数 2,872文字
借りたコートを返しに真白の部屋を訪ねた頃には、既に日付が変わっていた。
真白は「返すのはいつでもいい」と言っていたが、晴人様が言うほどの高級品を、いつまでも手元に置いておきたくない。
少し話したいこともあるので、気に入りの茶葉で紅茶を淹 れて……寝る前にカフェインは拙 いだろうか?
まあ、淹れてしまったものは仕方がない。持っていくだけ、持っていくことにした。
「真白、入るぞ」
「ん、夏生? ……ってちょっと待て!」
軽くノックをして、返事を聞かずにノブをひねる。気が急いていたのかもしれない。
ドアを開けた先には、上半身だけ裸になった真白がいた。
どうやら風呂上がりだったようだ。しっとり濡れた髪の先から水滴が落ちて、首にかかったタオルへ吸い込まれていく。
「……なんだ、着替え中か」
それは悪いことをした。ズボンはしっかり穿いていたのが、せめてもの救いか。
すまない、と詫びながら部屋に入ってドアを閉めようとすると、真白がまた大きく叫んだ。あまりに喧 しいので、流石に眉をしかめる。
「うるさいな。さっさと着替えろ」
「いやいやいや、お前なんでそこで入ってくんの?!」
「紅茶が冷めるだろう」
真白は着替えを再開する様子もなく、ズボンを穿 いただけの姿で何か喚 いている。これでは相談どころではなさそうだ。
「別に下半身を晒 しているわけじゃあるまいし、何をそんなに騒いでいるんだ」
「お前の常識がおかしいんだよ! うわーなっちゃんのバカー!」
誰がなっちゃんだと言い返す前に、真白はベッドの上のシャツを掴 んでバスルームへ走り去ってしまった。
私とて別に奴の半裸を観賞しに来たわけではないので、わざわざ追うような真似はしない。
近くにあったテーブルにティーポットを置き、棚から勝手にカップを出すことにした。
椅子に腰掛けて待っていると、着替えの済んだ真白が憮然とした顔で戻ってきた。
濡れたタオルをドア近くの洗濯籠 に投げ入れて、それから私の向かい側に座る。
「お前ね……」
「砂糖とミルクは?」
何か言おうとするのを遮って、真白のカップに紅茶を注ぐ。
真白はしばらく両手で顔を覆っていたが、やがて大きくため息をついて顔を上げた。
「どっちもなしで。……それで、どうしたんだ?」
◇
「……晴人様に話したのか」
私が話し終えた後、真白は真顔になって呟いた。
いつもこのように真面目な顔をしていれば、年相応に見えるのだが。
「全部?」
「全部」
肯定すると、そうか、とだけ返される。
「……何か拙かったか?」
あまりに沈黙が長すぎるので不安になって問いかけると、真白はなんとも言い難 い表情で口を開いた。
「いや……晴人様が動くとなると、一気に状況が変わるなと思って」
「口外しないと約束はいただいたが」
「静観するとは言ってないだろ。……晴人様の立場からすれば、動かないわけにはいかないしな」
「……そうなのか?」
首を傾げると、真白は「あのな」と私に言い聞かせるような口調で話し始める。
「二歳の子供に借金負わせるのも、屋敷の使用人にするのもどうかと思うんだけどさ。二階から下りるの禁止とか、義務教育も受けさせてないってのは、はっきり言って異常なんだよ」
「異常……?」
「ああもうその反応がもう異常……。まあお前はそういうふうに育てられてきたから、それが普通なんだろうけどさあ」
……世間知らずの自覚はあるが、異常とまで言われる程だろうか。
「晴人様から見ても、お前の境遇はおかしく見えるはずだ。もっとはっきり言えば、法に触れてる可能性が高い。やったのが自分の親父だっていうなら、『何考えてんだ』って思うわな」
そこまで言って、真白はぬるくなった紅茶に口をつけた。
晴人様も、「父さんが何を考えてるのか分からないけど」と言っていたか。……「何とかしなきゃ」とも言っていたな、そういえば。
なるほど、おおむね真白の言う通りのようだ。晴人様は動くだろう。私の置かれる状況も、多かれ少なかれ変わるということか。
「あと、これもずっと気になってたんだけど。お前の親の借金って、本当にあるのか?」
「……どういう意味だ?」
言われた意味が理解できなくて、首をかしげた。
真白は構わず言葉を続ける。
「仮に借金があったとしても、まだ残ってるのか? 二階だけとはいえ晴人様付きなんだから、その辺の連中より高いはずだぞお前の給料。参考までに俺の手取り教えてやろうか?」
「いや、いい。どうせ分からないだろうから」
私は貨幣の価値をよく知らない。買い物をした経験どころか、金というものを実際に目にしたこともない。
物品の質の良し悪しなら分かるのだが……。
「そもそも、お前の親が死んだのってお前が二歳とかそのくらいの頃だろ? 後見人は? 他の親戚で遺産の相続権持ってるのは? そうだよ相続人が夏生だけとかおかしいだろ、仮に夏生だけだったとしても、役所だって物心つかない子供に負債背負わせるわきゃねえし……」
ブツブツと何かを呟き始めた真白に、心持ち上半身を引いた。こいつといい晴人様といい、今日はみんな様子がおかしい日だ。
なんとなく口を挟めない雰囲気なので、黙って自分の紅茶を飲んでいると。
不意に真白が独り言を止めて、すっと顔を上げた。
「……お前さ。もし借金がなくなったら、どうするんだ?」
珍しく真面目な声音で、真白が私に問うてくる。
――そんなこと、考えたこともなかった。
思ったことをそのまま答えると、真白は一気に脱力した表情になった。
「ほんとにお前はもう……。一生この屋敷で使用人やって過ごすつもりだったのかよ」
「そう言われても、私には財産も後見人も一般常識もないわけだし……」
そう言うと、真白は急に黙り込んでしまう。何かを考え込んでいるようなので、口を挟まず、カップに残る紅茶を飲み干した。
真白のカップが空になっているのに気付き、ポットの紅茶を注いでやる。
「……なあ、夏生」
「うん?」
少しして、真白が再び口を開いた。数分しか経っていないはずなのに、随分と久しぶりに声を聞いたように感じる。
自分のカップに残りの紅茶を注いで顔を上げると、どこか思い詰めたような彼の視線とぶつかった。
「どうしたんだ、深刻そうな顔で」
「うん、真面目な話」
真白の表情は変わらない。
真 っ直 ぐな視線に突き刺されて、動けなくなる。
「借金の心配がなくなって、旦那様の命令に従う必要がなくなってさ。それで、俺が一緒に外で暮らそうって言ったら……夏生は、ついてきてくれる?」
その言葉に、想像してしまった。
青い空の下、並んで歩く真白と私。
二人で街まで買い出しに出て、二人で家に帰ってくる。
私が作った料理を、真白が美味そうに平らげる。白米を食べる回数も増えるだろか。
冷蔵庫には真白の作った洋菓子があって、食後のテーブルに並ぶそれには、私の淹れた紅茶やコーヒーが添えられて。
ああ、それは――。
「……夢、みたいだな。楽しそうだ」
思わずそう口にすると、真白は眩しいものでも見るように目を細めた。
「今は、その言葉だけで我慢しとくよ」
真白は「返すのはいつでもいい」と言っていたが、晴人様が言うほどの高級品を、いつまでも手元に置いておきたくない。
少し話したいこともあるので、気に入りの茶葉で紅茶を
まあ、淹れてしまったものは仕方がない。持っていくだけ、持っていくことにした。
「真白、入るぞ」
「ん、夏生? ……ってちょっと待て!」
軽くノックをして、返事を聞かずにノブをひねる。気が急いていたのかもしれない。
ドアを開けた先には、上半身だけ裸になった真白がいた。
どうやら風呂上がりだったようだ。しっとり濡れた髪の先から水滴が落ちて、首にかかったタオルへ吸い込まれていく。
「……なんだ、着替え中か」
それは悪いことをした。ズボンはしっかり穿いていたのが、せめてもの救いか。
すまない、と詫びながら部屋に入ってドアを閉めようとすると、真白がまた大きく叫んだ。あまりに
「うるさいな。さっさと着替えろ」
「いやいやいや、お前なんでそこで入ってくんの?!」
「紅茶が冷めるだろう」
真白は着替えを再開する様子もなく、ズボンを
「別に下半身を
「お前の常識がおかしいんだよ! うわーなっちゃんのバカー!」
誰がなっちゃんだと言い返す前に、真白はベッドの上のシャツを
私とて別に奴の半裸を観賞しに来たわけではないので、わざわざ追うような真似はしない。
近くにあったテーブルにティーポットを置き、棚から勝手にカップを出すことにした。
椅子に腰掛けて待っていると、着替えの済んだ真白が憮然とした顔で戻ってきた。
濡れたタオルをドア近くの洗濯
「お前ね……」
「砂糖とミルクは?」
何か言おうとするのを遮って、真白のカップに紅茶を注ぐ。
真白はしばらく両手で顔を覆っていたが、やがて大きくため息をついて顔を上げた。
「どっちもなしで。……それで、どうしたんだ?」
◇
「……晴人様に話したのか」
私が話し終えた後、真白は真顔になって呟いた。
いつもこのように真面目な顔をしていれば、年相応に見えるのだが。
「全部?」
「全部」
肯定すると、そうか、とだけ返される。
「……何か拙かったか?」
あまりに沈黙が長すぎるので不安になって問いかけると、真白はなんとも言い
「いや……晴人様が動くとなると、一気に状況が変わるなと思って」
「口外しないと約束はいただいたが」
「静観するとは言ってないだろ。……晴人様の立場からすれば、動かないわけにはいかないしな」
「……そうなのか?」
首を傾げると、真白は「あのな」と私に言い聞かせるような口調で話し始める。
「二歳の子供に借金負わせるのも、屋敷の使用人にするのもどうかと思うんだけどさ。二階から下りるの禁止とか、義務教育も受けさせてないってのは、はっきり言って異常なんだよ」
「異常……?」
「ああもうその反応がもう異常……。まあお前はそういうふうに育てられてきたから、それが普通なんだろうけどさあ」
……世間知らずの自覚はあるが、異常とまで言われる程だろうか。
「晴人様から見ても、お前の境遇はおかしく見えるはずだ。もっとはっきり言えば、法に触れてる可能性が高い。やったのが自分の親父だっていうなら、『何考えてんだ』って思うわな」
そこまで言って、真白はぬるくなった紅茶に口をつけた。
晴人様も、「父さんが何を考えてるのか分からないけど」と言っていたか。……「何とかしなきゃ」とも言っていたな、そういえば。
なるほど、おおむね真白の言う通りのようだ。晴人様は動くだろう。私の置かれる状況も、多かれ少なかれ変わるということか。
「あと、これもずっと気になってたんだけど。お前の親の借金って、本当にあるのか?」
「……どういう意味だ?」
言われた意味が理解できなくて、首をかしげた。
真白は構わず言葉を続ける。
「仮に借金があったとしても、まだ残ってるのか? 二階だけとはいえ晴人様付きなんだから、その辺の連中より高いはずだぞお前の給料。参考までに俺の手取り教えてやろうか?」
「いや、いい。どうせ分からないだろうから」
私は貨幣の価値をよく知らない。買い物をした経験どころか、金というものを実際に目にしたこともない。
物品の質の良し悪しなら分かるのだが……。
「そもそも、お前の親が死んだのってお前が二歳とかそのくらいの頃だろ? 後見人は? 他の親戚で遺産の相続権持ってるのは? そうだよ相続人が夏生だけとかおかしいだろ、仮に夏生だけだったとしても、役所だって物心つかない子供に負債背負わせるわきゃねえし……」
ブツブツと何かを呟き始めた真白に、心持ち上半身を引いた。こいつといい晴人様といい、今日はみんな様子がおかしい日だ。
なんとなく口を挟めない雰囲気なので、黙って自分の紅茶を飲んでいると。
不意に真白が独り言を止めて、すっと顔を上げた。
「……お前さ。もし借金がなくなったら、どうするんだ?」
珍しく真面目な声音で、真白が私に問うてくる。
――そんなこと、考えたこともなかった。
思ったことをそのまま答えると、真白は一気に脱力した表情になった。
「ほんとにお前はもう……。一生この屋敷で使用人やって過ごすつもりだったのかよ」
「そう言われても、私には財産も後見人も一般常識もないわけだし……」
そう言うと、真白は急に黙り込んでしまう。何かを考え込んでいるようなので、口を挟まず、カップに残る紅茶を飲み干した。
真白のカップが空になっているのに気付き、ポットの紅茶を注いでやる。
「……なあ、夏生」
「うん?」
少しして、真白が再び口を開いた。数分しか経っていないはずなのに、随分と久しぶりに声を聞いたように感じる。
自分のカップに残りの紅茶を注いで顔を上げると、どこか思い詰めたような彼の視線とぶつかった。
「どうしたんだ、深刻そうな顔で」
「うん、真面目な話」
真白の表情は変わらない。
「借金の心配がなくなって、旦那様の命令に従う必要がなくなってさ。それで、俺が一緒に外で暮らそうって言ったら……夏生は、ついてきてくれる?」
その言葉に、想像してしまった。
青い空の下、並んで歩く真白と私。
二人で街まで買い出しに出て、二人で家に帰ってくる。
私が作った料理を、真白が美味そうに平らげる。白米を食べる回数も増えるだろか。
冷蔵庫には真白の作った洋菓子があって、食後のテーブルに並ぶそれには、私の淹れた紅茶やコーヒーが添えられて。
ああ、それは――。
「……夢、みたいだな。楽しそうだ」
思わずそう口にすると、真白は眩しいものでも見るように目を細めた。
「今は、その言葉だけで我慢しとくよ」