三日目:王子様の詰問
文字数 3,110文字
自室に戻って入浴を済ませると、何か白くて小さなものがドアの下に落ちていた。
拾い上げてみると、四つに折り畳まれたメモ用紙だとわかる。
『本日の午後十一時、テラスにて待つ』
正方形の中心のあたりに、黒のボールペンで、そんな走り書きがしてあった。
差出人の署名も、宛名もない。もしかしたら、部屋を間違えているのかもしれなかった。
無視することもできるが……筆跡に見覚えがある。行こうと思った。
メモの主が私の予想通りなら、恐らく、さほど悪いことではないだろう。
紙を拾ったときと同じ四つ折りに戻して、テーブルの上に置く。
外に出ることがない私は、上着というものを持っていない。
夜のテラスはきっと寒いだろうから、真白に何か上着を借りてこなければ。
◇
午後の十時五十五分。
約束の時間の五分前だが、テラスから見えるのは、ぼんやりと外を見ている晴人様の背中だけだ。他には誰の姿も見えない。
テラスのドアを開けると、音で気づいたのか、晴人様が振り返った。
「あ、来たね」
「はい」
私は小さく頭を下げて、そっとテラスに出る。
……走り書きの字は、晴人様の筆跡によく似ていた。
「わざわざこんなメモなど仕込まなくても、一言お呼び頂ければ参りましたのに」
「就業時間外だろう? それに、個人的なことだからね」
来てくれてありがとう、と晴人様は微笑んだ。
私服のせいか、居心地が悪い。制服で来たほうが良かっただろうか。
せめてもの救いは、来る前に真白から借りたコートが黒一色だということだ。前をきちんと閉めれば、中の私服はほとんど見えない。見苦しくはないはずだ。
「あれ。そのコート……」
そのコートに晴人様が目を留める。
どこか変だろうか、と不安になったが、晴人様は曖昧に頷いただけだった。
「……結構いいやつだね。あまり着てないようだけど、長持ちすると思うよ」
「そうなのですか? 借り物なのですが……」
晴人様をして「いい品だ」と言わしめるとは。
真白は何でもないような顔で貸してくれたが、本当は大事なものだったんじゃないだろうか。あまり着ていないなら、普段は別の上着を着ているのだろうし……どうしてそんなものを私に貸したんだ?
「……さて、こんな回りくどい方法で君を呼び出した理由だけど」
晴人様の声が一気に真剣味を帯びたので、真白のことを一度頭から追い出す。
「君に、聞きたいことがあるんだ」
晴人様はそう前置きして、話し始めた。
「昨日の電話で、父さんから雪の正式な世話役をさっさと決めろって言われたよ。僕としては、このまま君に正式にお願いするつもりだったんだ。雪とも仲良くしているみたいだしね」
「……けれど、許されなかった?」
晴人様は頷いた。
「あと、君を一階に下ろしてはいけないとも言われたよ。理由は教えてくれなかった。考えてみたら今までだって、僕は君が一階にいるのを見たことがない」
それはそうだろう。下りたことがないのだから。
……というか旦那様、理由は言わなかったのか。それで晴人様に納得しろというのは、流石に無理があるんじゃないだろうか。
何も否定しない私を、晴人様がじっと見つめている。
すう、と息を吸う気配。
「――どういうことだ」
晴人様のこんなに低い声は、初めて聞いたかもしれない。
そんな感想を持ちながら、私は小さく息を吐いた。
今朝から晴人様の様子がおかしかったのは、恐らくこのことについて、あれこれと考えを巡らせていたのだろう。
もしくは、私を問いただすタイミングを見はからっていたか。
気がかりだったことが解決して、少し気分が軽くなった。
「晴人様は、私の身の上について旦那様からどこまで教えられましたか?」
「……今話したことくらいだよ」
「そうですか。……さぞかし困惑されただろうと、お察しいたします」
その点については、本心から同情している。訳が分からなかっただろう。
さて、どうしようか。
旦那様には、私の事情を誰にも話してはいけないと命じられている。
この言いつけを破ったのは、真白に打ち明けた一度きりだ。
必要だから話したのだが、もちろん、真白を信用していたというのもある。
――では、晴人様は?
「……旦那様からは、何も話してはいけないと言われております」
そう告げると、晴人様の表情が険しくなった。
彼が何か言おうと口を開く前に、「ですが」と続ける。
「ですが私は、晴人様にならお話してもいい気がいたします」
そう言って、私は晴人様にへらりと笑った。
目の前に鏡があれば、そこにはだらしのない顔をした私が映っているだろう。
……信じられない、わけがないのだ。
伊達 に三年間もお仕えしてきたわけではない。
この方がどれだけ誠実で、一途で、行動的かを、私はよく知っている。
それに、私がこれからもこの屋敷で働く以上、この若い主人は遠からずそれ を知ることになる。
旦那様は、既に六十を過ぎているのだ。屋敷の主人が晴人様になるのも、そう遠い未来ではない。
だったら今話してしまっても、知るのが少し早くなるだけだろう。
私の言葉に、晴人様は気が抜けたように、安堵したように、小さくため息をついた。
「どうしますか? 聞きますか?」
話していいと思ってはいるが、旦那様の意には反している。
真白はともかく、執事に知られるのは拙 い。彼に知られると、そのまま旦那様の耳に入る恐れがあった。
晴人様は一瞬怯 んだが、すぐにこちらを見返してくる。口元が、愉快そうに弧を描いていた。
「僕ね、実は見かけほどイイコじゃないんだ」
悪戯っぽく言われたその言葉に、昔見た光景が思い出されて、懐かしい気持ちになる。
「存じております。……お小さい頃に一度だけ、旦那様の言いつけを破って書斎に入ったことがあるでしょう?」
「え? ……えっ?!」
どうしてそれを、と。
晴人様の顔が驚きの色に染まるのを見て、私は思わず吹き出してしまった。
それから、私は全てを話した。
私の身の上――両親の借金のことも、二階から下りるなという旦那様からの命令も、真白が今まで私を助けてくれていたことも、全て。
晴人様は、おじいさま――私を育ててくれた老執事が、園山 という苗字であることを教えてくれた。今度は忘れずに、覚えておこうと思う。
「物心つかない子供に借金負わせるか……? いや、そもそも二十年近く働いて返せないって……」
晴人様はブツブツと呟きながら、何事かを考えている様子だった。
しばらく黙って待っていると、思考に区切りをつけたのか、大きくため息をついて私へ視線を戻す。
「父さんが何を考えてるのか分からないけど、これは何とかしなきゃね」
話が見えないが、晴人様の中では何らかの結論が出たらしい。
「話してくれてありがとう。こちらでも少し調べてみるよ」
「いえ。こちらこそ、気にかけて下さってありがとうございます」
晴人様は、このことを誰にも口外しないと約束してくれた。
真白は既に知っているから大丈夫だと訂正したが、明日の朝にでも、私から彼に言っておいたほうがいいだろう。
「雪の使用人の交代は、明日の昼食の後を予定してる。それまでは引き続き、彼女を頼むよ」
「かしこまりました」
晴人様がテラスを去るのを見送って、私は小さく息をつく。
――私が雪様のお傍にいられるのは、明日の昼まで。
改めて言われると胸のあたりがつきんと痛むが、落ち込んでいても仕方がない。
コートのポケットに入れていた懐中時計を取り出した。もうすぐ、日付が変わってしまう。
あと、十二時間。昼までに、この未練を断たなくてはならない。
私が雪様にして差し上げられることは、もうそんなに多くないのだ。
拾い上げてみると、四つに折り畳まれたメモ用紙だとわかる。
『本日の午後十一時、テラスにて待つ』
正方形の中心のあたりに、黒のボールペンで、そんな走り書きがしてあった。
差出人の署名も、宛名もない。もしかしたら、部屋を間違えているのかもしれなかった。
無視することもできるが……筆跡に見覚えがある。行こうと思った。
メモの主が私の予想通りなら、恐らく、さほど悪いことではないだろう。
紙を拾ったときと同じ四つ折りに戻して、テーブルの上に置く。
外に出ることがない私は、上着というものを持っていない。
夜のテラスはきっと寒いだろうから、真白に何か上着を借りてこなければ。
◇
午後の十時五十五分。
約束の時間の五分前だが、テラスから見えるのは、ぼんやりと外を見ている晴人様の背中だけだ。他には誰の姿も見えない。
テラスのドアを開けると、音で気づいたのか、晴人様が振り返った。
「あ、来たね」
「はい」
私は小さく頭を下げて、そっとテラスに出る。
……走り書きの字は、晴人様の筆跡によく似ていた。
「わざわざこんなメモなど仕込まなくても、一言お呼び頂ければ参りましたのに」
「就業時間外だろう? それに、個人的なことだからね」
来てくれてありがとう、と晴人様は微笑んだ。
私服のせいか、居心地が悪い。制服で来たほうが良かっただろうか。
せめてもの救いは、来る前に真白から借りたコートが黒一色だということだ。前をきちんと閉めれば、中の私服はほとんど見えない。見苦しくはないはずだ。
「あれ。そのコート……」
そのコートに晴人様が目を留める。
どこか変だろうか、と不安になったが、晴人様は曖昧に頷いただけだった。
「……結構いいやつだね。あまり着てないようだけど、長持ちすると思うよ」
「そうなのですか? 借り物なのですが……」
晴人様をして「いい品だ」と言わしめるとは。
真白は何でもないような顔で貸してくれたが、本当は大事なものだったんじゃないだろうか。あまり着ていないなら、普段は別の上着を着ているのだろうし……どうしてそんなものを私に貸したんだ?
「……さて、こんな回りくどい方法で君を呼び出した理由だけど」
晴人様の声が一気に真剣味を帯びたので、真白のことを一度頭から追い出す。
「君に、聞きたいことがあるんだ」
晴人様はそう前置きして、話し始めた。
「昨日の電話で、父さんから雪の正式な世話役をさっさと決めろって言われたよ。僕としては、このまま君に正式にお願いするつもりだったんだ。雪とも仲良くしているみたいだしね」
「……けれど、許されなかった?」
晴人様は頷いた。
「あと、君を一階に下ろしてはいけないとも言われたよ。理由は教えてくれなかった。考えてみたら今までだって、僕は君が一階にいるのを見たことがない」
それはそうだろう。下りたことがないのだから。
……というか旦那様、理由は言わなかったのか。それで晴人様に納得しろというのは、流石に無理があるんじゃないだろうか。
何も否定しない私を、晴人様がじっと見つめている。
すう、と息を吸う気配。
「――どういうことだ」
晴人様のこんなに低い声は、初めて聞いたかもしれない。
そんな感想を持ちながら、私は小さく息を吐いた。
今朝から晴人様の様子がおかしかったのは、恐らくこのことについて、あれこれと考えを巡らせていたのだろう。
もしくは、私を問いただすタイミングを見はからっていたか。
気がかりだったことが解決して、少し気分が軽くなった。
「晴人様は、私の身の上について旦那様からどこまで教えられましたか?」
「……今話したことくらいだよ」
「そうですか。……さぞかし困惑されただろうと、お察しいたします」
その点については、本心から同情している。訳が分からなかっただろう。
さて、どうしようか。
旦那様には、私の事情を誰にも話してはいけないと命じられている。
この言いつけを破ったのは、真白に打ち明けた一度きりだ。
必要だから話したのだが、もちろん、真白を信用していたというのもある。
――では、晴人様は?
「……旦那様からは、何も話してはいけないと言われております」
そう告げると、晴人様の表情が険しくなった。
彼が何か言おうと口を開く前に、「ですが」と続ける。
「ですが私は、晴人様にならお話してもいい気がいたします」
そう言って、私は晴人様にへらりと笑った。
目の前に鏡があれば、そこにはだらしのない顔をした私が映っているだろう。
……信じられない、わけがないのだ。
この方がどれだけ誠実で、一途で、行動的かを、私はよく知っている。
それに、私がこれからもこの屋敷で働く以上、この若い主人は遠からず
旦那様は、既に六十を過ぎているのだ。屋敷の主人が晴人様になるのも、そう遠い未来ではない。
だったら今話してしまっても、知るのが少し早くなるだけだろう。
私の言葉に、晴人様は気が抜けたように、安堵したように、小さくため息をついた。
「どうしますか? 聞きますか?」
話していいと思ってはいるが、旦那様の意には反している。
真白はともかく、執事に知られるのは
晴人様は一瞬
「僕ね、実は見かけほどイイコじゃないんだ」
悪戯っぽく言われたその言葉に、昔見た光景が思い出されて、懐かしい気持ちになる。
「存じております。……お小さい頃に一度だけ、旦那様の言いつけを破って書斎に入ったことがあるでしょう?」
「え? ……えっ?!」
どうしてそれを、と。
晴人様の顔が驚きの色に染まるのを見て、私は思わず吹き出してしまった。
それから、私は全てを話した。
私の身の上――両親の借金のことも、二階から下りるなという旦那様からの命令も、真白が今まで私を助けてくれていたことも、全て。
晴人様は、おじいさま――私を育ててくれた老執事が、
「物心つかない子供に借金負わせるか……? いや、そもそも二十年近く働いて返せないって……」
晴人様はブツブツと呟きながら、何事かを考えている様子だった。
しばらく黙って待っていると、思考に区切りをつけたのか、大きくため息をついて私へ視線を戻す。
「父さんが何を考えてるのか分からないけど、これは何とかしなきゃね」
話が見えないが、晴人様の中では何らかの結論が出たらしい。
「話してくれてありがとう。こちらでも少し調べてみるよ」
「いえ。こちらこそ、気にかけて下さってありがとうございます」
晴人様は、このことを誰にも口外しないと約束してくれた。
真白は既に知っているから大丈夫だと訂正したが、明日の朝にでも、私から彼に言っておいたほうがいいだろう。
「雪の使用人の交代は、明日の昼食の後を予定してる。それまでは引き続き、彼女を頼むよ」
「かしこまりました」
晴人様がテラスを去るのを見送って、私は小さく息をつく。
――私が雪様のお傍にいられるのは、明日の昼まで。
改めて言われると胸のあたりがつきんと痛むが、落ち込んでいても仕方がない。
コートのポケットに入れていた懐中時計を取り出した。もうすぐ、日付が変わってしまう。
あと、十二時間。昼までに、この未練を断たなくてはならない。
私が雪様にして差し上げられることは、もうそんなに多くないのだ。