プロローグ:庄司夏生の身の上話

文字数 1,087文字

 今から二十年と少し前。一組の若い夫婦が、交通事故でこの世を去った。
 二歳かそこらの小さな子供と、多額の借金を残して。

 彼らが何の仕事をしていたのかは知らないし、何のための借金だったのかも分からない。
 私にとって重要なのは、彼らの死後に土地や家財をほとんど売り払って、それでも借金がいくらか残ってしまったという事実のほうだった。

 夫婦に金を貸していた人は、残された子供を自分の屋敷に迎えることにした。
 両親が返しきれなかった金を返すために、お前がこの屋敷で働くのだと言って。

 私の名前は庄司(しょうじ)夏生(なつき)
 借金の担保(かた)として引き取られた、当時二歳の子供である。



 屋敷に来たその日から、私は一階に下りることを禁じられた。
 逃亡を防ぐためだと教えられているが――正直、馬鹿げた心配だと思う。口にしたことはないが。
 だって仮にここから逃げ出したとして、外のことを何ひとつ知らない私が、どうやって生きていける? 両親はすでにこの世におらず、頼れる親類にも心当たりはない。この屋敷以外に行き場などないのだ、出て行けと言われる方が困る。
 生活に必要な設備も、ひと通り二階に揃っているので、特に不自由はない。一階の仕事ができないのが、少々不便なくらいか。

 屋敷に来たのは幼稚園に上がる前で、学校に行くこともなかった。
 文字の読み書きや数の計算は、当時の執事から、使用人としての作法と一緒に教えてもらった。
 彼が何という名前だったのかは覚えていない。おじいさま、と呼んでいたことだけ覚えている。

 五歳くらいの頃だったように思う。
 その執事(おじいさま)が一度だけ、私に「辛くはないか」と問うてきたことがあった。
 彼が何を指してそう言ったのか理解ができず、特に辛いと思うこともなかったので首を横に振ると、「そうか」と頷いて私の頭を撫でた。
 あの時の言葉が何を指していたのか、未だによく分からないでいる。

 しかし、理解できたとしても、私は首を横に振っただろう。
 五歳にもなれば、両親が死んだという事実を飲み込むことくらいはできる。
 それに……ちょうどその頃、両親と過ごした年数を、おじいさまと過ごした年数が越えようとしていた。我ながら薄情な話だが、まあ、そういうことだ。



 やがておじいさまが執事を引退して屋敷を去り、私と共に過ごすのは歳の近い同僚になった。
 雇い主は変わらず旦那様――おじいさまにそう呼べと言われた――のままだが、直接お仕えするのはそのご令息に変わった。

 屋敷の二階。
 よく磨かれた床と古い匂いのする壁、窓の外に広がる空と庭。
 それが、私の知る世界の全てだった。

 ――あの、年明け間もない冬の日までは。
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登場人物紹介

庄司 夏生(しょうじ・なつき)

23歳 使用人

主人公。幼少時に他界した両親の借金を背負い、綾部家に引き取られた。

屋敷の主人から、「他人に身の上を話すこと」「屋敷の一階へ下りること」を禁止されている。

綾部 晴人(あやべ・はると)

23歳 会社役員

屋敷の主人の一人息子。夏生の身の上については知らされていない。

婚約者の雪を大切にしており、使用人たちにも気さくに振舞う。穏やかな人格者。

八束 雪(やつか・きよみ)

22歳 大学生

晴人の婚約者。八束家のお嬢様で、忠の妹。晴人にとっても従妹にあたる。

結婚に先立って、綾部の屋敷に住むことになった。好奇心が強め。

都築 真白(つづき・ましろ)

23歳 使用人

晴人付きの使用人。夏生の同僚で、よく世話を焼いてくる。

性格は明朗快活。趣味は洋菓子作り。

八束 忠(やつか・ただし)

25歳 会社役員

八束家の跡取り息子。雪の兄、晴人の従兄にあたる。

やや気難しい性格で、真白への当たりが強め。シスコン。

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