四日目:階段上の

文字数 2,468文字

 燃え尽きて灰になった絨毯の上に座り込む。
 周囲の温度と裏腹に、窓から見える空は寒々しい色をしていた。

「……きよみ、さま」

 お慕いしております。
 お慕いして、おりました。

 紅茶の水面のように、美しい人間(ひと)だった。
 紅茶の水面よりも美しい人間(ひと)を見たのは、初めてだった。

 この手が届かない方なのだと、最初から分かっていた。

 王子様になりたかったわけじゃない。
 王子様に、渡したくなかっただけなのだ。

 美しさに奪われた心と、その独占欲を恋と呼ぶのなら――。
 あれは確かに、私の初恋だったのだろう。



 思考がまとまらない。
 近くの天井が燃え落ちる。



 あの時、あと少しだけ私に勇気があって。
 階段を飛び降りることができたら、どうなっていただろう。

 雪様を悲しませずに済んだだろうか。
 旦那様の怒りを買っただろうか。

 ――ああ、そういえば。

 借金がなくなったら、一緒に外で暮らそうと。
 真白とそんな話をしたのは、昨日の夜だったか。
 もしかしたら、あの階段の先には、そんな未来もあったのかもしれない。

 つう、と頬を何かが伝う感覚がした。指で触れると、濡れている。
 泣いているのだと理解した瞬間、私は思わず笑ってしまった。
 私は案外、本気であの未来が欲しかったのかもしれない……こうして、泣いてしまうほどに。

 今になって自覚したって、もう遅いのだが。

「馬鹿だな、私は」
「本当にな」

 重ねられた、声が。
 誰の声かを悟ると同時、目の前に見慣れた革靴の先。



「泣くくらいなら『助けて』の一言くらい叫べよ、バカ」



 見上げると、汗ばんだ真白の顔があった。
 息が乱れている。しゃがみこんだ肩に触れると、周囲の熱気とは異なる熱がこもっていた。

 どうして。わざわざ別の階段を使ってまで、戻ってくることはないのに。
 火の粉が当たったのか、頬が一部赤くなっていた。
 それを目にして、また視界がぼやける。

「ま、しろ」

 搾り出すように名前を呼んだ。
 瞬きの所為で頬が濡れ、すぐに乾いて肌が引きつる。
 真白はしかめっ面を緩めると、ぐい、と私の身体を引き寄せた。

「ちょっと(つか)まってて」

 言われるまま、目の前の首にしがみつく。
 真白の腕が腰と膝に回って、抱き上げられた。
 触れたところが熱い。

「そのまま離すなよ!」

 私を抱えたまま、真白は廊下を走りだした。
 わざわざ私を抱えて走る必要は――そういえば、靴を片方()くしてしまったのだったか。硝子の破片も散らばっているし、彼には悪いが抱えてもらっていたほうが良さそうだ。

 天井が炎で赤くなっている。
 絨毯だった燃え滓を、真白が容赦なく踏みつけて走っていく。

 遠く、何か大きなものが崩れるような轟音がした。
 真白の来た方向だ。彼が使った階段ではないだろうか――考えて、また涙が出た。
 だって、じゃあ、真白はどこから逃げればいい?

 私は涙を流しながら、真白の首にしがみついて、彼の荒い息(づか)いを聞いていた。



 テラスに出る扉を、真白の靴が蹴り開ける。

 外の空気は冷たかった。火照った全身が一気に冷やされ、寒いほどだ。
 真白に触れているところだけが、ただ熱を持っている。

「掴まってろ!」

 そう言って、真白が走り出す。
 ――どこへ?



 真白の意図を察したときには。
 既に、私たちの体は宙に浮いていた。



 重力に従って落ちる。
 悲鳴すら出ない。
 真白の腕に力がこもった。
 彼の肩口に顔を埋める。



「――ぐえっ」

 頭上から蛙のような声がした。次いで、げほげほと咳き込む音。
 身体の下のぬくもりが、それに合わせて揺れた。

「だ、大丈夫か?」

 私は慌てて身を起こした。咳き込む真白の上に、いつまでも乗っかっているわけにはいかない。

 真白から離れたことで、視界が広がる。
 ここは――いつだったか真白が水やりをしていた、菜園の土の上か?

 私の下敷きになっていた真白が、ゆっくりと起き上がる。

「夏生、怪我は?」
「真白こそ」
「俺は平気だよ、こんくらい」

 二階から落ちてこのくらいも何もないと思うのだが。
 真白は髪に付いた土を軽く払うと、薄く笑って私の後方を見上げた。

「それより夏生、後ろ見てみ?」
「え?」

 言われるままに後ろを見る。

 大きな建物が、空に(おお)(かぶ)さるように建っていた。
 二階の窓から、赤い炎がごうごうと噴き出している――ついさっきまで、私たちがいた場所だ。

 ぞくりと、背筋を寒気が走った。

 ぶるりと震える私の肩を、真白がその手で包んでくれる。
 冷えた空気と土の中、その体温だけが暖かい。

「お前、屋敷の外にいるんだよ」

 声が降ってくる。顔を上げると、燃える屋敷を見て目を細める彼の横顔があった。

 真白の肩越しに周囲を見回す。
 いつも、窓から見下ろしていた風景のはずだ。
 それとよく似ている、しかし決定的に異なる風景が、眼前に広がっていた。

 指先に湿った土の感触。
 天井がない。
 遠くまで続く景色。

 真白の来た、外の世界。
 いつか暮らそうと言ってくれた世界だ。

「なあ、夏生」

 名を呼ばれ、再び顔を上げると、真剣な表情をした真白と目が合った。

「このまま連れて行っていいか?」

 問いかける目は深い色をしていて、底が見えない。
 言葉を理解するまでに、何故だか結構な時間がかかった。
 理解してからも、何の反応も返せない。

「昨日した話、夢じゃなくて本当にしたい。借金がまだ残ってても、俺がどうにかする。必要なら旦那様と話だってつけてやる。生活は……ちょっと苦労させるかもしれないけどさ」
「え、っと」
「……本当はちゃんと待とうと思ってたんだ。でも、やっぱ駄目だ。このまま屋敷(ここ)にいたら、お前、いつか一歩も動けなくなる」

 言い募る真白の、焦げ茶色の瞳孔に、ぽかんと口を半開きにした間抜けな顔が映っている。

「外で一緒に暮らそう、夏生。――そんで気が向いたら、俺の嫁さんになってくんない?」

 言葉を頭が理解した途端、頬が熱くなった。
 心臓が柔らかく跳ねて、目の奥が熱を持つ。
 何故だか、無性に泣きたくて仕方がない。

 真白の瞳の中で間抜けな顔をしていた黒髪の女が、いつの間にか頬を染めていた。
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登場人物紹介

庄司 夏生(しょうじ・なつき)

23歳 使用人

主人公。幼少時に他界した両親の借金を背負い、綾部家に引き取られた。

屋敷の主人から、「他人に身の上を話すこと」「屋敷の一階へ下りること」を禁止されている。

綾部 晴人(あやべ・はると)

23歳 会社役員

屋敷の主人の一人息子。夏生の身の上については知らされていない。

婚約者の雪を大切にしており、使用人たちにも気さくに振舞う。穏やかな人格者。

八束 雪(やつか・きよみ)

22歳 大学生

晴人の婚約者。八束家のお嬢様で、忠の妹。晴人にとっても従妹にあたる。

結婚に先立って、綾部の屋敷に住むことになった。好奇心が強め。

都築 真白(つづき・ましろ)

23歳 使用人

晴人付きの使用人。夏生の同僚で、よく世話を焼いてくる。

性格は明朗快活。趣味は洋菓子作り。

八束 忠(やつか・ただし)

25歳 会社役員

八束家の跡取り息子。雪の兄、晴人の従兄にあたる。

やや気難しい性格で、真白への当たりが強め。シスコン。

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