四日目:世界の終わりは突然に
文字数 3,311文字
白銀の糸が、濃紺のハンカチに雪の結晶を縫いとっていく。
私はそれをぼんやりと眺めながら、紅茶を
刺繍をしているハンカチは、明らかに男物だ。そんなものに刺繍を施す理由など、考えればすぐに分かってしまう。
あまり愉快な気分にはならないので、極力考えないようにした。
唯一音を立てるのは、メトロノームのように一定のリズムを刻むアナログ時計。
「お茶を淹れて参りますが、次は別の茶葉になさいますか?」
タイミングを見計らって声をお掛けすると、雪様はハンカチから顔を上げた。
思案するように、少し首を傾げる仕草がお可愛らしい。
「そうね……フレーバーだったら何があるかしら」
「アールグレイ、レディグレイ、ローズティーはご用意できます。一昨日お出ししたアップルティーも」
「それなら、ローズティーを。……そろそろお昼だし、一杯分でいいわ」
「かしこまりました」
空になったティーポットを持ち上げて、私は部屋を出た。
◇
使用人用の簡易キッチンに向かう途中、ふと違和感を覚えて足を止めた。
――屋敷の様子がおかしい。
ざわざわと、階下から波のようなざわめきがあった。
冬だというのに不自然に暑い。
何かの弾けるような音。
焦げ臭い。
前方から、足音が近づいてくる。
「庄司!」
少しでもバランスを崩せば転んでしまいそうな勢いで、血相を変えた執事が駆けてきた。
どたばた足音を立てて廊下を走るなど、いつもの彼らしくない。
私の前で立ち止まった執事は、息を切らしながら喘ぐように言った。
「か、火事、だ……!」
私は目を見開いた。
呼吸を整えながら執事が言うには、厨房が出火元らしい。
出火からそれほど時間が経っておらず、今なら正面玄関から外に逃げられるだろうとのことだった。
「私は晴人様のところへ行く。お前は雪様を避難させろ」
私にそう言い放つと、執事は再び駆け出して、廊下の曲がり角に消えていく。
ティーポットを持ったまま、私もその場で
――雪様のもとへ、戻らなければ。
走っているうちに、廊下の空気が熱を帯びてくる。冬で乾燥しているせいか、火の回りが早い。
今踏みしめている絨毯だって、一度火がついてしまえば、一気に燃えるに違いない。
息を切らして、雪様の部屋のドアを開ける。
窓際のテーブルから、雪様がきょとんとしたお顔でこちらを見ていた。
「夏生?」
「火事です」
雪様の表情がさっと引き締まる。
「避難ね?」
「はい」
私が頷くと、雪様はご自分で椅子から立ち上がった。
こちらへ早足に歩きながら、膝にかけていたストールを頭に
「夏生が三つ編みにしてくれてて良かったわ」
「私も、今朝の自分を褒めてやりたい気分です」
お互いに強張った顔で笑い合って、雪様の手を取る。
空のティーポットは、近くのテーブルに置いた。持っていても邪魔なだけだ。
「避難経路は?」
「部屋を出たら右へ。玄関ロビーの階段を下りて、そのまま外へ出てください」
屋敷の見取り図を頭の中に描きながら、執事から指示された経路をお伝えする。
出火元である厨房は、一階の端にある。玄関ロビーは中央なので、まだ無事なはずだ。とはいえ、あまり時間的な余裕はないだろう。
開けっ放しだったドアから廊下へ出ると、熱気がぶわりと肌を
炎はまだ見えないが、この様子では火の回りは早そうだ。ぱちぱちと火の爆ぜる音が、心なしか、先程よりも近くに聞こえる気がする。
「……わずかですが、火の粉が飛んでいますね。雪様、ストールをしっかり被っていてください」
「ええ、分かったわ」
私も制服のベストを脱ぎ、頭から被った。
視界が制限されるのは痛いが、顔を負傷するのはもっと拙い。目や耳をやられれば、何も分からなくなってしまう。
「行きましょう!」
雪様の手を引いて、私は廊下を小走りに進んだ。
絨毯、カーテン、ランプシェード。
調度品の多さが災いしてか、屋敷の内側はどんどん燃えていく。
ふと後ろを振り返ると、廊下に敷かれた絨毯が、炎の中に消えていた。
私の育った世界が、炎に削られていく。
「夏生、どうしたの?」
雪様のお声で我に返り、私は再び前を向いた。
◇
玄関前の階段にたどり着く。
片側――厨房側の手すりが、燃えて黒く焦げていた。ぎりぎり間に合ったようだ。
燃えていない手すりのほうへ寄って、雪様を支えながら階段を下りていく。
『一階に下りることは許可しない』
「……っ」
頭の中で、旦那様が命じた。反射的に足が止まる。
階段を下りる速度が落ちて、雪様が不安げな顔で私を見た。
無理やりに足を動かす。
『戻れ』
うるさい。
『許可しない』
うるさい。
『お前はこの屋敷の――』
知ったことか。
「――雪!」
晴人様の声がした。階段の下から、こちらを見上げている。
その後ろには、忠様と真白の姿もあった。
「晴人!」
晴人様へ駆け寄ろうとした雪様に引っ張られ、階段を駆け下りる。
ある段を踏んだときに妙な感覚があり、嫌な予感が胸を
「……っ!」
「きゃあっ!!」
予感に後押しされるように、雪様の背を力いっぱい突き飛ばす。
雪様の華奢な体が、階段の上に投げ出される。
「雪!!」
晴人様が必死な顔で駆け寄って、雪様を抱き留めた。勢いを殺しきれず後ろに倒れかけたのを、忠様と真白が支える。
――ああ、よかった。
それを見届けた直後、私の足元が酷い音を立てて崩れ落ちた。
「夏生!」
悲鳴のような、甲高い声がした。
階下を見ると、晴人様の腕の中から、雪様がこちらを見上げている。
目の前にあった階段は、私の手前で途切れていた。
どうやら、階段の下にある支柱が先にやられたらしい。
雪様を突き飛ばした反動でなんとか落ちずに済んだが、靴が片方脱げてしまった。見当たらないので、おそらく階下へ落ちてしまったのだろう。
ぎしりと木の軋む音がする。この位置も、いつ崩れるか分からない。
飛び降りようと思えば、飛び降りられる高さでしかないはずだ。
しかし、先程まで跳ね除けていられた旦那様の声が、命令が、今になって全身にまとわりついてくる。
私はこの先へと進むことができないと。
この屋敷と共に、燃えて失せる運命なのだと。
私は静かに首を横に振った。
これ以上、雪様を私などに付き合わせてはいけない。
忠様が苦い顔をして、振り切るように背を向ける。手を引かれて、雪様が信じられないと言わんばかりに目を見開いた。
執事に呼ばれ、晴人様も背を向けて――反対に、こちらに歩いてくる男が一人。
「……真白」
階段だった瓦礫の山を、真白が登ってくる。
怒ったような顔をして、こちらを睨みつけていた。
その表情がやたらと子供じみて見えて、早く逃げろと怒鳴るよりも先に笑ってしまう。
見上げる視線をそのままに、真白が唇を噛み締める。
周囲の空気は、既にかなりの温度に達していた。
目元の皮膚が乾いてぴりぴりと痛む。
背後で、火の粉が爆ぜる音。
「夏生」
両手が、差し出された。
「飛び降りろ。受け止めてやるから」
火の粉を払おうともせずに、真白は腕を広げて立っている。
何かを思うより先に、目が水分を持った。
今の私は、きっと、ひどく情けない顔をしているのだろう。
最期に見せる顔がこんな顔だというのも情けないが、今更どうしようもない。
私は意識して微笑みをつくり、首を横に振った。
ぐしゃりと真白の顔が歪む。
彼にしては珍しい眉間の皺は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも取れた。
だって仕方がないじゃないか。
足が動かないんだ。
階段を降りようとした途端、その階段が崩れるなんて。
もう、私にそんな未来はないのだと言われているようなものじゃないか。
真白はしばらく私を睨みつけていたが、やがて、差し上げた両手を握りしめてその場を走り去った。
それでいい。そのまま、外に逃げてくれればいい。
真白の姿が見えなくなるまで見送ってから、私はずるずると階段を這い上がっていった。