エピローグ:恋に下りていく
文字数 2,622文字
あの火災から数日後。
綾部の屋敷はかろうじて全焼を免れたものの、とても住める状態ではなくなってしまった。
無事だったのは、出火元から一番遠い位置にあった書斎と、その周辺の数室程度。その他は多かれ少なかれ損傷がある。
そういうわけで、晴人様と私たち住み込みの使用人たちは、近隣のホテルに身を寄せていた。
あの日、忠 様についてきていた八束の社員や使用人たちには、綾部への連絡やホテルの手配で随分と骨を折ってもらったと聞く。
雪 様は八束の家にまだ部屋が残っていたので、晴人様から忠様に頼んで、ご実家に戻って頂くことになった。
話し合いには私と真白も立ち会ったのだが……雪様が手のつけられないほどお怒りになって、説得にはひどく苦労した。
まず私。ひどく心配をおかけしたようで、顔を見た瞬間に頬をひっぱたかれ、その直後、胸に縋 りつかれてわんわん泣かれた。
真白。助けに行くのはいいが、ひと言くらい言ってから行けと怒られた。いきなり姿を消したため、やはり心配をおかけしたらしい。
忠様は、私を置いて行こうとしたことを、泣きながら責められていた。……あの場で一番冷静だったのは忠様だろうに、気の毒なことだ。
そして晴人様。雪様をご実家に戻そうとして、激しく抵抗されていた。最終的に折れたのは、雪様のほうだったが。
……やはり、雪様にはこの方でないと駄目なのだ。そう思ったが、以前ほど胸は痛まなかった。
ちなみに出張中の旦那さまと奥様は、火事の連絡を受けて、慌ててこちらに戻っているそうだ。
とはいえ海外なので、こちらに到着するまでには数日かかるだろう。
「――というわけで、本日付けで庄司君を退職させます。これ退職届ね、こっちに署名 して」
「はあ……」
どういうわけだろう。
そう思ったが、ひとまず差し出された書類に署名欄があったので、いつも胸元に差しているペンを取り出す。
ペン先が紙面に触れる直前、晴人様の手が書類を引き下げた。
「よく分かってないのに、言われるままサインをしない」
「しろと言われましたので……」
「ああああもおおお」
晴人様が両手でぐしゃぐしゃと髪をかき回す。
部屋の隅では、忠様が額を押さえていた。……どうして綾部の人事に立ち会っているんだろう。
「……都築君お願いね、本当に」
「ああ、はい。お任せください」
両手で顔を覆った晴人様に言われて、その後ろに控えている真白が苦笑する。
それで気が済んだのか、ふう、と息を吐いて、晴人様が顔を上げた。
その目の下に、うっすらと隈がある。随分とお疲れのようだ。慣れないホテルでよく眠れていないのだろうか。
ご実家に戻った雪様は大丈夫だろうか――と意識が他に向きかけたところで、晴人様がぱちんと手を打ち合わせた。
「どういうわけか説明させてね」
はい、という返事以外を受け付けていない口調だった。
私が自分の身の上をお話した直後から、晴人様は私の置かれている状況を確認しようと動いていたそうだ。
具体的には、借金の有無や返済状況、私の戸籍が現在どうなっているか、といったことらしい。
その際に忠様の手も借りたので、忠様は大まかな私の事情を察してしまわれたという。
まあ、これは仕方がないだろう。忠様は鋭いお方だし、私よりもずっと頭の出来はいいはずなのだから、そういうこともあり得る。
そう言ったら、今度は真白が思い切りため息をついた。こいつは本当に、忠様への態度が悪いな……。
その調査の結果、借金はどれだけ長く見積もっても六年前には返済が済んでいるはず、と判明したのだそうだ。
つまり、それ以降も私を屋敷に留めておくのは法的に問題がある。そういうことらしい。
「二階から下ろさないとか学校に行かせないとかも、もちろん問題なんだけどね」
そこで晴人様は立ち上がり、正面に座る私に深く頭を下げた。
「――父が、申し訳ありませんでした。あなたの貴重な時間を奪ったこと、深くお詫び申し上げます」
「いえ、そんな……!」
晴人様に、こんな謝罪をされる理由はない。
頭を上げてもらおうとして、後ろに立つ真白と目が合った。
うけてやれ、とその唇が動く。
「……お受け、いたします」
これでいいだろうか。早く頭を上げてほしい。
やがて私の内心が伝わったのか、晴人様がゆっくりと頭を上げる。
「困らせてごめんね。でも僕はこれから、この件を大事 にしないために色々とうやむやにするわけだから……。けじめとして、頭くらいは下げないと」
「私としても、綾部の皆様を困らせるのは本意ではありません。晴人様の良いようになさってください」
私の言葉に晴人様は困ったような顔をしたが、何かを飲み込むような表情で「ありがとう」と言った。
「……で、庄司君の退職に話を戻すけど。これは父さんが素直に君 を手放さない可能性を考えて、ひとまず君の自由を確保するのが目的。父さんが戻ってくる前なら、僕が雇用主代理として手続きできるから」
「あの、加藤さんは」
「今日は休みを取らせてある。だから今、この話をしてるんだけどね」
次に、晴人様は後ろに立つ真白を振り返る。
「都築君の退職届も、後は受理するだけの状態にしてある。当面の生活は彼に面倒見てもらって……ああ、庄司君の未払いの給料と退職金は確保しておくから、口座作ったら教えてね」
「はい」
「他に聞いておきたいことはあるかな? ……納得できるようなら、改めて退職届 にサインを」
頷いて、今度こそ退職届にサインをする。
これを書き終えたら、私は外の世界に出ていくことになる。
一人では、きっと書けなかっただろう。「捨てないでくれ」「放り出さないでくれ」と晴人様に縋ったかもしれない。
でも、真白が一緒に暮らそうと言った。
真白と外で暮らしてみたいと思った。
真白の言葉を、疑う理由もなかった。
サインを、書き終える。
「夏生」
いつの間にか隣に来ていた真白が、そっと私の手を取った。
引かれるままに立ち上がると、焦げ茶色の瞳の奥が揺れている。
「――絶対に、嫌な思いはさせないから」
「うん」
今はまだ、頷くしかできない。
私の心はまだ定まっていなくて、真白もきっとそれは分かっていて。
だからまだ、肝心の言葉をもらっていない。
好きだよと、言ってもらえる日はいつだろうか。
好きだよと、言ってしまえる日は、きっとそんなに遠くない。
「連れて行かれるのは、嫌じゃないよ」
この人を好きになりたいと、私はそう思っているのだから。
綾部の屋敷はかろうじて全焼を免れたものの、とても住める状態ではなくなってしまった。
無事だったのは、出火元から一番遠い位置にあった書斎と、その周辺の数室程度。その他は多かれ少なかれ損傷がある。
そういうわけで、晴人様と私たち住み込みの使用人たちは、近隣のホテルに身を寄せていた。
あの日、
話し合いには私と真白も立ち会ったのだが……雪様が手のつけられないほどお怒りになって、説得にはひどく苦労した。
まず私。ひどく心配をおかけしたようで、顔を見た瞬間に頬をひっぱたかれ、その直後、胸に
真白。助けに行くのはいいが、ひと言くらい言ってから行けと怒られた。いきなり姿を消したため、やはり心配をおかけしたらしい。
忠様は、私を置いて行こうとしたことを、泣きながら責められていた。……あの場で一番冷静だったのは忠様だろうに、気の毒なことだ。
そして晴人様。雪様をご実家に戻そうとして、激しく抵抗されていた。最終的に折れたのは、雪様のほうだったが。
……やはり、雪様にはこの方でないと駄目なのだ。そう思ったが、以前ほど胸は痛まなかった。
ちなみに出張中の旦那さまと奥様は、火事の連絡を受けて、慌ててこちらに戻っているそうだ。
とはいえ海外なので、こちらに到着するまでには数日かかるだろう。
「――というわけで、本日付けで庄司君を退職させます。これ退職届ね、こっちに
「はあ……」
どういうわけだろう。
そう思ったが、ひとまず差し出された書類に署名欄があったので、いつも胸元に差しているペンを取り出す。
ペン先が紙面に触れる直前、晴人様の手が書類を引き下げた。
「よく分かってないのに、言われるままサインをしない」
「しろと言われましたので……」
「ああああもおおお」
晴人様が両手でぐしゃぐしゃと髪をかき回す。
部屋の隅では、忠様が額を押さえていた。……どうして綾部の人事に立ち会っているんだろう。
「……都築君お願いね、本当に」
「ああ、はい。お任せください」
両手で顔を覆った晴人様に言われて、その後ろに控えている真白が苦笑する。
それで気が済んだのか、ふう、と息を吐いて、晴人様が顔を上げた。
その目の下に、うっすらと隈がある。随分とお疲れのようだ。慣れないホテルでよく眠れていないのだろうか。
ご実家に戻った雪様は大丈夫だろうか――と意識が他に向きかけたところで、晴人様がぱちんと手を打ち合わせた。
「どういうわけか説明させてね」
はい、という返事以外を受け付けていない口調だった。
私が自分の身の上をお話した直後から、晴人様は私の置かれている状況を確認しようと動いていたそうだ。
具体的には、借金の有無や返済状況、私の戸籍が現在どうなっているか、といったことらしい。
その際に忠様の手も借りたので、忠様は大まかな私の事情を察してしまわれたという。
まあ、これは仕方がないだろう。忠様は鋭いお方だし、私よりもずっと頭の出来はいいはずなのだから、そういうこともあり得る。
そう言ったら、今度は真白が思い切りため息をついた。こいつは本当に、忠様への態度が悪いな……。
その調査の結果、借金はどれだけ長く見積もっても六年前には返済が済んでいるはず、と判明したのだそうだ。
つまり、それ以降も私を屋敷に留めておくのは法的に問題がある。そういうことらしい。
「二階から下ろさないとか学校に行かせないとかも、もちろん問題なんだけどね」
そこで晴人様は立ち上がり、正面に座る私に深く頭を下げた。
「――父が、申し訳ありませんでした。あなたの貴重な時間を奪ったこと、深くお詫び申し上げます」
「いえ、そんな……!」
晴人様に、こんな謝罪をされる理由はない。
頭を上げてもらおうとして、後ろに立つ真白と目が合った。
うけてやれ、とその唇が動く。
「……お受け、いたします」
これでいいだろうか。早く頭を上げてほしい。
やがて私の内心が伝わったのか、晴人様がゆっくりと頭を上げる。
「困らせてごめんね。でも僕はこれから、この件を
「私としても、綾部の皆様を困らせるのは本意ではありません。晴人様の良いようになさってください」
私の言葉に晴人様は困ったような顔をしたが、何かを飲み込むような表情で「ありがとう」と言った。
「……で、庄司君の退職に話を戻すけど。これは父さんが素直に
「あの、加藤さんは」
「今日は休みを取らせてある。だから今、この話をしてるんだけどね」
次に、晴人様は後ろに立つ真白を振り返る。
「都築君の退職届も、後は受理するだけの状態にしてある。当面の生活は彼に面倒見てもらって……ああ、庄司君の未払いの給料と退職金は確保しておくから、口座作ったら教えてね」
「はい」
「他に聞いておきたいことはあるかな? ……納得できるようなら、改めて
頷いて、今度こそ退職届にサインをする。
これを書き終えたら、私は外の世界に出ていくことになる。
一人では、きっと書けなかっただろう。「捨てないでくれ」「放り出さないでくれ」と晴人様に縋ったかもしれない。
でも、真白が一緒に暮らそうと言った。
真白と外で暮らしてみたいと思った。
真白の言葉を、疑う理由もなかった。
サインを、書き終える。
「夏生」
いつの間にか隣に来ていた真白が、そっと私の手を取った。
引かれるままに立ち上がると、焦げ茶色の瞳の奥が揺れている。
「――絶対に、嫌な思いはさせないから」
「うん」
今はまだ、頷くしかできない。
私の心はまだ定まっていなくて、真白もきっとそれは分かっていて。
だからまだ、肝心の言葉をもらっていない。
好きだよと、言ってもらえる日はいつだろうか。
好きだよと、言ってしまえる日は、きっとそんなに遠くない。
「連れて行かれるのは、嫌じゃないよ」
この人を好きになりたいと、私はそう思っているのだから。