四日目:魔女の行末
文字数 3,131文字
目覚ましのアラームで目が覚めた。寝不足だろうか、少し頭が重い。
ベッドから引き剥がすように身体を起こし、ふらつきながら洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗えば、目も覚めるだろう。
まったく、雪 様にお仕えできる最後の日だというのに情けない。
「はよ」
朝食を作っていると、真白が後ろから声を掛けてきた。いつの間に入ってきたのか。
時計を見ると、六時十五分。そろそろ仕上げないと。
「真白、食器を並べておいてくれるか」
「ん、分かった」
野菜炒めを盛り付けて、蒸らしていた紅茶をカップに注いだ。
私も真白も、職業柄こういった準備は手馴れたものだ。食事の準備ができるまで、三分もかからなかった。
まだ眠気が抜け切っていないらしく、私はのろのろと手を動かす。
目の前では、真白が私の倍の速さで食事を平らげつつ、元気よく喋っている。それでいて食事中のマナーは心得ており、口にものが入ったまま喋ることはない。やはり器用だなと思う。
「今日の午後からは、また晴人様付きか?」
「そうなるだろうな」
実感がないのは、後任が誰なのかを知らされていないのと、引継ぎ作業をしていないからだろう。
恐らく昼食の前後、交代の際にいくつか口頭で申し送りをする時間はあると思うが。
「そっか。じゃあ、また俺の相棒になるわけだ」
真白が楽しそうに笑うのに合わせて、私も笑顔を作った。うまく笑えているだろうか。
「あの、庄司さん」
雪様を起こしに部屋へと向かう途中、若い女性の使用人に呼び止められた。
若いといっても、私より二、三歳ほど年上だろう。仮に大卒で勤め始めたとすると、三、四年目くらいか。
「……何か?」
目の前の女性を見定めるような内心はさておき、仕事もあるので手短に用件を問う。相手は、何か困惑しているように言いよどんだ。
数秒ほど逡巡した後、彼女は思い切った様子で口を開く。
「今日の昼に何かあるか、聞いていませんか? 晴人様から呼び出されているのだけれど、心当たりがなくて……」
あなたは晴人様付きだから何か知っているんじゃないかと、と少々不安そうな表情で彼女は続けた。
――そうか、彼女が。
落ち着いているし、雰囲気が大人びている。彼女が雪様付きになるなら悪くない、と思えた。
教えてやろうかと思ったが、晴人様が何も伝えていないのなら、私が勝手に話すべきではないと思い直す。
……多少、意地悪をしている気にならないこともないが。
「晴人様が言っていないなら、私の口からは……。でも、けして悪いことではないから、不安にならなくてもいいですよ」
「そう?」
目を丸くする彼女に、思わずくすりと笑ってしまった。
「むしろ、楽しみにしていいと思います」
「庄司さんがそう言うのなら、いいことなんでしょうね」
彼女も安心したように微笑んで、ありがとうと私に礼を述べてから歩き去った。
それを見送って、私は歩みを再開する。
朝食の時間に遅れないうちに、雪様を起こさなければ。
今はまだ、私が雪様付きの使用人なのだから。
◇
どうも今朝は、ぼんやりしていていけない。
朝食の席、いつものように食堂の壁に真白と二人で並び、小さく息を吐いた。
昨日までは宝物のように思えた雪様との会話ですら、今日は記憶に残っていない。確かに何かを話したはずなのに。
原因は寝不足だろうか。それとも、色々とありすぎて記憶が薄れてしまったか?
かすかなため息に気付いた真白が、視線でどうかしたのかと問うてくる。それに小さく頭を振って、何でもないことを伝えた。
「そうそう。十時半ごろに、忠 が来るってさ」
「兄さんが?」
晴人様の言葉で、はっと我に返る。
首を傾げる雪様に、晴人様は困ったような笑みを返した。
「君の正式な使用人を見ておきたい、って」
「もう、相変わらず過保護なんだから。お仕事に穴を開けないといいのだけど」
雪様は呆れたお顔をされた。
相変わらず、という口ぶりからして、忠様が雪様のことを大いに気にかけるのは、今回の件が初めてではないらしい。
忠様は雪様がいらっしゃる以前から、よくこの屋敷を訪れていたが……同時に雪様のところへも、頻繁 に顔を出していたということだろうか。だとしたら確かに、仕事は大丈夫なのかと心配になるのも無理はない。
「晴人様、忠様のご昼食は用意いたしますか?」
話を聞いていた真白が質問する。
晴人様は少し思案する様子を見せてから、軽く頷いた。
「そうだね……。うん、一応用意しておいて」
「かしこまりました。手配して参りますね」
一礼して、真白は静かに食堂を出た。厨房へ人数の変更を伝えに行ったのだ。
今日のメニューが何かは知らないが、料理によってはこの時間から仕込みをすることもある。人数の変更は早めに言っておくに越したことはない。
残された私は、お二人のお食事の進み具合を見て口を開いた。
「そろそろ食後のお飲み物をご用意いたしますが、リクエストはございますか?」
◇
朝食後、私はいつもと同じように、雪様の御髪をセットする作業に入った。
セットと言っても、外出のご予定がなければ、寝癖を直して軽くまとめる程度でいいと言われているが。
この役目も今日で終わりかと思うと、やはり寂しいものだ。
毛先から少しずつ、櫛を使って絡まりを解していく。
今日は午後に正式な使用人との初顔合わせがある。なら、少し気合を入れた髪型にしたほうがいいだろうか。
雪様にお伺いすると、「是非そうして」と頷かれた。華美になり過ぎないように、細かい部分はお任せ頂けるとのことだったので、少し手の込んだ三つ編みにしようと決める。一人でやるのは大変そうだが、これで最後なのだ。記念と思えば苦痛ではない。
「雪様の御髪は、本当に長くていらっしゃいますね。何か理由がおありで?」
手を動かしながら質問すると、雪様は鏡越しに、困ったような微笑を見せる。
「願掛け、みたいなものかしら」
サイドに残した髪を指に巻きつけて遊びながら、雪様は静かに話し始めた。
「家柄、何かと窮屈 なことが多くて。せめて何かひとつくらい、私の自由にならないかなって考えていたの。それで、ラプンツェル……知っているかしら、グリム童話の」
「ええ、子供の頃によく読みました」
今でも思い出そうとすれば、頭の中で物語が再生される。育ててくれたおじいさまの、低いしわがれた声で。
文字が読めるようになってからは、一人でもよく読んでいた。
高い塔に閉じ込められた、美しい娘。
両親に望まれて生まれ、魔女と王子に求められて、彼女が選んだのは王子だった。
そして最後には望んだ通り、王子様と塔の外で結ばれる。
「そう。あのラプンツェルの真似をして、髪を伸ばし始めたのよ。せめて私の結婚する相手は、あの王子様みたいな人を、ってね」
理由もはっきり公言していたから、両親にとってはプレッシャー以外の何物でもなかったでしょうね。そう言って、雪様はおかしそうに笑う。
王子様、という単語に、自然に浮かんできたのは晴人様の姿だ。
「……晴人様は、雪様の王子様になれる方ですか?」
無意識のうちに、口走っていた。
「え?」
雪様の驚いたようなお顔を見て、しまった、と思う。こんな質問、不躾 以外の何だというのだ。
しかし私が失言を詫びる前に、雪様はとろけるように微笑んだ。
「ええ。何度も私に逢 いに屋敷を訪ねてくれた、理想の王子様だわ」
とても幸せそうに言われて、私は何も言えなくなる。
――晴人様が王子様なら、私は魔女の立ち位置か。
最後には少女を手放して、王子のもとへ送り出す存在。
結末 すら用意されなかった、ただの舞台装置 。
そんなこと、最初から分かっていたはずだ。
気付かれないように、こっそりと息を吐いた。
ベッドから引き剥がすように身体を起こし、ふらつきながら洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗えば、目も覚めるだろう。
まったく、
「はよ」
朝食を作っていると、真白が後ろから声を掛けてきた。いつの間に入ってきたのか。
時計を見ると、六時十五分。そろそろ仕上げないと。
「真白、食器を並べておいてくれるか」
「ん、分かった」
野菜炒めを盛り付けて、蒸らしていた紅茶をカップに注いだ。
私も真白も、職業柄こういった準備は手馴れたものだ。食事の準備ができるまで、三分もかからなかった。
まだ眠気が抜け切っていないらしく、私はのろのろと手を動かす。
目の前では、真白が私の倍の速さで食事を平らげつつ、元気よく喋っている。それでいて食事中のマナーは心得ており、口にものが入ったまま喋ることはない。やはり器用だなと思う。
「今日の午後からは、また晴人様付きか?」
「そうなるだろうな」
実感がないのは、後任が誰なのかを知らされていないのと、引継ぎ作業をしていないからだろう。
恐らく昼食の前後、交代の際にいくつか口頭で申し送りをする時間はあると思うが。
「そっか。じゃあ、また俺の相棒になるわけだ」
真白が楽しそうに笑うのに合わせて、私も笑顔を作った。うまく笑えているだろうか。
「あの、庄司さん」
雪様を起こしに部屋へと向かう途中、若い女性の使用人に呼び止められた。
若いといっても、私より二、三歳ほど年上だろう。仮に大卒で勤め始めたとすると、三、四年目くらいか。
「……何か?」
目の前の女性を見定めるような内心はさておき、仕事もあるので手短に用件を問う。相手は、何か困惑しているように言いよどんだ。
数秒ほど逡巡した後、彼女は思い切った様子で口を開く。
「今日の昼に何かあるか、聞いていませんか? 晴人様から呼び出されているのだけれど、心当たりがなくて……」
あなたは晴人様付きだから何か知っているんじゃないかと、と少々不安そうな表情で彼女は続けた。
――そうか、彼女が。
落ち着いているし、雰囲気が大人びている。彼女が雪様付きになるなら悪くない、と思えた。
教えてやろうかと思ったが、晴人様が何も伝えていないのなら、私が勝手に話すべきではないと思い直す。
……多少、意地悪をしている気にならないこともないが。
「晴人様が言っていないなら、私の口からは……。でも、けして悪いことではないから、不安にならなくてもいいですよ」
「そう?」
目を丸くする彼女に、思わずくすりと笑ってしまった。
「むしろ、楽しみにしていいと思います」
「庄司さんがそう言うのなら、いいことなんでしょうね」
彼女も安心したように微笑んで、ありがとうと私に礼を述べてから歩き去った。
それを見送って、私は歩みを再開する。
朝食の時間に遅れないうちに、雪様を起こさなければ。
今はまだ、私が雪様付きの使用人なのだから。
◇
どうも今朝は、ぼんやりしていていけない。
朝食の席、いつものように食堂の壁に真白と二人で並び、小さく息を吐いた。
昨日までは宝物のように思えた雪様との会話ですら、今日は記憶に残っていない。確かに何かを話したはずなのに。
原因は寝不足だろうか。それとも、色々とありすぎて記憶が薄れてしまったか?
かすかなため息に気付いた真白が、視線でどうかしたのかと問うてくる。それに小さく頭を振って、何でもないことを伝えた。
「そうそう。十時半ごろに、
「兄さんが?」
晴人様の言葉で、はっと我に返る。
首を傾げる雪様に、晴人様は困ったような笑みを返した。
「君の正式な使用人を見ておきたい、って」
「もう、相変わらず過保護なんだから。お仕事に穴を開けないといいのだけど」
雪様は呆れたお顔をされた。
相変わらず、という口ぶりからして、忠様が雪様のことを大いに気にかけるのは、今回の件が初めてではないらしい。
忠様は雪様がいらっしゃる以前から、よくこの屋敷を訪れていたが……同時に雪様のところへも、
「晴人様、忠様のご昼食は用意いたしますか?」
話を聞いていた真白が質問する。
晴人様は少し思案する様子を見せてから、軽く頷いた。
「そうだね……。うん、一応用意しておいて」
「かしこまりました。手配して参りますね」
一礼して、真白は静かに食堂を出た。厨房へ人数の変更を伝えに行ったのだ。
今日のメニューが何かは知らないが、料理によってはこの時間から仕込みをすることもある。人数の変更は早めに言っておくに越したことはない。
残された私は、お二人のお食事の進み具合を見て口を開いた。
「そろそろ食後のお飲み物をご用意いたしますが、リクエストはございますか?」
◇
朝食後、私はいつもと同じように、雪様の御髪をセットする作業に入った。
セットと言っても、外出のご予定がなければ、寝癖を直して軽くまとめる程度でいいと言われているが。
この役目も今日で終わりかと思うと、やはり寂しいものだ。
毛先から少しずつ、櫛を使って絡まりを解していく。
今日は午後に正式な使用人との初顔合わせがある。なら、少し気合を入れた髪型にしたほうがいいだろうか。
雪様にお伺いすると、「是非そうして」と頷かれた。華美になり過ぎないように、細かい部分はお任せ頂けるとのことだったので、少し手の込んだ三つ編みにしようと決める。一人でやるのは大変そうだが、これで最後なのだ。記念と思えば苦痛ではない。
「雪様の御髪は、本当に長くていらっしゃいますね。何か理由がおありで?」
手を動かしながら質問すると、雪様は鏡越しに、困ったような微笑を見せる。
「願掛け、みたいなものかしら」
サイドに残した髪を指に巻きつけて遊びながら、雪様は静かに話し始めた。
「家柄、何かと
「ええ、子供の頃によく読みました」
今でも思い出そうとすれば、頭の中で物語が再生される。育ててくれたおじいさまの、低いしわがれた声で。
文字が読めるようになってからは、一人でもよく読んでいた。
高い塔に閉じ込められた、美しい娘。
両親に望まれて生まれ、魔女と王子に求められて、彼女が選んだのは王子だった。
そして最後には望んだ通り、王子様と塔の外で結ばれる。
「そう。あのラプンツェルの真似をして、髪を伸ばし始めたのよ。せめて私の結婚する相手は、あの王子様みたいな人を、ってね」
理由もはっきり公言していたから、両親にとってはプレッシャー以外の何物でもなかったでしょうね。そう言って、雪様はおかしそうに笑う。
王子様、という単語に、自然に浮かんできたのは晴人様の姿だ。
「……晴人様は、雪様の王子様になれる方ですか?」
無意識のうちに、口走っていた。
「え?」
雪様の驚いたようなお顔を見て、しまった、と思う。こんな質問、
しかし私が失言を詫びる前に、雪様はとろけるように微笑んだ。
「ええ。何度も私に
とても幸せそうに言われて、私は何も言えなくなる。
――晴人様が王子様なら、私は魔女の立ち位置か。
最後には少女を手放して、王子のもとへ送り出す存在。
そんなこと、最初から分かっていたはずだ。
気付かれないように、こっそりと息を吐いた。