二日目:王子様と姫君
文字数 3,533文字
「昨夜はよくお眠りになれましたか?」
「ええ。枕が替わったのが心配だったのだけれど」
「きっとお疲れだったのでしょう」
話しながら雪 様の目元を窺 うが、隈一つ見当たらない。寝起きでぼんやりしている様子もないし、おそらく大丈夫だろう。
そこで、雪様の手に櫛 があるのを見つけた。柘植 で作られた、見るからに上等なものだ。奥様――晴人様のお母様も、似たような櫛をお持ちだったと記憶している。
「ご朝食はすぐに召し上がりますか?」
「ええ。晴人もすぐに食べるんでしょう?」
「そうですね。では、すぐにお召し物をお持ちいたします」
食事をテーブルに並べるのは、今日から厨房のコックに頼んである。何か分からないことがあれば、真白に訊くだろう。
飲み物は、雪様を食堂にお連れしてから淹れても間に合うはず。
やるべき事を頭の中で組み立てながら、私はクローゼットに足を運んだ。
グレイの柔らかなセーターにベビーピンクのフレアスカート、肌着 とタイツ、それから髪留めを持って、雪様のもとに戻る。
仕事とはいえ、雪様の肌着を吟味するのは少々恥ずかしかった。……雪様は気にならないのだろうか。
「では、外でお待ちしております」
ベッドに着替えを置いて一礼すると、私は足早に部屋を出る。
部屋の扉を閉め、一息ついたところで、心臓が痛いくらいに高鳴っているのに気がついた。
耳の傍を、血液が流れる音がする。鼓動に合わせて、わずかに頭痛も。
昨日から、私はどこかおかしい。
体温がやけに高い気がして深呼吸。吸い込んだ空気が、肺をわずかに冷やしてくれた。
もう一度、深く息を吸って吐く。今度は頭が少し冷えてくれた。
――と、誰かが廊下を歩いてくる気配がしてそちらを見る。
晴人様が一人で廊下を歩いていた。反射で真白の姿を探したが、見当たらない。
やがて、晴人様が壁際に立つ私の近くまで歩いてきて片手を上げた。
私はいつものように一礼する。
「おはようございます、晴人様」
「おはよう。雪は起きてる?」
「はい、今はお召し替えをなさっています」
質問に答えながら、私はさりげなく、部屋のドアの前へ移動した。
雪様から着替え終わったという声がかからない限り、私はおろか晴人様とて、この部屋に入れるわけにはいかない。
もっとも、晴人様は女性の着替え中に無理矢理乱入するような方ではないが。
そう、と頷いたきり、晴人様が部屋の前から立ち去らないので、どうにも居心地が悪い。
真白ならそれとなく世間話でも振るのだろうが、私にそんな芸当は無理だ。
「……あの、都築はどうしました?」
真白といえば、と、気になっていたことを質問してみる。
「ああ、先に食堂に行ってもらったよ。コックに食事を並べてもらうことってあんまりないし、食器の配置が違うと落ち着かないからね」
ああ、そういうことか。
どちらかといえば食器の配置について詳しいのは私のほうなのだが、屋敷の勝手が分からない雪様を放り出していくわけにもいかない。
「僕は雪を誘おうと思ってね。……あ、それなら君に食堂に行ってもらった方が良かったかな?」
「はあ……」
うっかりしていたよと苦笑いを零 す晴人様に、私はどう返せばいいのかが分からなくて、つい生返事をしてしまった。
喋りに関する全てを真白に任せていたツケを、最初にこのような形で味わうことになるとは……。
そういえば、昨日から雪様との会話で詰まったことがない。
少なくとも今のところは、間が持たなくて困った記憶がなかった。
昨日は雪様の荷物を整理するので精一杯で、あまりお話した記憶もないのだが。時折紅茶をお出ししたり、卒論の参考文献をお持ちしたくらいだ。
他は……しまった。雪様に見惚れていたとしたら、傍から見て呆けているようにしか見えない。
「……夏生、入っていいわよ」
あやうく眼前の晴人様を放り出して考え事に没頭しそうになったところを、雪様の声で我に返る。
「雪様。晴人様がお見えですが、入って頂いてもよろしいですか?」
「晴人? ええ、大丈夫よ。入ってもらって」
かしこまりました、と雪様に返して、晴人様のためにドアを開ける。
雪様は既に着替えを終えて、御髪 をまとめているところだった。
「私がやりましょうか?」
「ええ、お願い」
食事の席で、この長い髪は邪魔になるだろう。あまり凝った髪型にはできないが、一つにまとめるだけならやれそうだ。
髪留めと、先程も目にした櫛を受け取り、雪様の体温でぬるく感じられる紅茶色の髪を、一本も取りこぼさないように掬 い上げた。
「晴人はどうしたの?」
「朝食を一緒にと思ってね。準備はもう出来てると思うけど、どうする?」
「もちろん、ご一緒させていただくわ。というか、元々そのつもりだったもの」
留め具というものは、ヘアゴムに比べて案外扱いが難しい。雪様の御髪は細いので、うっかり千切ってしまいやしないかと冷や汗が出た。
なんとかうまく髪をまとめて、雪様に終わったことを告げる。
「ああ、ありがとう。……夏生って、近くに寄るとシトラスの香りがするのね」
真白がくれたヘアワックスの香りだ。
「気になりますか?」
「いいえ、私は好きよ」
雪様がいいと言うのなら、問題ないだろう。
特に香るのは朝の早いうちだけだし、食事の時は、飲み物をテーブルに置く以外ほとんど壁際に控えている。
それじゃあ行こうか、という晴人様の言葉に従って、私たちは部屋を出た。
◇
晴人様と雪様に食後の紅茶をお出しした後。
真白が晴人様と今日の予定を話している間に、私は雪様に話しかけた。
「雪様、本日は何かご予定がおありですか?」
「特にはないわ。せいぜい、卒論を進めるくらいかしらね」
私は大学に行ったことがないので、雪様が何を学んでいらっしゃるか分からない。
尋ねれば教えてくださるだろうが、これは後の話題として、大切に胸にしまっておくことにした。
「雪様がよろしければ、二階のご案内をさせていただこうかと思っているのですが」
二階限定なのはもちろん私の都合なのだが、外出しないのであれば、基本的に雪様は一階に下りることなく生活できる。
大学はまだ冬休みだというから、外出する用事もほとんどないだろう。
私の提案に、雪様はにこりと微笑んで頷いた。
「ええ、このお屋敷にはあまり来たことがないから助かるわ。お願い」
「かしこまりました。一応、後ほどお部屋に簡単な見取り図もお届けします」
雪様の笑顔を近くで見ることができて、無意識に頬が緩む。
晴人様は、いつの間にか真白と共に姿を消していた。
「外出されるのでなければ、基本的にこの二階から下りていただく必要はありません。私も二階のどこかには必ずおりますので、何か御用がありましたら近くの使用人にお申し付け下されば、すぐに参ります」
案内すると言ったものの、実は案内するべき場所はそれほど多くない。
浴室と手洗いは、雪様の部屋に専用のものがあるからだ。
たった今出てきた部屋の扉を手で示して、私は再び口を開いた。
「まず、こちらが食堂です。基本的に、お食事はこちらで召し上がっていただくことになります」
「食事の時間は決まっているのかしら?」
「前もって指定がなければ、朝は七時、昼は十二時半、夜も七時前後が目安ですね。お食事の準備自体は、それぞれ三十分前には済ませております」
一気に喋ってしまったが、雪様はきっと覚えきれないだろう。これも見取り図と一緒にメモでも作っておいたほうがいいなと、頭の中で仕事を追加する。
案内するべき場所は全て、食堂と雪様の部屋の間に存在している。
そのまま雪様の部屋に足を向けかけて、晴人様の使う部屋の説明をしたほうがいいのではないかと思いついた。
少なくとも仕事で使う部屋など、立ち入ってはいけない部屋については知っておいた方がいいだろう。
それに、晴人様の部屋も、彼女は知りたいに決まっている。……婚約者なのだから。
(――晴人様に無断で、は良くないな)
言い訳だ。
晴人様はきっと、許可など取らなくても怒りはしない。そんなことは分かりきっている。
あの方が雪様のことを、本当に大切に想っていると知っているから。
だから、本当は、私が許容できないだけなのだ。
後で見取り図を渡せば、晴人様の個室も執務室も、立ち入ってはいけない書斎の位置だって雪様は知るだろう。
それでも、自分の手でそれを後押しするのが嫌だった。
「……夏生?」
急に黙り込んだ私を訝しんでか、雪様が眉をひそめて顔を覗き込んでくる。
さら、と柔らかい髪が肩を滑り落ちる光景に見惚れかけて、慌てて思考を断ち切った。
「……失礼いたしました。こちらへどうぞ」
足の向きを変えないまま、私は雪様を促して歩き出した。
「ええ。枕が替わったのが心配だったのだけれど」
「きっとお疲れだったのでしょう」
話しながら
そこで、雪様の手に
「ご朝食はすぐに召し上がりますか?」
「ええ。晴人もすぐに食べるんでしょう?」
「そうですね。では、すぐにお召し物をお持ちいたします」
食事をテーブルに並べるのは、今日から厨房のコックに頼んである。何か分からないことがあれば、真白に訊くだろう。
飲み物は、雪様を食堂にお連れしてから淹れても間に合うはず。
やるべき事を頭の中で組み立てながら、私はクローゼットに足を運んだ。
グレイの柔らかなセーターにベビーピンクのフレアスカート、
仕事とはいえ、雪様の肌着を吟味するのは少々恥ずかしかった。……雪様は気にならないのだろうか。
「では、外でお待ちしております」
ベッドに着替えを置いて一礼すると、私は足早に部屋を出る。
部屋の扉を閉め、一息ついたところで、心臓が痛いくらいに高鳴っているのに気がついた。
耳の傍を、血液が流れる音がする。鼓動に合わせて、わずかに頭痛も。
昨日から、私はどこかおかしい。
体温がやけに高い気がして深呼吸。吸い込んだ空気が、肺をわずかに冷やしてくれた。
もう一度、深く息を吸って吐く。今度は頭が少し冷えてくれた。
――と、誰かが廊下を歩いてくる気配がしてそちらを見る。
晴人様が一人で廊下を歩いていた。反射で真白の姿を探したが、見当たらない。
やがて、晴人様が壁際に立つ私の近くまで歩いてきて片手を上げた。
私はいつものように一礼する。
「おはようございます、晴人様」
「おはよう。雪は起きてる?」
「はい、今はお召し替えをなさっています」
質問に答えながら、私はさりげなく、部屋のドアの前へ移動した。
雪様から着替え終わったという声がかからない限り、私はおろか晴人様とて、この部屋に入れるわけにはいかない。
もっとも、晴人様は女性の着替え中に無理矢理乱入するような方ではないが。
そう、と頷いたきり、晴人様が部屋の前から立ち去らないので、どうにも居心地が悪い。
真白ならそれとなく世間話でも振るのだろうが、私にそんな芸当は無理だ。
「……あの、都築はどうしました?」
真白といえば、と、気になっていたことを質問してみる。
「ああ、先に食堂に行ってもらったよ。コックに食事を並べてもらうことってあんまりないし、食器の配置が違うと落ち着かないからね」
ああ、そういうことか。
どちらかといえば食器の配置について詳しいのは私のほうなのだが、屋敷の勝手が分からない雪様を放り出していくわけにもいかない。
「僕は雪を誘おうと思ってね。……あ、それなら君に食堂に行ってもらった方が良かったかな?」
「はあ……」
うっかりしていたよと苦笑いを
喋りに関する全てを真白に任せていたツケを、最初にこのような形で味わうことになるとは……。
そういえば、昨日から雪様との会話で詰まったことがない。
少なくとも今のところは、間が持たなくて困った記憶がなかった。
昨日は雪様の荷物を整理するので精一杯で、あまりお話した記憶もないのだが。時折紅茶をお出ししたり、卒論の参考文献をお持ちしたくらいだ。
他は……しまった。雪様に見惚れていたとしたら、傍から見て呆けているようにしか見えない。
「……夏生、入っていいわよ」
あやうく眼前の晴人様を放り出して考え事に没頭しそうになったところを、雪様の声で我に返る。
「雪様。晴人様がお見えですが、入って頂いてもよろしいですか?」
「晴人? ええ、大丈夫よ。入ってもらって」
かしこまりました、と雪様に返して、晴人様のためにドアを開ける。
雪様は既に着替えを終えて、
「私がやりましょうか?」
「ええ、お願い」
食事の席で、この長い髪は邪魔になるだろう。あまり凝った髪型にはできないが、一つにまとめるだけならやれそうだ。
髪留めと、先程も目にした櫛を受け取り、雪様の体温でぬるく感じられる紅茶色の髪を、一本も取りこぼさないように
「晴人はどうしたの?」
「朝食を一緒にと思ってね。準備はもう出来てると思うけど、どうする?」
「もちろん、ご一緒させていただくわ。というか、元々そのつもりだったもの」
留め具というものは、ヘアゴムに比べて案外扱いが難しい。雪様の御髪は細いので、うっかり千切ってしまいやしないかと冷や汗が出た。
なんとかうまく髪をまとめて、雪様に終わったことを告げる。
「ああ、ありがとう。……夏生って、近くに寄るとシトラスの香りがするのね」
真白がくれたヘアワックスの香りだ。
「気になりますか?」
「いいえ、私は好きよ」
雪様がいいと言うのなら、問題ないだろう。
特に香るのは朝の早いうちだけだし、食事の時は、飲み物をテーブルに置く以外ほとんど壁際に控えている。
それじゃあ行こうか、という晴人様の言葉に従って、私たちは部屋を出た。
◇
晴人様と雪様に食後の紅茶をお出しした後。
真白が晴人様と今日の予定を話している間に、私は雪様に話しかけた。
「雪様、本日は何かご予定がおありですか?」
「特にはないわ。せいぜい、卒論を進めるくらいかしらね」
私は大学に行ったことがないので、雪様が何を学んでいらっしゃるか分からない。
尋ねれば教えてくださるだろうが、これは後の話題として、大切に胸にしまっておくことにした。
「雪様がよろしければ、二階のご案内をさせていただこうかと思っているのですが」
二階限定なのはもちろん私の都合なのだが、外出しないのであれば、基本的に雪様は一階に下りることなく生活できる。
大学はまだ冬休みだというから、外出する用事もほとんどないだろう。
私の提案に、雪様はにこりと微笑んで頷いた。
「ええ、このお屋敷にはあまり来たことがないから助かるわ。お願い」
「かしこまりました。一応、後ほどお部屋に簡単な見取り図もお届けします」
雪様の笑顔を近くで見ることができて、無意識に頬が緩む。
晴人様は、いつの間にか真白と共に姿を消していた。
「外出されるのでなければ、基本的にこの二階から下りていただく必要はありません。私も二階のどこかには必ずおりますので、何か御用がありましたら近くの使用人にお申し付け下されば、すぐに参ります」
案内すると言ったものの、実は案内するべき場所はそれほど多くない。
浴室と手洗いは、雪様の部屋に専用のものがあるからだ。
たった今出てきた部屋の扉を手で示して、私は再び口を開いた。
「まず、こちらが食堂です。基本的に、お食事はこちらで召し上がっていただくことになります」
「食事の時間は決まっているのかしら?」
「前もって指定がなければ、朝は七時、昼は十二時半、夜も七時前後が目安ですね。お食事の準備自体は、それぞれ三十分前には済ませております」
一気に喋ってしまったが、雪様はきっと覚えきれないだろう。これも見取り図と一緒にメモでも作っておいたほうがいいなと、頭の中で仕事を追加する。
案内するべき場所は全て、食堂と雪様の部屋の間に存在している。
そのまま雪様の部屋に足を向けかけて、晴人様の使う部屋の説明をしたほうがいいのではないかと思いついた。
少なくとも仕事で使う部屋など、立ち入ってはいけない部屋については知っておいた方がいいだろう。
それに、晴人様の部屋も、彼女は知りたいに決まっている。……婚約者なのだから。
(――晴人様に無断で、は良くないな)
言い訳だ。
晴人様はきっと、許可など取らなくても怒りはしない。そんなことは分かりきっている。
あの方が雪様のことを、本当に大切に想っていると知っているから。
だから、本当は、私が許容できないだけなのだ。
後で見取り図を渡せば、晴人様の個室も執務室も、立ち入ってはいけない書斎の位置だって雪様は知るだろう。
それでも、自分の手でそれを後押しするのが嫌だった。
「……夏生?」
急に黙り込んだ私を訝しんでか、雪様が眉をひそめて顔を覗き込んでくる。
さら、と柔らかい髪が肩を滑り落ちる光景に見惚れかけて、慌てて思考を断ち切った。
「……失礼いたしました。こちらへどうぞ」
足の向きを変えないまま、私は雪様を促して歩き出した。