一日目:熱い頬とレアチーズケーキ
文字数 2,384文字
就業時間を大幅に過ぎて、夜。自分にあてがわれた部屋へ戻った頃には、私はひどく疲れていた。
どうやら頭を働かせすぎたようだ。ただでさえ聡明とは言いがたいのに、無理をしたかもしれない。
資産家のお嬢様にしては荷物が少ないな、と感じた私の感覚はやはり正しかったようで、昼食後に雪 様の荷物が追加で届けられた。
シューズボックス三つにハンガーボックス二つ。桐 箪笥 二つと、そこに入る着物。
さすがの真白も箪笥は一人で運べず、手の空いていそうな男の使用人を何人か捕まえて、数人がかりで二階に上げていた。
……雪様の衣装部屋として割り当てられた一室には、まだまだスペースが残っている。これで終わりではないだろう。暖かくなってきたら夏物が届くと見た。
本は部屋の本棚に入りきらず、追加で棚を設 けることになった。別室に保管しようと思ったのだが、今執筆されている卒論の参考文献も含まれるので、すぐ参照できる所に置きたいとのことだった。
お気に入りの食器類は、晴人様の食器棚に空きがあったので、ひとまずそこへ。これも後日、雪様専用の棚を手配しなければならない。
これはそちらに、それはこちらに、そういえばあれはどこに行った?
私も雪様のお相手の傍ら、指示と手配で忙しく、気が付けば日が落ちていた。
「ふう……」
どさりと音を立ててベッドに沈む。そのまま眠ってしまいたかったが、制服のままでは皺 になってしまう。
髪もヘアワックスで固めているから、せめてシャワーくらいは浴びておきたい。
つらつらと考えるだけで行動に移す気にはいまいちなれず、ごろりとベッドの上を転がって仰向けになる。その動作すら億劫 で、身体的にも疲れていたようだと気付く。
しかし、これで今日できる仕事はほぼ終わらせたはずだ。
明日はきっと、雪様とゆっくりお話できるだろう。そう思うと、知らず頬が緩んだ。
明日から、どんなお話をしようか。
ここ数年、喋りはもっぱら真白に任せていたので、いい話題が考え付かない。年が近いとはいえ、お嬢様に合った話題など私に分かるはずもない、と言ってしまえばそれまでだが。
紅茶を美味しいと言って下さった時の、きらきらした瞳を思い出す。
――急に、身体の奥が熱を持った。
「…………っ」
胸の奥が詰まったようになって、息苦しくなる。これは何だろうか。
心拍が激しすぎて胸が痛い。呼吸をするたびに、喉から血が零れてしまいそうだ。暴れる心臓を押さえつけ、は、と吐き出した吐息すら熱く感じられる。
――と、その時。
部屋の扉を小さくノックする音がして、私は慌てて身体を起こした。この音は真白だ。
頭を軽く振って火照った頬をいくらか冷やし、平静を装って扉を開ける。
「お前、まだ着替えてねえの?」
使用人の制服から私服に着替えた真白が、私を見るなり首を傾げた。
「……何か顔赤くね? 風邪か?」
どきりとして、さりげなく顔を逸らす。
「そうか? 暖房に当たりすぎたのかもしれないな」
「お、それならちょうど良かった」
私の言葉に真白はにっこり笑って、ひょいと片手を持ち上げた。
白い皿の上に、これまた白い、三角形に切られたケーキが二つ。
「レアチーズケーキ作ったんだ。さっきまで皿ごと冷蔵庫に入れてたから、冷えてんぞ」
食べるだろ、と半ば断定的な質問に頷いて、真白を部屋に招き入れた。
彼のこういった誘いは別に珍しいことではないし、甘いものは好きなほうだ。疲れているが、これを断る理由にはならない。
洋菓子作りは真白の趣味だ。暇があればこうして、ケーキやクッキーを作ってくる。
高校を卒業したら製菓学校を出てパティシエになるのが夢だったらしいのだが、高校生の時にケーキ屋でアルバイトをして、自分には無理だと思ったそうだ。
私の舌も別段肥えているわけではないが、彼の作る菓子は美味いので、少し勿体ない気がする。
本人にもそう言ってみたのだが、真白は「無理なんだよ」と苦く笑うだけだった。
あれ以来、何となく彼に夢の話はできないでいる。
私は湯を沸かすべく、部屋の簡易キッチンへ向かった。
「どちらがいい?」
「紅茶ー」
「分かった」
もう夜も遅いのだし、確かにそちらのほうがいいだろう。
ケーキがさっぱりしているから、フレーバーティーが合いそうだ。そう考えて、アールグレイの缶を開けた。
真白が菓子を持ってきて、私はその対価にコーヒーや紅茶を淹れる。
このささやかな茶会は、真白がこの屋敷に来てから増えた、私の楽しみの一つだ。
部屋の隅にある小さなテーブルには、既に皿とフォークが並べられていた。
湯気を立てるマグカップを自分と真白の前に置いて、スツールに腰を下ろす。
「お前、雪様のこと、随分と気に入ったみたいじゃん」
唐突に切り出された言葉に、私はなんともいえない気持ちになった。
「……お仕えする方を気に入るも何も」
「素直じゃねえなあ……ん、大成功。さすが俺」
彼はけらけらと笑いながら、自ら作ったケーキを食べて満足げに頷いている。本職 になるのは無理だと言っていても、自信作は自信作らしい。私には理解できない思考だ。
これで不思議と馬が合うのだから、人間とは分からないものである。
「雪様もさあ、ぱっと見は何でもないように見えるけど、生活ガラッと変わるんだ。慣れるまではストレスも溜まるだろうし、お前が少しくだけてやらないと」
「無茶を言うな」
私の場合は四六時中おじいさまの教育下にあったせいもあるが、真白のように、仕事とプライベートで一人称すら切り替えられるほど器用ではない。
「……努力は、してみるが」
「さしあたり、その堅苦しい喋りをなんとかするとかな」
笑い混じりに言う真白は、それが私にとってどれほどの難題なのか、理解しているのだろうか。
少々どころでなく憎らしくなったので、スリッパの爪先で向こう脛を蹴りつけてやった。
どうやら頭を働かせすぎたようだ。ただでさえ聡明とは言いがたいのに、無理をしたかもしれない。
資産家のお嬢様にしては荷物が少ないな、と感じた私の感覚はやはり正しかったようで、昼食後に
シューズボックス三つにハンガーボックス二つ。
さすがの真白も箪笥は一人で運べず、手の空いていそうな男の使用人を何人か捕まえて、数人がかりで二階に上げていた。
……雪様の衣装部屋として割り当てられた一室には、まだまだスペースが残っている。これで終わりではないだろう。暖かくなってきたら夏物が届くと見た。
本は部屋の本棚に入りきらず、追加で棚を
お気に入りの食器類は、晴人様の食器棚に空きがあったので、ひとまずそこへ。これも後日、雪様専用の棚を手配しなければならない。
これはそちらに、それはこちらに、そういえばあれはどこに行った?
私も雪様のお相手の傍ら、指示と手配で忙しく、気が付けば日が落ちていた。
「ふう……」
どさりと音を立ててベッドに沈む。そのまま眠ってしまいたかったが、制服のままでは
髪もヘアワックスで固めているから、せめてシャワーくらいは浴びておきたい。
つらつらと考えるだけで行動に移す気にはいまいちなれず、ごろりとベッドの上を転がって仰向けになる。その動作すら
しかし、これで今日できる仕事はほぼ終わらせたはずだ。
明日はきっと、雪様とゆっくりお話できるだろう。そう思うと、知らず頬が緩んだ。
明日から、どんなお話をしようか。
ここ数年、喋りはもっぱら真白に任せていたので、いい話題が考え付かない。年が近いとはいえ、お嬢様に合った話題など私に分かるはずもない、と言ってしまえばそれまでだが。
紅茶を美味しいと言って下さった時の、きらきらした瞳を思い出す。
――急に、身体の奥が熱を持った。
「…………っ」
胸の奥が詰まったようになって、息苦しくなる。これは何だろうか。
心拍が激しすぎて胸が痛い。呼吸をするたびに、喉から血が零れてしまいそうだ。暴れる心臓を押さえつけ、は、と吐き出した吐息すら熱く感じられる。
――と、その時。
部屋の扉を小さくノックする音がして、私は慌てて身体を起こした。この音は真白だ。
頭を軽く振って火照った頬をいくらか冷やし、平静を装って扉を開ける。
「お前、まだ着替えてねえの?」
使用人の制服から私服に着替えた真白が、私を見るなり首を傾げた。
「……何か顔赤くね? 風邪か?」
どきりとして、さりげなく顔を逸らす。
「そうか? 暖房に当たりすぎたのかもしれないな」
「お、それならちょうど良かった」
私の言葉に真白はにっこり笑って、ひょいと片手を持ち上げた。
白い皿の上に、これまた白い、三角形に切られたケーキが二つ。
「レアチーズケーキ作ったんだ。さっきまで皿ごと冷蔵庫に入れてたから、冷えてんぞ」
食べるだろ、と半ば断定的な質問に頷いて、真白を部屋に招き入れた。
彼のこういった誘いは別に珍しいことではないし、甘いものは好きなほうだ。疲れているが、これを断る理由にはならない。
洋菓子作りは真白の趣味だ。暇があればこうして、ケーキやクッキーを作ってくる。
高校を卒業したら製菓学校を出てパティシエになるのが夢だったらしいのだが、高校生の時にケーキ屋でアルバイトをして、自分には無理だと思ったそうだ。
私の舌も別段肥えているわけではないが、彼の作る菓子は美味いので、少し勿体ない気がする。
本人にもそう言ってみたのだが、真白は「無理なんだよ」と苦く笑うだけだった。
あれ以来、何となく彼に夢の話はできないでいる。
私は湯を沸かすべく、部屋の簡易キッチンへ向かった。
「どちらがいい?」
「紅茶ー」
「分かった」
もう夜も遅いのだし、確かにそちらのほうがいいだろう。
ケーキがさっぱりしているから、フレーバーティーが合いそうだ。そう考えて、アールグレイの缶を開けた。
真白が菓子を持ってきて、私はその対価にコーヒーや紅茶を淹れる。
このささやかな茶会は、真白がこの屋敷に来てから増えた、私の楽しみの一つだ。
部屋の隅にある小さなテーブルには、既に皿とフォークが並べられていた。
湯気を立てるマグカップを自分と真白の前に置いて、スツールに腰を下ろす。
「お前、雪様のこと、随分と気に入ったみたいじゃん」
唐突に切り出された言葉に、私はなんともいえない気持ちになった。
「……お仕えする方を気に入るも何も」
「素直じゃねえなあ……ん、大成功。さすが俺」
彼はけらけらと笑いながら、自ら作ったケーキを食べて満足げに頷いている。
これで不思議と馬が合うのだから、人間とは分からないものである。
「雪様もさあ、ぱっと見は何でもないように見えるけど、生活ガラッと変わるんだ。慣れるまではストレスも溜まるだろうし、お前が少しくだけてやらないと」
「無茶を言うな」
私の場合は四六時中おじいさまの教育下にあったせいもあるが、真白のように、仕事とプライベートで一人称すら切り替えられるほど器用ではない。
「……努力は、してみるが」
「さしあたり、その堅苦しい喋りをなんとかするとかな」
笑い混じりに言う真白は、それが私にとってどれほどの難題なのか、理解しているのだろうか。
少々どころでなく憎らしくなったので、スリッパの爪先で向こう脛を蹴りつけてやった。