二日目:使用人の朝

文字数 3,011文字

 ラプンツェルは黄金(きん)を伸ばしたような、長い、美くしい、頭髪(かみ)を持って居ました。
 魔女の声が聞こえると、少女(むすめ)()ぐに自分の編んだ髪を(ほど)いて、窓の折釘(おれくぎ)へ巻きつけて、四十尺も下まで()らします。
 すると魔女はこの髪へ捕まって登って来るのです――。

 懐かしい声がする。低くて、すこし(かす)れた、耳に心地よい声。
 ああ、この声は老執事(おじいさま)だ。よくこうして、寝物語に童話を読んでくれた。
 思い出した途端、声がどんどん遠くなっていく。

 目蓋(まぶた)を上げると、見慣れた部屋の天井だった。

 ……珍しい夢を見た。
 幼い頃、おじいさまが屋敷からいなくなったばかりの頃には、寂しさから何度も見た夢。
 ある程度成長してからは、ずっと見ていなかった夢だ。

 ベッドサイドの目覚まし時計を見れば、文字盤は五時三分を指していた。
 昨日はなかなか疲れていたと思うのだが、アラームが鳴る前に起きてしまうとは。今から寝直したとしても、三十分も眠れないだろう。少し損をした気分だ。
 このまま横になっていても仕方がないので、ゆっくりと身体を起こす。
 夢を見たとはいえ眠りは深かったようで、昨日の疲れはほとんど感じられなかった。せっかくだから、朝食は少し手の込んだものを作ろうか。



 洗面台で顔を洗い、(くし)で髪を()かす。
 右の側頭部に寝癖がついていたが、このくらいならヘアワックスで固めてしまえるので問題ない。
 以前は湯を沸かして蒸しタオルを用意していたのだが、忙しい朝にそれは大変だろうと真白が買ってきてくれたのだ。
 世の中には、私の知らない便利なものが沢山あるらしい。

 両手にワックスを馴染ませて、サイドの髪を耳の後ろへかき上げる。
 つけたてのヘアワックスから、少し甘みのある柑橘(シトラス)の香りがした。この手の商品ではポピュラーな香りだそうだが、気分がすっとするので気に入っている。

 髪を整えながら、雪様の御髪(おぐし)を思い出す。
 初めて目にしたときに連想したのは、紅茶。赤く澄んだ水の色だと思った。
 兄君である忠様や従兄の晴人様の髪も、そういえば少し色が薄い。忠様は赤みのある焦げ茶色で、晴人様はミルクティーのような優しい色をしている。
 もしかしたら、あの一族の特徴なのかもしれない。

 何となく、自分の髪の毛を(つま)んでみる。正面の鏡の中で、左右の反転した私自身が左手で髪を摘んでいた。
 まるで細い針金のように、硬くて真っ直ぐな黒髪。
 雪様とは正反対の髪質だな、と思う。
 別にあの方と同じになりたいわけではないが、なんとなく距離を感じてしまう。

 そういえば、真白も茶髪だ。
 まあ、あいつは染めているのかもしれないが。

 ふと部屋の時計を見ると、五時二十五分になっていた。
 結構な時間が経っている。いつもであればまだ眠っている時間だが、無為に過ごすのは勿体ない。
 寝巻きから着替えてベッドを整え、朝食を作るべく部屋を出た。


 ◇


 私は使用人用の食堂を使えない。一階にあるからだ。
 だから食事は、二階に備えられている使用人用のキッチンで作ることになる。
 幼い頃はおじいさまが、私に料理を叩き込みつつ作ってくれていた。彼が退職し、私も料理を覚えた今は、自分で食べる分を自分で作っている。

 真白と組むようになってからは、頼まれて彼の分も作っていた。いわく「食堂より人目気にしなくていいし、何かと便利だし、お前の料理は美味いから」だそうだ。
 私の料理が美味いかどうかはともかく、こちらで食べるほうが真白にとって便利というのは分からないでもない。
 行儀は悪いが食べながら仕事の打ち合わせもできるし、晴人様の寝室にはこちらのほうが近いから、食事の後ですぐに晴人様を起こしに行ける。

 さて、今日は時間があるので和食にしよう。洋食のほうがレパートリーは多いが、たまには趣向を変えないと飽きがくる。
 冷蔵庫を覗くと野菜が多めに入っていたので、鶏肉と一緒に煮付けることにした。急いでひと煮立ちさせれば、食べる頃にはそれなりに味が染みているだろう。
 米は吸水させている時間がないのでレトルトを電子レンジに突っ込み、鶏肉と野菜を火に掛けたら味噌汁に取り掛かる。具はワカメと豆腐にしよう。

 真白の洋菓子作りほどではないが、私は料理も好きだ。
 コーヒーや紅茶を淹れることと同じく、おじいさまの教えは、そのまま私の生き甲斐となっている。

「はよー……って、なんかいい匂いするな」

 真白が入ってきたので時計を見ると、六時二十一分。晴人様を起こすのは七時だから、そろそろ食べ始めないと時間が足りない。
 煮物の火を止めて器に盛り付けながら、真白に食器を出してくれるように頼んだ。



「うあー、久しぶり醤油味。会いたかったよ醤油味」
「何を訳の分からないことを……」
「いやこの屋敷って基本的に洋食じゃん? たまーに和食が恋しくなるんだよな」

 目玉焼きはよく出しているのだから、目玉焼きに醤油をかければいいと思うのだが。いや、真白は塩だったか。

 味噌汁はともかく、飯と煮物がえらい勢いで減っていく。そこまで恋しかったのか。醤油が。
 ……ここまで喜ぶのなら、これからも定期的に作ってやってもいいかもしれない。流石に寿司を握ったりはできないが。

「夏生、今度肉じゃが作ってよ。材料なら厨房から貰ってくるからさ」
「それ自体は構わないんだが、主食が米に限定されてしまうのがな……」
「日本人なら米を食えって誰かが言わなかったっけ」
「知るか」

 私は日本人のはずだが、あまり米を食べる機会がない。週に一度あるかないかだ。
 旦那様が洋食を好んでいるのだから、仕方がないともいえる。

「そこまで言うなら、今度の夕食にでも作ろうか。肉じゃが」
「やりっ」

 真白が嬉しそうに笑うので、つられてこちらも笑ってしまった。子供のようなやつだ。

 食べながら仕事についていくつか確認して、ふと壁にかかった時計に目が行く。六時五十三分。そろそろ晴人様を起こしに行く時間だ。
 真白はあれこれ喋っていたわりに、この短時間で食器をきれいに空にしていた。相変わらず気持ちのいい食べっぷりだ。

「……そろそろ行くか。夏生も今日から雪様起こしに行くんだろ?」
「ああ。食器は……水に浸けておいてくれ。暇を見て洗っておく」
「分かった。やっとくから先行けよ」

 その言葉に甘えて、私は先に部屋を出た。


 ◇


「おはようございます、雪様。起きていらっしゃいますか?」

 ノックをして呼びかけると、ドアの向こうから小さく声が返ってきた。

「ええと……夏生?」
「はい」

 名前を覚えていてくれたことに喜びを感じながら、それを感づかれないように一言返す。
 ドアの向こうの戸惑ったような気配が、紅茶に角砂糖が溶けるように、すっと消えたように感じた。

 沈黙の中、布が擦れる音が聞こえる。

「……もう入っていいわよ」

 雪様の許可を得て、ドアノブに手をかけた。

「失礼いたします」

 部屋の奥、窓の近くに備え付けられたベッド。
 その端に腰掛ける雪様の姿を見つけて、私は深く頭を下げる。

「おはようございます、雪様」
「おはよう、夏生」

 今日から私は、この方の使用人だ。

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引用:ヤーコプ・ルートヴィヒ・カール・グリム/ヴィルヘルム・カール・グリム 『ラプンツェル』(原題:Rapunzel)、中島 孤島 訳 『グリム童話集』(冨山房) 
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登場人物紹介

庄司 夏生(しょうじ・なつき)

23歳 使用人

主人公。幼少時に他界した両親の借金を背負い、綾部家に引き取られた。

屋敷の主人から、「他人に身の上を話すこと」「屋敷の一階へ下りること」を禁止されている。

綾部 晴人(あやべ・はると)

23歳 会社役員

屋敷の主人の一人息子。夏生の身の上については知らされていない。

婚約者の雪を大切にしており、使用人たちにも気さくに振舞う。穏やかな人格者。

八束 雪(やつか・きよみ)

22歳 大学生

晴人の婚約者。八束家のお嬢様で、忠の妹。晴人にとっても従妹にあたる。

結婚に先立って、綾部の屋敷に住むことになった。好奇心が強め。

都築 真白(つづき・ましろ)

23歳 使用人

晴人付きの使用人。夏生の同僚で、よく世話を焼いてくる。

性格は明朗快活。趣味は洋菓子作り。

八束 忠(やつか・ただし)

25歳 会社役員

八束家の跡取り息子。雪の兄、晴人の従兄にあたる。

やや気難しい性格で、真白への当たりが強め。シスコン。

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