二日目:姫君と使用人
文字数 3,727文字
換気のために開放されていたドアから、びゅうと冷たい風が吹き込んできた。
「きゃっ」
小さな悲鳴を聞いて、
背中に冷たい風を受けながら、雪様が小柄な方で良かったと思った。私でもなんとか壁になれる。
「大丈夫ですか、雪様」
「ええ。……ねえ夏生、ちょっとだけテラスに出てもいい?」
「それは構いませんが……上着をお持ちしましょうか?」
「大丈夫よ、本当にちょっとだけだから」
テラスからは、綾部家の敷地である平原が一望できた。すぐ下は庭で、奥様の趣味で作られた家庭菜園もある。
二階から下りられない私にとって、このテラスは唯一外に出ている気分になれる、気に入りの場所だった。
「すごいわね……」
雪様は放心した様子でぽつりと零した。ほう、と白い息が宙に浮いて溶ける。
相変わらず風は強く、私は雪様の髪が舞い上がる様子にしばし見惚れた。
「向こうの丘も綾部の土地なの?」
振り返る雪様の指が示す方向を見て、私は小さく頷いた。
「そう記憶しております。ここからでは見えませんが、右手の方角には小さな湖があったかと。よろしければ、後ほど見える窓をご案内いたしますよ」
湖、と呟いて雪様は視線を景色に戻す。
「……散策してみたいわね」
「散策、でございますか?」
良いとも駄目だとも言えず、私は返事を誤魔化した。雪様が外を散策するのは構わないのだが、それに私が付き添うことはできないからだ。
かといって、雪様を一人で外に出すわけにもいかない。
私が返答に困っていると、雪様はそれを見透かしたようにくすりと笑った。
「別に今すぐなんて言わないわ。どうせなら、晴人と一緒に行きたいしね」
「……左様でございますか」
ほっとしたと同時に、どこか面白くない気分になる。
雪様は何もおかしいことなど仰っていないのに、何故だろうか。
「……ん?」
ため息をつきそうになるのを
テラスの真下、奥様が趣味でやっている家庭菜園の辺りが何やら騒がしい。
誰なのかは分からないが、女性の使用人の声が複数。それから、聞き覚えのある声が一つ。
テラスの端まで歩いていって、菜園を見下ろす。
雪様も私の隣に立って、同じように地面を見下ろした。
制服の袖を
「あれは、ええと、晴人付きの……何ていったかしら」
「
菜園の隅に女性の使用人がふたり立っていて、はらはらした表情で真白を見ていた。恐らく本来は、彼女たちが水
真白は少々フェミニスト寄りの思考をする。女性の使用人が体力の要る仕事をしていた場合、進んで引き受けたがるのだ。
自分の仕事に支障をきたすような真似はしないので、私も彼の好きにさせている。
「おそらく晴人様がお仕事に集中されているので、ああして他の手伝いに回っているのでしょう」
晴人様は集中したい時に他人の気配が邪魔になる
休憩していていいと言われるのだが、結局手持ち無沙汰になって、他の仕事を手伝いに行くのが常だった。
真白はホースの口を菜園の上に向けて、水を上空に打ち上げている。
「でぇい、即席スプリンクラー!」
「水出しすぎです都築さんー!」
「しかも畑にかすりもしてないから!」
ここに私たちがいることに、あいつは気付いているのだろうか。
……雪様に一滴でも水をかけたら、今日の昼食を抜きにしてやるからな。
水が来たらすぐ庇える位置にさりげなく移動して、私は真白の後頭部を睨みつけた。
「……見てたら寒くなってきちゃったわ」
私は慌てて、雪様を屋敷の中へ連れ戻した。
心なしか、雪様のお顔が青ざめて見える。薄い布越しに触れた腕は、ひんやりと冷たかった。
……ああ、どうして言われるまで気付かなかったのか。不甲斐ない思いでいっぱいになる。
「気が回らず申し訳ございません。とりあえずお部屋に戻りましょう。案内の続きは後日でも構いませんし、もし見取り図で十分でしたら、無理にお付き合い頂かなくても結構ですから」
「そう? じゃあ、そうしましょうか」
雪様は両腕をさすりながら、ほっとしたように微笑んだ。
……自分の
「そういえば、夏生は寒くないの?」
「使用人の制服は、厚手にできておりますから」
それでも、この季節の外気に耐えられる程ではない。
改めて雪様がどれだけ寒い思いをされたかを考えて、無意識に拳を握りこんだ。
「お部屋に着いたら、何か温かいお飲み物をお持ちしましょうか?」
「じゃあ、カフェオレをお願いできるかしら。お砂糖も欲しいわ」
「かしこまりました」
部屋に戻ると、私はすぐに暖房を入れた。
クローゼットからショールを持ち出し、雪様の薄い肩にそっと掛ける。
「それでは、お飲み物の用意をして参ります」
「ええ、お願いね」
私は部屋を出て、簡易キッチンへ向かった。
桜色のカフェオレボウルとソーサーを軽く洗い、沸かした湯で温めておく。合わせるミルクも、鍋に注いでコンロの火にかけた。
寒い思いをされたのだ、なるべく熱い状態でお持ちしたほうがいいだろう。
使う豆は、ミルクの風味に負けない深炒りのもの。電動ミルにかけている間にワゴンを引っ張り出して、忘れないうちにシュガーポットをその上に。
コーヒーの抽出が終わったら、ミルクと合わせれば出来上がりだ。
……少し考えて、使用人用の食器棚から蓋付きのマグカップを取り出す。
余ったミルクとコーヒーを注いで、テーブルの上に置いておいた。
外はなかなか寒いようだし、冷めないうちに飲んでくれればいい。
◇
「ねえ晴人。私、お屋敷の敷地を散策してみたいんだけど」
昼食の席で、食事の手を止めた雪様が言った。
晴人様が、きょとんとしたお顔をされる。口の中にまだ食べ物が残っていたようで、返答までに少々時間がかかった。
「……散策?」
「ええ。テラスから丘が見えたんだけど、綾部の土地だって夏生が言っていたから。貴方の都合が良ければだけれど、一緒に行かない?」
真白がちらりとこちらに視線を寄こしたが、
彼もそれを察したのか、こちらに向けていた視線をすいと戻した。
食卓では、晴人様が楽しそうに頷いている。
「いいね。お昼は弁当にしてもらって、外で食べようか」
「ピクニックみたいで楽しそうね。じゃあ、日取りが決まったら教えてくれる?」
「今から調整すれば、明日の十時ごろから行けるけど」
「あら、無理してくれなくてもいいのに」
「大丈夫だよ。ねえ都築君?」
晴人様に話を振られ、真白が少し考えて、そうですねと頷いた。私が真白と一緒に晴人様についていた時も、仕事には結構な余裕があったと思う。
そういえば少し前に、晴人様が休憩を最低限しか取らず、仕事に没頭されたことがあった。今思えば、雪様がいらっしゃる予定があったから、前倒しで片付けたのだろう。
今ここでそれを暴露しても、おそらく晴人様は怒らない。雪様もきっと、嬉しそうになさるのだろう。
……けれど。
その光景を『見たくない』と、思ってしまった。
心からお仕えしている、主人ふたりの笑顔だというのに――。
◇
夜の八時を過ぎた頃、いきなり執事に呼び出された。
何かと思えば、出張中の旦那様から私に電話が掛かってきたらしい。
明日の散策でお召しになる服を、雪様と一緒に選んでいたところだったのだが……。
まあ、好都合といえば好都合か。私も、旦那様に確認しておきたいことがある。
「代わりました、庄司です」
『雪君付きの使用人になったそうだな』
前置きもなしか。
内心で毒づくが、これは今に始まったことではない。気にするだけ無駄だ。
「はい、正式な使用人が決まるまでの間ですが」
意趣返しのつもりはなかったが、自然に声が平坦になってしまう。
元からこの喋り方なのだ、別に
受話器の向こうから、呆れたようなため息が聞こえた。
『……今から外すのも不自然だし、仕方ない。
どうやら旦那様にとって、私が雪様付きになるのは不本意だったようだ。強引に担当を外されないだけ良かった、と内心で安堵する。
しかし、雪様の正式な使用人としては、候補に加えてもらえなさそうだ。
ちりり、肋骨の内側を、針のように鋭い何かが引っかいていく。
そのかすかな痛みを無視して、私は再び口を開いた。
「旦那様」
『何だ』
「雪様がお出かけになる際、私はいかがいたしましょうか」
『これまでと同じだ。一階に下りることは許可しない』
やはり、雪様に付き添うことは無理のようだ。
ため息をつきたくなったが、なんとか
『そのあたりは晴人に言っておく。代わってくれ』
「かしこまりました」
内線のボタンを押して、私は今度こそ遠慮なく、大きなため息をついたのだった。