三日目:使用人の秘密
文字数 3,376文字
時計が七時を指したのを確認して、雪 様を食堂へお連れした。
真白が遅れずに起こしていれば、晴人様もすぐにいらっしゃるだろう。
雪様が晴人様が来るまで待つと仰ったので、その間のつなぎにと茶を淹れる。
兄君の忠様はどちらかというとコーヒー党だったが、雪様は紅茶のほうを好むようだ。
茶の種類を指定されなかったので、紅茶ではなくブレンドのハーブティーを選んだ。
ハーブティーは正直あまり詳しくないのだが、奥様――晴人様の御母上が、「美容効果があるのよ」と朝に好んで飲んでいるものがある。
雪様がハーブティーに口をつけたところで、晴人様が入ってきた。その後ろを真白が続く。
「おはよう、雪」
「晴人。おはよう」
雪様の傍らに立っていた私は、一歩下がって晴人様に一礼した。
顔を上げると、晴人様がなんとも言えない表情で、私のほうをじっと見ている。
……気のせいか? 雪様を見ていたんだろうと思ったが、この若い主人が、雪様をあんな顔で見るだろうか。
晴人様が視線を外して椅子に座ったので、思考を一度切り上げた。
「……そういえば今日の散策だけど」
朝の食事が始まって数分後。今日は珍しく、晴人様が先に口を開いた。
「雪、どこか行ってみたい所はある?」
「そう言われても……。私だってどんな場所があるのか知らないし」
雪様はそう言って、そうだ、と何か思いついたように私のほうへ顔を向ける。
「ねえ夏生、どこかお勧 めはない?」
そう言われても、私だって外に出たことがない。
確かに敷地については、地図上で何がどのあたりにあるかは教えられたが……実際に見たわけではないし。
「ご期待に添えず申し訳ございませんが、私は外に出ることがありませんので……」
言葉を濁して、隣の男に視線を向ける。
「外のことなら、私よりも都築のほうが詳しいと思いますが」
「えっ」
二人の視線が同時に真白を向いた。
いきなり注目されて、真白が少し狼狽 える。その様子がおかしくて笑いそうになったが、なんとか耐えた。
「私もお屋敷の外に出るのは買い物の時くらいですし、今回のようにピクニックで回る場所にはあまり心当たりが……。地図はご用意しますから、行ってみたいと思った場所に、行ってみればよろしいのでは?」
制限時間もチェックポイントもないんですから、と真白が冗談めかして付け足すと、お二人がくすりと笑う。
その様子に、私も思いつくことがあった。
「……晴人様は、雪様にお見せしたいと思う場所がおありですか?」
「僕かい?」
うーん、と晴人様は少し考えるそぶりを見せて。
「そうだな……冬だから湖が綺麗かな? 少しだけなら、森に入っても大丈夫だろうし」
「あら、素敵ね。行ってみたいわ」
ぱっと華やいだ表情になる雪様に、晴人様がほっとしたような顔をした。
それを見て、ああやはり、と納得するような、諦めるような、奇妙な気持ちが胸を満たす。
――なんだ。
最初から、私たちの意見なんて必要なかったんじゃないか。
食事の手を再開しかけて、晴人様は「ああそうだ」と声を上げた。
気まずそうに指で頬を掻いて、何故かちらりと私を見る。
「言い忘れるところだった。雪、悪いけれど庄司君は留守番してもらうことになってるからね」
「えっ?」
「付き添いは別の人にお願いしてあるから」
「夏生ではないの……?」
雪様が細い眉を下げて、私の方へ問うような視線を向けた。
縋 るように見える瞳に、申し訳ない気持ちになる。
「ご一緒できなくて残念ですが……」
言葉を濁しつつ頭を下げる。適当に言い繕うこともできたが、この方に嘘をつきたくなかった。
雪様は釈然としない様子で眉根を寄せる。
「……昨日、父さんから電話があったのは知ってるだろ?」
雪様のご様子を見かねてか、晴人様が口を開いた。
「庄司君には別件で仕事を頼んだそうだよ。三年前まで父さん付きだったから、その関係みたいだね。急いでいるようだから、僕らが出かけている間に片付けてもらうことにしたんだ」
ごめんね、と晴人様が申し訳なさそうに言う。それは誰に向けた謝罪なのだろうか。
雪様はむう、と唇を尖らせたものの、すぐに肩を落としてため息をついた。
「……仕事なら仕方がないわ。次は一緒に行きましょうね、夏生」
「はい、是非」
私の返事に満足そうに頷いて、雪様は食事に戻る。
晴人様のほうに視線を向けると、目が合った。彼もこちらを見ていたようだ。
また、あの目だ。食事の前に私を見ていたときと同じ。戸惑うような、探るような視線。
失礼にならないように、こちらから視線を外した。
――次の機会が来たとしても。
雪様の隣にいるのは、私ではないのだろう。
◇
朝食の後、雪様の外出の準備に取りかかった。
来て行く服は昨日のうちに決めてあるので、早速それに着替えてもらう。その間に、私は化粧担当の使用人を呼んだ。
「どこか変じゃないかしら?」
「大丈夫です、お可愛らしいですよ」
雪様の服装は、白のセーターに赤いチェック柄のスカート。部屋のドアの傍らに、濃紺のトレンチコートと茶色いロングブーツが用意されている。
普段着のワンピースよりも、行動的な印象を受ける服だ。淡い色合いもいいが、こういった鮮やかな装いもお似合いだと思う。
「ただ、今日は少し風が強いので……。そうですね、厚手のタイツなどがありましたら、すぐにお持ちしますが」
「それなら、黒のタイツがあったはずよ。持ってきてくれる?」
「はい」
雪様の言葉通り、クローゼットには黒のタイツがあった。
ただ、微妙に茶系であったり薄く模様が入っていたりと種類があり、雪様がどれを指していたのか分からない。
結局、私の感性で本日の装いに合わないと思うもの以外を全てお持ちして、改めて雪様に選んでいただくことになった。
着替えと化粧が終わると、雪様は私に髪のセットをお命じになった。
壁際のドレッサーへ移動して、長い御髪をどうまとめようかと考える。風が強いのできっちりまとめたいところだが、あまりシンプルだと装いの華やかさに合わない。
髪の長さも厄介だ。雪様の髪はくるぶしまであるから、このままの長さでは毛先が地面に触れてしまうだろう。
シニヨン、いやギブソンタックにしようか。本職 ではないのでパーティに出るような本格的なものはできないが、どちらも編み込みを入れれば程よい華やかさが出るだろう。
ヘアアレンジの経験は今までなかったが、いざやってみると結構楽しいものだ。
時間にはまだ余裕があることを確認して、早速、作業に取り掛かった。
「そういえば、夏生は伯父様付きだったって晴人が言ってたわね?」
「ええ、三年前に晴人様付きになりました」
髪を櫛で梳 きながら、雪様の質問に答える。
「夏生って晴人と同じ歳よね? 三年前っていうと……」
「まだ誕生日を迎えていなかったので、十九でした」
確か、真白と初めて会ったのも三年前だった。少し懐かしい気分になる。
「そんなに若い頃から? あ、でもその前が伯父様付きっていうのも凄いわよね」
「旦那様付きといっても、主だった仕事は当時の執事がやっておりました。私は簡単なお世話くらいで。晴人様付きにしても、メインは都築で私はサポートのようなものです」
答えると、雪様は「ふうん」と息を吐くように相槌を打った。
その間、私の視線は手元に集中している。ここまで長い髪を編むのは初めてだ。
雪様の御髪は緩くカールしているから、ストレートよりはまとめやすい。編み終えた髪を、水晶のような飾りの付いた髪留めで留めた。
「ところで、夏生はいつからここで働いているの?」
唐突な質問に、毛先を整えていた手が一瞬止まる。動揺を悟られないよう、ゆっくりと動作を再開させた。
……もうすぐ勤続二十年になります、だなんて言えるわけがない。信じていただけるわけがない。
下手をすると、不誠実だと軽蔑される可能性だってある。それは何としてでも避けるべきことに思えた。
どう切り抜けるか思案して、浮かんだのは真白の能天気面。あれを全部真似るのは無理だが、と心中で苦笑した。
「秘密です。都築よりは長いですが」
「あら、意地悪ね」
微笑を作ってそう答えると、雪様はくすくすとお笑いになった。その振動で、指の間から御髪が零れていく。
機嫌を損ねている様子がないことに、ひとまずは安堵した。
真白が遅れずに起こしていれば、晴人様もすぐにいらっしゃるだろう。
雪様が晴人様が来るまで待つと仰ったので、その間のつなぎにと茶を淹れる。
兄君の忠様はどちらかというとコーヒー党だったが、雪様は紅茶のほうを好むようだ。
茶の種類を指定されなかったので、紅茶ではなくブレンドのハーブティーを選んだ。
ハーブティーは正直あまり詳しくないのだが、奥様――晴人様の御母上が、「美容効果があるのよ」と朝に好んで飲んでいるものがある。
雪様がハーブティーに口をつけたところで、晴人様が入ってきた。その後ろを真白が続く。
「おはよう、雪」
「晴人。おはよう」
雪様の傍らに立っていた私は、一歩下がって晴人様に一礼した。
顔を上げると、晴人様がなんとも言えない表情で、私のほうをじっと見ている。
……気のせいか? 雪様を見ていたんだろうと思ったが、この若い主人が、雪様をあんな顔で見るだろうか。
晴人様が視線を外して椅子に座ったので、思考を一度切り上げた。
「……そういえば今日の散策だけど」
朝の食事が始まって数分後。今日は珍しく、晴人様が先に口を開いた。
「雪、どこか行ってみたい所はある?」
「そう言われても……。私だってどんな場所があるのか知らないし」
雪様はそう言って、そうだ、と何か思いついたように私のほうへ顔を向ける。
「ねえ夏生、どこかお
そう言われても、私だって外に出たことがない。
確かに敷地については、地図上で何がどのあたりにあるかは教えられたが……実際に見たわけではないし。
「ご期待に添えず申し訳ございませんが、私は外に出ることがありませんので……」
言葉を濁して、隣の男に視線を向ける。
「外のことなら、私よりも都築のほうが詳しいと思いますが」
「えっ」
二人の視線が同時に真白を向いた。
いきなり注目されて、真白が少し
「私もお屋敷の外に出るのは買い物の時くらいですし、今回のようにピクニックで回る場所にはあまり心当たりが……。地図はご用意しますから、行ってみたいと思った場所に、行ってみればよろしいのでは?」
制限時間もチェックポイントもないんですから、と真白が冗談めかして付け足すと、お二人がくすりと笑う。
その様子に、私も思いつくことがあった。
「……晴人様は、雪様にお見せしたいと思う場所がおありですか?」
「僕かい?」
うーん、と晴人様は少し考えるそぶりを見せて。
「そうだな……冬だから湖が綺麗かな? 少しだけなら、森に入っても大丈夫だろうし」
「あら、素敵ね。行ってみたいわ」
ぱっと華やいだ表情になる雪様に、晴人様がほっとしたような顔をした。
それを見て、ああやはり、と納得するような、諦めるような、奇妙な気持ちが胸を満たす。
――なんだ。
最初から、私たちの意見なんて必要なかったんじゃないか。
食事の手を再開しかけて、晴人様は「ああそうだ」と声を上げた。
気まずそうに指で頬を掻いて、何故かちらりと私を見る。
「言い忘れるところだった。雪、悪いけれど庄司君は留守番してもらうことになってるからね」
「えっ?」
「付き添いは別の人にお願いしてあるから」
「夏生ではないの……?」
雪様が細い眉を下げて、私の方へ問うような視線を向けた。
「ご一緒できなくて残念ですが……」
言葉を濁しつつ頭を下げる。適当に言い繕うこともできたが、この方に嘘をつきたくなかった。
雪様は釈然としない様子で眉根を寄せる。
「……昨日、父さんから電話があったのは知ってるだろ?」
雪様のご様子を見かねてか、晴人様が口を開いた。
「庄司君には別件で仕事を頼んだそうだよ。三年前まで父さん付きだったから、その関係みたいだね。急いでいるようだから、僕らが出かけている間に片付けてもらうことにしたんだ」
ごめんね、と晴人様が申し訳なさそうに言う。それは誰に向けた謝罪なのだろうか。
雪様はむう、と唇を尖らせたものの、すぐに肩を落としてため息をついた。
「……仕事なら仕方がないわ。次は一緒に行きましょうね、夏生」
「はい、是非」
私の返事に満足そうに頷いて、雪様は食事に戻る。
晴人様のほうに視線を向けると、目が合った。彼もこちらを見ていたようだ。
また、あの目だ。食事の前に私を見ていたときと同じ。戸惑うような、探るような視線。
失礼にならないように、こちらから視線を外した。
――次の機会が来たとしても。
雪様の隣にいるのは、私ではないのだろう。
◇
朝食の後、雪様の外出の準備に取りかかった。
来て行く服は昨日のうちに決めてあるので、早速それに着替えてもらう。その間に、私は化粧担当の使用人を呼んだ。
「どこか変じゃないかしら?」
「大丈夫です、お可愛らしいですよ」
雪様の服装は、白のセーターに赤いチェック柄のスカート。部屋のドアの傍らに、濃紺のトレンチコートと茶色いロングブーツが用意されている。
普段着のワンピースよりも、行動的な印象を受ける服だ。淡い色合いもいいが、こういった鮮やかな装いもお似合いだと思う。
「ただ、今日は少し風が強いので……。そうですね、厚手のタイツなどがありましたら、すぐにお持ちしますが」
「それなら、黒のタイツがあったはずよ。持ってきてくれる?」
「はい」
雪様の言葉通り、クローゼットには黒のタイツがあった。
ただ、微妙に茶系であったり薄く模様が入っていたりと種類があり、雪様がどれを指していたのか分からない。
結局、私の感性で本日の装いに合わないと思うもの以外を全てお持ちして、改めて雪様に選んでいただくことになった。
着替えと化粧が終わると、雪様は私に髪のセットをお命じになった。
壁際のドレッサーへ移動して、長い御髪をどうまとめようかと考える。風が強いのできっちりまとめたいところだが、あまりシンプルだと装いの華やかさに合わない。
髪の長さも厄介だ。雪様の髪はくるぶしまであるから、このままの長さでは毛先が地面に触れてしまうだろう。
シニヨン、いやギブソンタックにしようか。
ヘアアレンジの経験は今までなかったが、いざやってみると結構楽しいものだ。
時間にはまだ余裕があることを確認して、早速、作業に取り掛かった。
「そういえば、夏生は伯父様付きだったって晴人が言ってたわね?」
「ええ、三年前に晴人様付きになりました」
髪を櫛で
「夏生って晴人と同じ歳よね? 三年前っていうと……」
「まだ誕生日を迎えていなかったので、十九でした」
確か、真白と初めて会ったのも三年前だった。少し懐かしい気分になる。
「そんなに若い頃から? あ、でもその前が伯父様付きっていうのも凄いわよね」
「旦那様付きといっても、主だった仕事は当時の執事がやっておりました。私は簡単なお世話くらいで。晴人様付きにしても、メインは都築で私はサポートのようなものです」
答えると、雪様は「ふうん」と息を吐くように相槌を打った。
その間、私の視線は手元に集中している。ここまで長い髪を編むのは初めてだ。
雪様の御髪は緩くカールしているから、ストレートよりはまとめやすい。編み終えた髪を、水晶のような飾りの付いた髪留めで留めた。
「ところで、夏生はいつからここで働いているの?」
唐突な質問に、毛先を整えていた手が一瞬止まる。動揺を悟られないよう、ゆっくりと動作を再開させた。
……もうすぐ勤続二十年になります、だなんて言えるわけがない。信じていただけるわけがない。
下手をすると、不誠実だと軽蔑される可能性だってある。それは何としてでも避けるべきことに思えた。
どう切り抜けるか思案して、浮かんだのは真白の能天気面。あれを全部真似るのは無理だが、と心中で苦笑した。
「秘密です。都築よりは長いですが」
「あら、意地悪ね」
微笑を作ってそう答えると、雪様はくすくすとお笑いになった。その振動で、指の間から御髪が零れていく。
機嫌を損ねている様子がないことに、ひとまずは安堵した。