第5話

文字数 5,431文字

 ────◆────


 おかしい。
 須臾はバルコニーで育てている野菜の手入れと収穫をしながら首をひねっていた。
 昨日保護した女子高生が起きてこない。昨晩は午後九時すぎには寝ているはずだ。早すぎるだろうと思う一方で、須臾も高校の頃はむやみに眠かったことを思い出し、そんなものかと思い直した。
 ところが、すでに昼になろうしているにもかかわらず一向に起きる気配がない。
 簡易的に仕切った部屋からは寝息が聞こえていた。様子を見るために部屋を覗くべきか覗かざるべきか、暫く悶々と考えながらその手前をうろうろし、答えが出ないままひとまずやるべき事を先に済ませようと彼女用に作っているテーブルの組み立てに手を付けたものの、作業音で起こしてしまうのも気が引けた。
 幻覚かもしれないホームレス女子高生を見かねて保護しただけだというのに、こうまで気を遣わなければならないのかと思うと先が思い遣られる。やはり幻覚とはいえ他人との同居は早計だったか。

 いや、と須臾は思い直す。
 女子高生とはいえ女性だと思うから何かと気を遣うのだ。子供だと思えばなんてことはない。彼女に女性としての自覚があるならばマナーとして洗面所の鍵もかけたはずだ。そう、あれはまだ子供なのだ。微かな寝息が規則正しく聞こえていたのだから、何も心配することはない、ただ寝ているだけだろう。だが、さすがに昼近くまで起きないのは少々問題だ。この先ここで暮らすのであれば、最低限のルールは決めておく必要がある。そう、何事も最初が肝心だ。

 昼に食べようと収穫したブルーベリーとトマトを手に、須臾は自分を正当化することで腹を決め、ガーデニングツールを片付けて部屋に戻れば、寝癖が付いたままの件の女子高生がソファーにだらしなくもたれていた。
「おはよーございます」
 お早くはない。
 そんな須臾の不機嫌さが伝わったのか、彼女は素早くソファーから立ち上がり、「洗面所借りまーす」としっかり用意していたタオルを持って逃げていった。
 もしかして断りを入れるために待っていたのだろうか。だとしたら、あからさまにむすっとした須臾の方が大人気ない。

 キッチンでブルーベリーとトマトを洗いながら須臾はふと気になった。昼はそうめんでいいだろうか。夏の須臾の休日の昼はそうめん一択だ。女子高生はそうめんなど食べるだろうか。朝食用のグラノーラの方がいいだろうか。女子高生は一体何を食べて生きているのだろう。
 須臾の周りには年下の女の子がいなかった。
 須臾の一族は男系で従兄弟は男ばかりのうえ、唯一の女子は十歳以上も上だったせいか、女子というよりは女の人であり、あまり接点もなかった。
 全校生徒が十人ほどしかいない小学校には従兄弟たちしかおらず、それは中学を卒業するまで続き、寮生活となった高校は海洋科だったせいか周りには男しかいなかった。
 そういえば、と彼女が会計に紛れ込ます菓子パンを思い出し、買いに行くべきかを須臾が悩んでいると、洗面所から出てきた彼女が須臾の手にあるそうめんを目敏く見付け、「あ、私そうめん好きー。うわー、そうめん久しぶりかもー」と暢気な声を上げた。

 須臾の料理は茹でるか電子レンジでチンするかの二択だ。肉を焼けばかたく、カボチャを煮込めばどろどろのぐずぐず、野菜を炒めればくったりと水っぽい。センスがないことを早々に痛感し、以降は茹でるか電子レンジで温めるかのどちらかで済むものしか家では作らない。それでも十分なんとかなってきた。

 朝のうちに収穫した野菜をざく切りにしていると、「あ、私やります」と背後から声がかかった。素直に場所を譲ると、慣れた手付きで包丁を扱っている。
 須臾がガステーブルに火を点け、水の入った鍋をのせると、横から物珍しそうな視線が注がれた。IHやビルトインが主流となった今、僻地で生まれ育った須臾にとっては馴染みのあるこのガスコンロも若い彼女はこれまで目にする機会がなかったのかもしれない。
 お湯を沸かし、そうめんを茹で、ザルにとって水でしめる。その間彼女は勝手に冷蔵庫を覗き、めんつゆを用意していた。いつの間にか用意されていた形の違う深皿にそうめんを盛り付けると、彼女は「ぶっかけにしましょうよ」と刻んだ野菜を彩りよく盛り付けていく。
 なるほど、こうやって食べるのか、と須臾が妙に感心していうちに、彼女は冷蔵庫に入れておいた大葉を追加で刻んでこんもり盛り付けた野菜のてっぺんにぱらぱらと落とした。最後にめんつゆを回しかけたところで、彼女ははっと何かに気付いたように須臾を見た。
「私の箸、あります?」
 食器棚の中を漁り、以前コンビニで貰った割り箸を見付け出した須臾は、彼女に差し出しながら、そうか、箸も必要か、と頭の中の購買リストに追加しておく。
 食器もグラスもここには一人分しかない。大きさも形もデザインも違う二枚の深皿を見て、これは揃っていた方がいいのか、と疑問が浮かんだ。ただの同居人と揃いにする必要はあるだろうか。しかももしかしたら幻覚かもしれない存在だ。
 プラスチック用のゴミ箱に放り込まれている昨日彼女が飲み干した空のペットボトルが須臾の目に入った。
 はたして本当に幻覚なのか。
 またもや答えのない疑問が頭をもたげる。幻覚ではなければ説明が付かない存在。まさか幽霊などではないだろう。そもそも須臾は幽霊を信じていない。幽霊が存在するのであれば、とっくに出会っているはすだ。

「あの、食べ終わったら洗濯機借りてもいいですか?」
 自分で作るよりも数倍おいしいそうめんを三分の二ほど食べ進めたところで、まだ半分も食べ進んでいない彼女が声を上げた。須臾が軽く頷くと、それが、と彼女の声が続いた。
「私、電化製品が使えないんです。電池で動いている物は使えるんですけど、コンセントで繋がっている物は使えないみたいで。電源、入れてもらってもいいですか」
 どうにも申し訳なさそうに言われ、須臾は一体どういう原理でそうなっているのかを考えるより先に頷いていた。
「あと、ネットとか電波系も使えないみたいで。テレビのリモコンとかも電池で動いてるくせに使えないんです」
 訊いてもいないのに彼女は自分の不可解な状況を憤慨し始めた。
「冷蔵庫みたいに基本的に電源入れっぱなし系だと触ってるときに電源切れるだけで勝手に電源入り直してくれるんですけど、何か操作しないといけないものは今のところ全滅です」
 途中、昨日久しぶりに野菜食べました、湯船に浸かったのも久しぶりで、そうめんも去年ぶりかも、なんか一気に生き返りました、等々、彼女の話題はあちこちに飛びまくる。
「エレベーターも誰かと同乗すれば乗れるんですけど、自分でボタンを押すのは怖くて確かめてません。閉じ込められたら最悪ですし。この前泊めてもらったときも……あ、こないだは泊めてくれてありがとうございました。あの時もトイレに行きたくなって、エレベーター乗りたかったんですけど四階までしか来なくて、仕方なく階段使ったんです。あれは本当にきつかった。罰ゲームかって思いましたよ」
 本当によく喋る。喋りながらも合間合間でしっかりそうめんも食べるのだからほとほと感心する。
「あと、もしできればでいいんですけど、着替え買うの付き合ってもらえませんか」
 そのくらい一人で……と思いかけ、彼女がおそらく須臾以外には見えていないことを思い出す。女子高生の服……どんな店だ、と眉を寄せたところで、彼女が慌てたように付け加えた。
「あの、ウニキュロとかでいいんです。あそこならほら、セルフレジがあるから何を買ってるかわからないし」
 そうか、セルフレジではない場合、店員には須臾が女子高生用の服を買っているように見えるのか。さすがにそこまでの勇気はないため、須臾は彼女の提案を受け入れ頷く。
「ネットで買うという手もあるんですけど……」
 それは却下だ。

 須臾の身辺はゆるいながらも監視されている。家の中にカメラはないが、家の出入りは防犯カメラで監視されているし、インターネット回線などはしっかりチェックされている。行動そのものが監視されているわけではないので、チェックされたくない調べ物等はネットカフェや図書館などを利用して、監視から逃れている。支給されているスマホは退社と同時に電源を切り、プライベートでは持たないようにしている。
 それはコユミからこっそり渡された古びた小さな手帳に書かれていた注意事項で知った。配属されたばかりで対象者先に同行する際、電車の中で人目を憚るように渡されたものだ。コユミも同じように渡されたものなのだろう。少なくとも四人分の筆跡がそこにはあった。須臾も自分の後継者にその手帳を同じように渡すことになる。須臾が新たに知った注意事項を書き加えて。
 おそらく上はこれを把握しているうえで見逃しているのだろう。少なくとも須臾が知る上層部はどんな些細なことも見逃さないだけの力を持つ。

 ふと正面に座る彼女の顔色が格段に良くなっていることに気付いた。たった一晩ぐっすり寝ただけでここまで回復するとは若い証拠だ、などと年寄りじみたことを考えるのは疲れのせいだろうか。年を取ったな、と考える一方で、まだ二十代なのにな、とも考える須臾は席を立ち冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して彼女の前に置いた。早速口を付ける彼女が「やっぱ公園の水よりおいしー」としみじみ呟くのを聞いて、そういえばこれまで公園の水を飲む機会はなかったな、と須臾はぼんやり思った。

 彼女の言う「電化製品が使えない」は面白いくらい本当だった。
 彼女が洗濯機の電源を押して洗濯機は無反応だ。須臾が押せば普通に電源は入る。その電源が入った状態で洗濯機のフタを閉めると自動的に運転開始となるのだが、彼女が閉めると電源が落ちる。直接触らなければ、とタオル越しに触れても、間に別の物を介しても電源は落ちる。
 彼女が須臾から発生する幻覚だとしたら、電源が入らないのは実際に存在しないのだから理解できるとして、電源が落ちるのは理に適わない。やはり彼女は須臾と関係なく存在していると考えた方が納得できる。それでもまだどこか半信半疑だ。透明人間などという非科学的な存在はフィクションの中で十分だ。
 須臾が洗剤等の在処を教えてやると、彼女は「このシミ取り使ってもいいですか。このネットも使っていいですか。制服も洗っちゃえ。あっ、うちの高校の制服ウォッシャブルなんで洗濯機で洗えるんですよ。あー柔軟剤がない。えーおしゃれ着洗いもない」と姦しく喋り続けた。須臾は頭の中のリストに柔軟剤とおしゃれ着洗いを追加した。
 ひとしきり騒いで全ての洗濯物を洗濯機に放り込んだ彼女は、須臾が洗濯機のフタを閉めると、水が勢いよく溜まっていく様子を感慨深そうに眺めていた。



 なぜこんなにも時間がかかるのか。
 往々にして女性の買い物は長いとは聞いていたが、これほどだとは思わなかった。
 須臾は入り口付近に用意されている椅子に座り、彼女の買い物が終わるのを待つ。こんなことなら時間を決めて待ち合わせればよかったと向かいにあるコーヒーショップを見て思う。須臾の隣には同じように家族の買い物を待つ休日の父親を絵に描いたような男がスマホを眺めている。
 須臾が、本でも持ってくればよかった、と何度目かの後悔を思い浮かべていると、隣の男が立ち上がり、手を振る妻と娘の元に歩み去って行った。入れ違うように、部屋着にくたびれたローファーという情けない姿の彼女が小走りに戻ってきた。出掛ける際、着替え全てを洗ったせいで「靴下がない」と情けない顔で素足をローファーに突っ込んでいたことが思い出される。
「すいません、遅くなって」
 カゴの中の商品数は時間がかかった割にはそれほどでもなかった。
 洗濯物をバルコニーに干しているのを見た限り、彼女はたいして着替えを持っているわけではなさそうだった。ついでのようにリュックの中を空にして豪快にもざっと水で洗い、裏返して干していたのだから、あれが彼女の荷物全てだろう。
 須臾は内心で余計なお世話だと思いつつも、カゴに手を伸ばし商品を確認した。なぜかセールの値札が付いたものばかりが目に付いた。おまけにどう考えても着替え二日分にもならない量だ。色気もなくパッキングされた下着類が二枚ずつしかなかった。
 彼女の恨みがましい目を須臾が見返すと、途端に彼女は狼狽えたように口を開いた。
「あの、私って、いつまであそこに居てもいいんですか?」
 自信なげな声に、ああなるほど、と須臾は納得した。あのリュックに入る量を考えるとこのくらいになるのだろう。
「もし、もしもなんですけど──」彼女が頼りなげに目を伏せる。「しばらく居てもいいなら、もう少し買おうと思うんですけど……」
 数日で追い出すつもりなら部屋を用意したりはしない。それは彼女もわかっているのだろう。それでも言質が欲しくなる。確信がないから不安にもなる。互いの間に信頼関係が構築されていないのだから当然だろう。
「好きなだけ居ればいい」
 絵に描いたような驚愕の表情を見せた彼女から出てきた言葉は──。
「喋れたんですか!」
 だった。



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み