第16話

文字数 6,495文字

 ────◇────



 春に高校を卒業した青はしばらくは大学に通い続けていたものの、どこか物足りなさを感じていた。心が細波立つようなざわざわとした焦燥感。
 このままでいいのか、という疑問が日に日に強くなっていく。あの島にいるときにはすっかり忘れていられるのに、船から下りた途端また追い詰められるような嫌な感覚が付き纏う。
 夏が終わるころには真剣に考えるようになり、須臾に相談したところ、きっぱりとした答えが返ってきた。
「働け」
 である。
 須臾は、そもそも、と続けた。
「青は勉強が好きじゃないだろう」
「そうだけど、なんかどうせただで講義受けられるならって思うと勿体ないような気がして」
「知りたくなったときに通えばいい」
「そうだけど」
 何もいま全てを頭に詰め込まなくてもいいだろう、と須臾は言う。青が自主的に通っているのならと放っておいたが、表情を見る限り講義の内容を理解しているとは思えなかったと、忌憚のない感想を淡々と吐き出した。
 ばれてたか、と青は気まずい思いで笑った。理解できないゆえの焦燥だったのかと、須臾に言われたことで青はここ最近感じていた不快感の根元にたどり着いた。
「だいたい、青の場合は美術館や博物館みたいな視覚的に理解する方が合ってるんじゃないか?」
「そうかも。文字を読むより漫画化や映画化されてる方がわかりやすいし」
「そういうことじゃない」
「えー、そういうことでしょ?」
「そうか?」
「そうだよ」
 そして、須臾は青にもできる在宅ワークをいくつか見付けてきてくれたのだ。



「ここまでわかった?」
 目の前に座る母はいつもどこか不安そうな面持ちで青の位置を探っている。テーブルの上に広げられたノートに「OK」の文字を書いているときでさえ、青が本当にそこにいるのかを母は心のどこかで疑っているように見える。綿とは違って信じ切れないのだろう。

 存在の証明。
 姿も見えず声も聞こえず触れることもできない存在をどう証明すればいいのか、青はわからない。
 頼りたいのに頼れない。いっそ振り切ってしまえば楽なのに、振り切れないだけの想いがあるからせつなくつらい。

 須臾が見付けてきてくれた在宅ワークは、特殊な業務に就いている彼は副業が認められていないため、母を仲介することになった。
 在宅ワークの一番人気はいわゆるデータ入力などのパソコン作業で、他にはシールを所定の位置に貼り付けたり商品を袋や箱に詰める作業など様々にある。中には千羽鶴を折る仕事もあり、青はなんとも複雑な気持ちになった。

「じゃあ荷物はこの下のコンビニ受け取りにして、お給料は青の口座に振り込まれるようになっているから」
《わかった ありがとう》
 教えられたネットバンクの名義が「東埜 青」になっていた。キャッシュカードには「Ao Tono」と見慣れないアルファベットが並んでいる。Oが多い。
 改めて自分の名前が「丹由 青」から「東埜 青」になっていたことを実感を伴わないまま理解する。

 青が行うのはシール貼りやサンプルなどの袋詰め作業だ。現代ツールが使えない青にパソコンや電話を介して行う仕事は無理で、宅配便で送られてくるパーツに細かなシールを貼り付けていく単純作業しかできない。しかも、どれほど根を詰めても月に数万しか稼げない。透き通る前のバイトで結構な額を稼いでいたことと比べると割に合わない気がしてしまう。そもそも青は手先が器用な方ではなく、細かな作業はとにかく疲れた。

 それでも、自分で稼いだお金は尊い。
 焦燥感を引っこ抜いた場所には自尊心がむくむくと育っていた。

 最初のお給料で須臾に日頃のお礼にと綿に付き合ってもらって新しいクロッグサンダルを買った。青が最初に須臾に贈られたもので、須臾のはもうずいぶんとくたびれていた。くっきりと足のあとが黒ずみ、なんとなく不潔感が漂っている。
 須臾は真冬でも休日は素足でいる。逆に青は素足で履くことがほとんどないせいか、須臾ほど汚れが目立たない。本人も黒ずみを気にしているようで、時々バルコニーで専用の洗剤を使って手入れをしているものの、そのときはきれいになってもしばらくすると元の木阿弥だ。ただし、物がいいのでソールの汚れ以外に不具合はない。買い替えるには踏ん切りが必要だ。
 


 須臾の帰りを青は玄関先で待った。エレベーターの間抜けな到着音が小さく聞こえ、少し後に鍵が差し込まれる硬質な音が鳴り、サムターンが回り、鍵が引き抜かれる音のあとにドアハンドルが動いて扉が開く。
 扉の先に青がいたことに驚いたのか、須臾は一瞬動きを止めた。おかえり、と声をかけた青に、扉を閉めたあとで、ただいま、と訝しそうに須臾が応える。
「どうした?」
「これ」
 青は背に隠していたラッピングもされていない一目で中身がわかる箱を須臾に差し出した。
 お店でラッピングするかを聞かれたとき、青はなんだか違う気がしてそれを断った。きっと須臾はきれいに包装されればされるほどどこか醒めた目で見る。そんな確信が青にはあった。
 綿は最後まで「プレゼントなのに」と言い続けたものの、どうしても青はラッピングしようとは思えなかった。
「いつもありがとう」
 黙って受け取った須臾は、しばらく箱を眺めた後、そっと蓋を開けた。音を立てないよう薄紙を捲り、そこでまた須臾はじっと中身を見つめている。
 須臾は元々口数が多くない。特に感じ入ったときは極端に口数が減る。代わりに、仕事帰りには一段と死んだように澱んでいる目が生き生きと輝き出す。それは島にいるときと同じ輝きで、青は須臾が喜んでいることをその目の輝きで知ることができた。
「うれしい?」
 それでも言葉が欲しくて訊いてみる。
「うれしい」
 青が知る限り、須臾は嘘を言わない。言いたくないことは口にしないだけで、青に対しては誤魔化すこともない。ただ、どういうわけか母に対してはいつもどこか誤魔化しているような気がしなくもない。
「履いてみて。今までのは黒だったから、今度のは紺にした」
「紺なのか」
 須臾は目を細めてその色を判別しようとしている。ダウンライトの明かりの下では二本のストラップの色が濃紺なのか黒なのかわかりにくい。
「そう濃い紺色。光の加減で少し色が変わって見えるから、きっと昼間見ればわかると思う」
 どこかぼんやりしたまま須臾はベンチに座り、箱から出したクロッグサンダルを一度膝の上に置いた。
「履くの勿体ないな」
 まさかそんな言葉が須臾の口から飛び出すとは思わず、驚きと喜びで青の心はふわっと膨らんだ。
「先にシャワー浴びてくる」
 そわそわとベンチから腰を浮かせた須臾を青はくすぐったいような思いで止める。
「いいから。今までと同じように履いて」
 しばらく悩んでいた須臾にじれた青は、須臾の膝の上に置かれていたサンダルをその足元に揃えて置いた。
「どうぞ」
 しゃがみ込んだ青はベンチに座る須臾を見上げた。
「ありがとう」
 耳から入り込んだ須臾の心から染み出た声が青の体内に心地好くこだました。
「私も、ありがとう。それと、お誕生日おめでとう」
 青も心の一番深いところから声を出した。



 午前中に二時間、午後に二時間、夕方に二時間。これが青の決めた仕事のスケジュールだ。一日六時間労働。思った以上に集中するため、疲労感はその倍くらいに感じる。須臾が休む土日は青も休む。
 それなのにどうがんばっても月に四万円、物凄くがんばっても六万円ほどしか稼げない。ひとえに青の手先の不器用さと集中力のなさが問題なのだが、他に仕事もないので仕方がない。しかも六万稼いだ月に須臾から、もう少し余裕を持って働くよう注意されていた。根を詰めすぎて幽鬼のようだったと無表情で言われては月四万、もう少しがんばって五万で手を打つしかない。
 それでも衣食住の全てを須臾に頼っていた情けない状態から、少なくとも衣だけでも自立できたことは青にとって大きな自信となった。

 とはいえ、そこに行き着くまで揉めに揉めたのだ。

 最初の給料は慣れないこともあってほんの少しの金額にしかならなかったものの、翌月は慣れも手伝ってその倍はもらえるようになった。振り込まれたお給料を須臾に全額下ろしてもらい、一万円札三枚、千円札四枚をローテーブルに並べて青は考えた。
 ソファーの端に座って建築関係の本を読んでいる須臾を盗み見る。
 支払われたお給料を全額渡せば間違いなく須臾が拒絶するだろうことはこれまでの付き合いから明確で、ならばと考えた青はその半分ほどの二万を渡すことに決めた。
「あのさ、これ、生活費」
「いらん」
 須臾は青が差しだしたお札を見ることもなく拒否した。青は須臾と一緒に暮らすようになって初めて、腹の底からの怒りを感じた。
 須臾はお金のこと以外は青を対等に扱ってくれる。だから余計に、青はほんの少しであってもお金に関しても対等でありたかった。
「ちゃんと見て! 少ないかもしれないけど、私が働いて手にしたお金だから」
「だからなおさら大事に取っておけ」
 ちらっと一瞥しただけで須臾は手元の本に視線を戻す。
「須臾! それって私を馬鹿にしてるのと同じだよ!」
 青は喉から血を吐く勢いで怒鳴った。
 本から顔を上げた須臾は、怒りに震える青を見て、動揺するでもなく本を閉じた。その冷静さが一層青の怒りを煽る。
「悪かった」
「じゃあこれ」
 ぐっと須臾の目の前に二枚の一万円札を突き出す。
「違う、言い方が悪かった。青が働いたお金は青が使うべきだ」
「だから、生活費だってば」
「生活費は必要ない。前にも言っただろう、たいした額じゃない」
「そんなわけない!」
 少なくとも青は遠慮なく毎日お風呂に入っている。水道代はそれなりにかかっているはずだ。しかも島に行くたびにかかる旅費はかなりの高額だ。それなのに須臾は青が同行することを拒まないどころか当たり前に考えている。
 須臾がお金の話を嫌がることはわかっている。それでも話さなければならない問題だ。

 話し合いの結果、平日の食事の支度や夕方の野菜の水やりを青がしていることもあり、食費は須臾持ち、家賃や光熱費は青が来る前とそれほど変わらないというどう考えてもおかしい須臾の主張を青は一旦のむことにして、それ以外の青だけが使うものを自分で買うことで決着した。
 すでにその頃にはシャンプーやボディーソープなどは共用しており、その点を指摘したものの須臾は頑なに自分が払うと譲らなかった。

「なんでそんなに頑固なの?」
 青は単純に疑問だった。もらえるならもらっておけばいいのに、と考える青には須臾が自分を犠牲にしているようにしか思えなかった。
「嫌味とかじゃなくて、純粋な疑問。だって須臾がお金払う理由はないでしょ?」
 それを聞いた須臾は考え込んだ。まるで今初めてその理由を考えているようで、青は呆れを通り越して心配になる。
「見返りだってないし」
「見返りはあった」
 須臾がソファーに座る自分の足元に視線と落とした。須臾に向かって横向きに座っていた青は溜め息混じりに言った。
「たったそれだけでしょ」
「それだけじゃない。青が苦労して働いた最初の給料で買ってくれた物だろう」
「そんなこと言ったら、須臾が苦労して働いたお金で私はこれまで生かしてもらってきたよ」
 そこで須臾はふと何かを思い付いたような顔をした。
「自由が欲しくなったのかもな」
 青に関わることは須臾にとって不自由を抱え込むことであって自由を手に入れることではないはずだ。
「どういう意味?」
 ふと青の頭にベッドサイドに置いてある小さなガラス瓶に入れた真珠が浮かんだ。真っ白な一粒が青の手のひらに落とされたときの会話を思い出す。自由は不自由の中にしかない。確か須臾はそう言ったはずだ。不自由を知らなければ自由を知れない、とも。
「さあ。なんとなく思い付いた」
 その言葉通り、目の前にいる須臾にはただの思い付きを語るような軽さがあった。
「前に言ってたこと?」
「そうかもな」
 須臾が柔らかな表情で目を細めた。



「ねえ。ここにいるときの記憶って鮮明なんだけど、東京にいるときの記憶って割と曖昧なんだよね。毎日同じことの繰り返しだからかな」
 屋根がトタンで覆われ、床が張られ、今は壁を造っている須臾が手を止めて振り返った。
「俺もだな。日常が完全にルーチン化してるからじゃないか?」
「んー、そういうのとも違うんだよね。なんだろう、ここで生きて、東京で休眠しているっていうか……」
 漠然と感じていることを上手く言葉にできなくて、青は「うーん」と唸った。
「ほら、須臾だって東京にいるときは死んだ魚か枯れそうな植物みたいだけど、ここにいると生き返るっていうか、ほぼ野生児でしょ」
「いい年して児はない」
「そこはどうでもいいよ」
「ここにいると全方向に開放されてる気にはなる」
 一休みするつもりなのか、須臾が肩を回している。作っておいた麦茶を須臾に渡すと、さんきゅ、と言ったあと一気に飲み干した。
「あー、そういうことなのかな。もう一杯飲む?」
「もらう」
 金色の大きなヤカンで煮出した麦茶はまだ少し熱い。猫舌の青には一気飲みなんてとてもできないが、須臾は喉をごくごく鳴らしてまたもやひと息に飲んだ。
「口の中やけどしないの?」
「もうぬるい」
「そうかな。まだ熱いけど」
 ずずっと少しずつ啜る青を須臾は仕方ないなという目で見ている。
「青はここが合ってるのかもな」
「それはそう思う。ここに連れてきてもらってなかったら、もしかしたら発狂してたかも」
「発狂は大袈裟だろう」
「そうでもないよ。須臾に会わなかったらたぶん精神が持たなかったと思う」
 今だから言えることだ。あの当時は自分がどんな状態かもわからないままおかしくなっていったと思う。

 ざざざ……と強い風が枝葉を揺らしながら通り過ぎていく。

「青。来年今の仕事の任期が終わる」
 床に胡座をかいた須臾は手にした琺瑯のマグカップに視線を落としながら、声に少しの緊張を滲ませていた。
「監査、だっけ」
「まあ、そんなもんだ」
「それで?」
 青の胸が騒ぐ。須臾が言葉を探すように一言一言いつもよりゆっくり話している。込み上げてきた不安が青に軽い吐き気をもよおす。
「俺は仕事を辞めて、ここに移住する」
 青は息をのんだ。
「ここって、そのために造ってるの? 別荘みたいなものじゃなくて?」
「今住んでいるあのビルは、元々再来年には建て替えられる予定なんだ」
 青は足元が崩れていくような気がした。心のどこかでずっと今の暮らしが続いていくものだとばかり思っていた。口では「彼女できないの?」と軽口をたたきながら、須臾が彼女をつらないことに安堵してもいた。
「あ……」
 何か言わなきゃ、と思うのに、何も出てこない。須臾が顔を上げた。何も言えないでいる青を真っ直ぐに見た。
「青は、どうする?」
「どうするって……」
「都内に別の家を借りることはできる。青はそこに住めばいい」
「一人で?」
「弟と一緒がいいか?」
「そうじゃなくて!」
 思わず声を荒げた青を須臾は落ち着き払って見ていた。青は冷や水を浴びせられたような気になった。背中を嫌な汗が伝っていく。
「まだ先の話だ。よく考えてどうしたいか決めろ。俺は、青が望むことをできるだけ叶えるつもりでいる」
「須臾は、ここに一人で?」
「そうなるだろうな。こんな不便なところに住もうと思うなんて俺くらいだ」
 まるで自分の言葉を疑っていない須臾の言い方に、青は何も返せなかった。

 一年後には自立しなければならない。青はいきなり伸し掛かってきた少し先の未来に押し潰されそうだった。




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