第14話

文字数 5,878文字

「まさかハシブトがお嫁さんを見付けるとは」
 青は家の中から視界の端に映る番のカラスを眺めていた。春の陽光を跳ね返す濡れ羽色は心なしか昨年よりもずっと艶めいている。
「春だねえ」
 じっと見ているとハシブトは視線に気付いて逃げてしまうので、青はいつもさり気なく視界の端で観察するようにしている。身を寄せ合って食べ物を分け合う姿は睦まじい。
「ねえねえ、ハシブトの巣ってどこにあるか知ってる?」
「屋上」
「見たことあるの?」
「ない」
「見たことないのになんでわかるの?」
 須臾は答えるのが面倒になると黙り込む。
 だからモテないんだ、との青の心情を察知したのか、須臾の鋭い視線が飛んできた。

 青は高校を卒業するまでに五年かかった。卒業といっても卒業証書が授与されるわけでもなく、青自身が授業内容をきちんと理解するまで五年もかかったというだけだ。みんなよく三年間で全てを理解できるものだと感心する。
 須臾は五年かかっても自分が納得できるまで学校に通い続けた青を「よかったな」と褒めてくれた。「よくやった」でも「よくがんばった」でもなく、青自身の満足感を肯定してくれたことが嬉しかった。

 須臾との同居生活も四年目となる。
「そういえば昨日綿からはがき届いてて、五月はやっぱり無理だって。夏は絶対に行くって」
 綿から届いた「GWムリ 夏は絶対!」という暗号めいたはがきをひらひらさせる青に、出勤前の須臾から「そうか」と返される。
 再度文面を眺める。はがきいっぱいにでかでかと書かれた九つの文字。以前と比べて格段に整った文字と変わらない右曲がりの「!」に青の頬が緩む。

 青と須臾の関係は四年前とほとんど変わらない。年に三回、五月の連休と須臾の夏期休暇、年末年始に一緒に島に行くことも慣れたもので、青はすっかり船酔いを克服した。
 時々綿も同行しては青と同じく日中は一人きりを謳歌している。海なし県に住んでいるせいか、綿は驚くほど海欲が強く、須臾に教わった素潜りや魚捕りを思う存分楽しんでいる。
「だったら、今回は個室にするか」
 綿が一緒だと雑魚寝スタイルの船室でも青を真ん中にして荷物を広げ、さも今席を外していますという状態を作ることができるものの、さすがに二人だと青のスペースは須臾の荷物を広げて二人分のスペースを使っているように見えてトラブルになりやすい。実際に二人分の運賃を払っているのだから文句を言われる筋合いではないにもかかわらず、文句を言う人がいるのだ。
「お金勿体なくない? カプセルホテルみたいな船室は?」
 青は無賃乗船しようと思えば簡単にできるのだが、須臾も綿も決してそれを許さない。青自身は少しくらいという人でなし精神があるためか、どうしても勿体なく思えてしまう。
 しばらく悩んでいた須臾は「個室にする」と意見を変えず、そのまま出勤した。
 お金を出すのは須臾であるため、青が須臾の意見に異を唱えることはない。かわりに「ありがとう」を伝える。

 須臾がお金を出す対価として青が何かをする、というのが一般的な考え方だろうが二人の間にそれはない。須臾は恩着せがましいことを決して言わない。その点、青は須臾を尊敬している。
 一度だけ「お金使わせることが申し訳ないと思うなら黙って出て行くな」というようなことを言われたことがあるにはあるが、それでさえ青が勝手に出て行ったところで須臾は何も言わない気がする。
 須臾はあくまでもお金の使い道については誰にも何も言われたくないようだ。
 綿が島に同行する際の費用も須臾は当然のように払う。綿はその辺りの感覚が青よりも優れているせいか、素直にお礼を言うだけで決してそれ以外は口にしないし、払ってもらったから、という態度も取らない。
 残念ながら母はわりとしつこくお金の話題を口にする。そのせいか、自然と須臾との付き合いも疎遠になっていき、須臾は綿を通してしか母とは付き合わなくなった。
 実際青から見ても須臾と母は合わないだろうと思う。会話をコミュニケーションの主軸とする母と、他人とのコミュニケーションを必要としない須臾は根本的に合わない。それでも果敢に挑戦する母に、須臾は辟易し、綿は「あの人は自分の意見を人に押し付けすぎる」と苛ついている。
 青は、綿が母をあの人と呼ぶことに対して、男の子だなあ、反抗期だなあ、としか思わないが、母はかなり堪えているようで、時々青に長々とした愚痴手紙が届く。青がそれとは関係ない近況を返信しても彼女は特に気にした様子もないことから、ただ吐き出したいだけなのだろう。

 須臾に続いて青も家を出る。
 出掛けに須臾が「今日は午後から雨が降る」と断言したので、傘を持っていく。お天気お姉さんの天気予報は曇りだった。須臾の天気予報は当たる。今のところハズレなし。
 今日は大学で堆肥についての講義を受ける予定だ。青の目下の興味はおいしい野菜を作ること。
 青はいくつかの大学に通っている。通っているといってもこっそり講義を傍聴しているだけで、当然大学生という肩書きがあるわけではない。無賃乗船には厳しい須臾や綿も、学びに関してはゆるい。
 


 その日、小雨に靴の先を濡らしながら帰宅した須臾の顔が強張っていた。
「何かあった?」
「何もなかったか?」
 ほぼ同時に青も須臾も同じようなことを口にした。
「何もないよ」と口にする青に須臾はほっとしたように小さく息を吐いた。
 食事をしながら説明されたのは、須臾の同僚の家族が逆恨みにより襲われたというかなりショッキングな内容だった。しかも犯人はまだ捕まっていない。
「本人じゃなく家族? それってなんだか卑怯だね」
 黙って頷く須臾の顔は強張ったままだ。
「もしかして須臾も危険なの?」
「いや、俺の担当じゃない。担当者以外は知られてないはずだ」
「だったら平気じゃない? とりあえず私は見えないし、綿は夏まで忙しいみたいだからしばらく来ないだろうし」
 須臾に家族はいない。狙われるとしたら同居している青だろうが、幸いにして青は須臾にしか見えない。
 須臾は公務員で、監査のような仕事をしているらしい。規定で詳しくは教えられないとのことで、青はそれ以上を知らない。
「万が一不審者を見たら、俺が帰るまで家には入らず下のコンビニに避難してろ」
「私は見えないからなんとかなると思うけど……」ちらっと青が須臾を見れば目が合った。「須臾は平気なの? あ、そっか、なにかの武道やってるんだっけ」
 以前に身のこなしが軽い理由を訊いたら、そう答えられた覚えがある。子供のから教わっていたと。
「今は業務の一環で強制的に訓練させられている」
「えー、武道が業務の一環って、警察官や自衛官じゃあるまいし。もしかしてそっち方面?」
「いや、基本的にデスクワーク中心だな」
「それなのに武道? あっ、今回みたいな万が一のため?」
「そういうことだ」
 須臾の仕事が一体なんなのか、青はますますわからなくなる。
「警察官や自衛官じゃなければ、んー麻薬取締官とか?」
「違う」
「検事とか?」
「違う」
「SPとか?」
「セキュリティポリスは警察官だ」
「そうなの? なんかそういう職とかあるのかと思ってた。ほら、シークレットサービスみたいな」
 須臾からようやく強張りが消えた。



 ────◆────



 これまでも年に何度かそうした事態は起きた。須臾自身も身の危険を感じることが年に一度や二度ではない。それでも襲われるのは常に担当者本人であり、その家族が襲われたのは今回が初めてだ。
 任期は十一年。ぞろ目の誕生日から次のぞろ目の誕生日まで。
 十一年もあれば生活環境は変わるだろう。現に須臾の生活環境も端から見れば変わっていないように見えて、その実、大きく変わっている。

「よくも悪くも、色んな人がいますね」
 とは、先日面談した医師の言葉だ。

 相手と直接対面するのは須臾を含む色分けされた十一人だけだ。情報収集する者も、清算処理をする者も、当人と顔を合わすことはない。当人に面会し、人物評価し、清算方法を決定する実行部の十一人だけが矢面に立っている。それゆえ手当は厚い。
 今回のことを受けて、家族には警戒を促すよう指示が出ている。

「人の執念や執着を侮ってはいけません」
 とも医師は言った。

 実行部の情報は隠されている。須臾たちですら同じ実行部にどんな人間がいるのか詳しくは知らされない。内部ネットワークで繋がるだけの存在でしかない。
 襲撃した人物は医師の言う執念や執着によるストーカー行為で担当者の個人情報を地道に集めていったらしい。そして、本人ではなく家族を襲った。襲われたのは任期中に得た配偶者。襲われた人物は自分の配偶者がどんな仕事をしているのか知らなかったはずだ。知っていたなら警戒できただろうに。

 須臾は話せるぎりぎりのところまで青に説明してある。人の目から逃れることのできる青は他者と比べれば有利ではあるが、絶対ということはない。
 不正行為の取り締まり、と聞いた瞬間の青の目には痛みのようなものが浮かんでいた。

 青の父親は公務員だったらしく、金額の大きさと表沙汰になっていないことから実行部の手で清算された可能性が高い。少なくとも須臾が担当した者の中に丹由姓はなく、青の母親も詳しいことを知らされていないことから、その詳細はわからないままだ。須臾にしても他の担当者の案件を詳しく知る機会もない。ただし、懲戒免職になっているため氏名は公表されている。
 その父親はすでに再婚している。再婚の際、それまで散々揉めてきた子供たちの親権をあっさり放棄したことに元妻である祐里子は怒りに震えていた。今後一切子供たちにかかわらないことを誓約させたと、余程腹に据えかねたのか、わざわざ訪ねてきて青と須臾に報告している。

 須臾は青から父親についてを聞いたことがない。話したくないのだろうことはわかっているため、須臾から訊くこともない。
 彼女の弟である綿が言うには、父親は青をさり気なく無視していたらしい。ただし、その母親であり彼らの祖母はわかりにくい人ではあったが自分よりも姉である青を可愛がっていたとの印象を綿は持っているようだった。
 義母は初めから青が自分の息子の子供ではないことを見抜いていたのではないか、とは青の義母である祐里子の考察だ。その上で青の面倒をみていたのではないか、と。
 祐里子の元にいることになっている青宛てに今もその祖母から年賀状が届いている。儀礼的な文面の最後に必ず「お元気で」と書き添えられており、他よりもさらに丁寧に書かれた文字を見る限り、それが精一杯の意思表示なのではないかと、見せてもらった須臾は推し量る。

 色んな人がいる。医師の言葉はいつも意味深だ。



「うわー」とも「ふわー」とも「いやー」ともつかない叫びを上げながら、青が全身をぐっと伸ばしているのは、波に立ち向かう小型船の上だ。
 一年ほど前、憑き物が落ちるかのようにいきなり船酔いを克服してからというもの、青は操縦室に自分の居場所を確保し、船首の先を飽きもせず眺めるようになった。

 島影がはっきりとした姿に変わる。三メートルほどの岩壁の上にこんもりとした木々が茂る。
 さらに近付くと島の一部が大きな熊手でざっくりえぐり取られたように窪んでいるのがわかる。そこにはかつて須臾の家があった。須臾の家ばかりでなく、一族の家が寄り添うように軒を並べていた。
 その窪みの上に見えるのが、数年後須臾の住処となる家だ。しっかり根の張った木々に守られるよう考えに考えた末、その位置を定めた。
「あっ見えてきた! 高台にあるから見付けやすいね」
 青い塊が木々の間から見え隠れする。
 年に三回、僅か丸二日の滞在で一年かけて出来上がったのは、まだ家の骨組みばかりで、いつ来てもブルーシートに覆われたまま一向に作業が進んでいないような気がする。せめて屋根が架かればずいぶんとそれらしくなるものの、今回どこまで作業が進むやら。
「今回は何するの?」
「屋根」
「瓦とか?」
「いや、トタン」
 とたん、と小さく呟く青の声はエンジンと波音に掻き消されることなく須臾の耳に届いた。

 不思議なことに青の声はなにものにも邪魔されず須臾の耳に届く。さすがに距離が離れれば届かないことの方が多いが、静寂の中であれば届くだろう距離であれば、どれほど雑多な音の中にあっても紛れることがない。
 青は青でどれほど離れていても須臾の姿を見分けられると自慢している。青が言うには子供の頃からの特技であって、須臾に限らずよく見知った人であれば見分けられるらしい。
 言われてみれば須臾もそうだった。無線機から聞こえるほとんど雑音にまみれた声であっても子供の頃から聞き分けることができた。ただし青と同じで、聞き慣れた声でなければ聞き取ることはできない。
 ちなみに綿は匂いで人物を特定できるらしい。強い体臭でなくとも肌の匂いで特定できる。見えない青の位置を匂いで特定できないかと試行錯誤しているうちに鼻が利くようになったらしい。
 人それぞれ何かしらの特技があるものだ。

「木造の家って、あの台風に耐えられるの?」
「耐えられるよう造る」
 青は去年の夏に島で台風に遭遇したことがある。滞在中に突如発生した台風が速い速度で北上し、発生から数時間で島を襲った。初めこそ物珍しさと興奮からやけにはしゃいでいた青は、気丈にも自分よりも船の様子を見に行けと須臾を追い立てた。とはいえ、怖くなかったわけでもなく、暴雨から避難していた岩陰で恐怖に震えていたらしい。
 須臾にしてみればそれは小型の台風で、ほんの数時間の出来事だ。一日もあればぐるっと一周できるほどの小さな島では足の速い台風も短時間で通過していく。
 船に付きっ切りだった須臾が戻ると、岩にへばりついていた青はほっとしたように表情を緩め、よろよろと立ち上がると、「台風とは別次元の台風だった」と意味のわからないことをやけに実感を込めて訴えていた。

 須臾はここで何が起こったかを青に知らせていない。
 何も言わずにこの島に上陸させることを卑怯だと思いながらも、どうしても言えずにいる。台風に遭遇してさえも、言えないまま──。




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