第15話

文字数 5,115文字

「青、手」
 息を弾ませたままの須臾に、青は、なに? と訝しみながらも素直に手を出した。その手のひらの上に白い粒を一つ落とす。

 セルフビルドの合間にも小一時間ほど須臾は海に潜る。その間、青は一人で島の散策をしている。
 この島には小動物しかいないため、青一人でもたいした危険はないが、毒を持つ植物や昆虫には気を付けるよう言ってある。ところが青は虫は平気だと言ってあまり気にかけていない。触れただけでかぶれる植物もあるため、ステロイドを常備している。
 ここでは万が一の時もすぐに病院に駆け込むということができない。一揃いの薬は常に常備しておく必要がある。

 何を手のひらに落とされるのかと身構えていた青の表情がぱっと明るくなる。
「もしかして、真珠?」
 僅かに楕円ではあるが、粒の大きさはなかなかのものだ。
「天然」
「すごい、きれー」
 照りも艶も十分だ。青の手のひらで珠が転がる。
「もらっていいの?」
 須臾が頷くと、青は嬉しそうに笑った。
 青はアクセサリー類の一切を買わない。一つや二つ、と言う須臾に対して、青は頑として首を縦に振らない。単純にに好まないのかと思っていたが、この笑顔を見る限り嫌いではなさそうだ。
「何してた?」
 須臾の持つシマアジの入ったバケツを青が覗き込む。一気に斜面を駆け上がってきたせいでバケツの中の海水は半分まで減っていた。
「んー、家の中から空眺めてた。この景色は今だけかなーって思って」
 ブルーシートを外した家の骨組みは、見方を変えれば檻のようにも見えると青は言う。
「動物園にいるクマやトラも、檻の中を自分の家だって思ってるのかな」
 木洩れ日の中から空を見上げる青は、目を眇めながら穏やかに笑っていた。
「案外、どんな場所でもここって決められた方が楽なのかもね」
 ふと須臾は、青がどんな表情をしているのか気になった。視線を感じたのか、青の視線が空から須臾に移る。
 青の瞳はほんの少し緑がかっているのだと綿が言っていた。須臾には見分けられない色の違いは、青の本当の両親から受け継いだものではないかと綿は考えているようだった。
「ほら、ハシブトもそうじゃない? きっとカラスの縄張としてはすごく小さいんだろうけど、あそこを住処と定めたから、はぐれカラスじゃなくなって、家族をつくって、小さくても群れを作っていくわけでしょ」
 再び青は木製の檻の中から空を見上げた。青はこの島にいるときが一番リラックスしている。
「ねえ、自由と不自由ってどっちが先に生まれたと思う?」
「言葉としてか?」
「んー、言葉としてでも感覚としてでも」
 須臾は暫し考えた。空を見上げたままの青は、鼻歌が聞こえてきそうなほどご機嫌だ。
「不自由」
「なんで?」
「自由は不自由の中にしかないんじゃないか。不自由を知らなければ自由を知れない」
 ふーん、と青は空を見上げたまま気のない返事をする。
「そもそも精神が肉体に宿っている時点で不自由だ」
 青が須臾を見た。心の奥底まで見透かすような真っ直ぐな視線だった。
「私だけが不自由なのかと思ってた」
「逆に、ある意味では自由だろ」
 ふと考え込むように木々の間から見える海に目をやった青は、何かに納得するように淡く笑った。
「そうかも」
 そして、青はまた眩しそうに空を見上げた。

 青の足元に木洩れ日とともに陽炎のような影ができる。透き通る青の影もまた透き通っている。それはガラスの影に似て、よくよく見なければ気付かない。それでも、青の存在をはっきりと地面に映し取っている。
 出会った頃、青は自分には影がないと思い込んでいた。それをやたらと明るく言うものだから、須臾はかえって訝しく思い、じっくり観察した末に青の影を見付けた。
 そのときの青のあからさまにほっとした顔が須臾の脳裡にいつまでも残っている。透き通っていても、ほんの僅かにではあるが青も日に焼ける。それに気付いた須臾が麦わら帽子を買ってやったときの嬉しそうな顔も。

「天窓付けるか」
 須臾のふとした思い付きに青の目が輝く。
「いいね。家の中から空見えるのってすごくいい!」
「あー、でもそれだと昼は日射しが入って暑いな」
「じゃあその分風が通り抜ける家にすればいいじゃん。夜になれば星も見えるし。家の中から星が見えるってサイコー。ねえねえ、がんばってロフトも作れば?」
 青の声が珍しく弾んでいた。
「それだと柱が増える」
「いいじゃーん、柱の一本や二本」
 はしごを使って屋根に上る須臾のあとを青もついてくる。施工の簡単な片流れにした分、青が言うロフトも作りやすい。
「ロフトにするなら天窓じゃなく、普通に壁に窓付けてもいいんじゃないか? その方が雨漏りの心配もない」
「寝ながら星が見えるならなんでもいい」
 はしごの最上段より先には進むつもりはないのか、そこから見える景色に青はほうっと感嘆した。下にいるよりもほんの数メートル上がっただけで視界が開け海が迫って見える。
「青空よりも星空か」
「断然! ここ以上の星空なんてどこにもないよ」
 今では青もテントの中ではなく外で寝る。星空を見上げながら寝るのが最高なのだと力強く主張し、綿にも強要している。綿は星空に感動しても寝るのはテントがいいと、青が寝息を立てる頃、音を立てずにテントに入り、寝起きの悪い青が起き出す前にテントから出るという、賢さを身に付けている。

 日暮れまで黙々と垂木に野路板と呼ばれる合板を打ち付けていく。たいして広くもない家の屋根はあっという間に板で覆われた。
 建築資材は一度に運び込んである。運送費がバカにならず、余裕を持って二棟分の資材を一度に運んだ。
「屋根がついただけで家っぽくなるね」
 家から少し離れた場所に新たに造ったかまどで米を炊いている青が屋根の上の須臾を見上げている。炊爨の要領を得た青は毎回得意気に持ってきた米を炊く。実際青の炊飯の腕は上がっており、最初の頃とは比べものにならないくらい美味い。
「まだ板張っただけだ」
「でも下から見ると屋根って感じだよ」
 はしごを下りると、確かに板を張った分影ができ、青の言うように屋内感が強まっていた。
「次からタープいらなくなるね」
「壁より先に床張るか」
「ってか壁いらなくない?」
「雨の日どうするんだよ」
「そうだけど」
 魚を捌く青の手付きもずいぶんと様になってきた。初めの頃は三枚に下ろすこともできず、下ろしたところで身がぐちゃぐちゃになり、仕方なく細かくたたいてネギトロ風にしたらそれはそれで喜ばれ、須臾はなんともいえない思いをしたのも今となればいい思い出だ。

「やっぱり壁いるね」
 日が暮れると風が強く吹き付けてきた。積み上げられた木材を風よけにしてテントを張る。雨や風の日はさすがにテントで眠ることになる。
 テントマットの上に封筒型のシュラフを広げると、須臾はファスナーを開けたまま腹回りだけかけて寝る。足先が冷える青は腰までファスナーを閉めて寝る。
「透明なテントってないのかな。せめて一面だけでも」
 青は星が見えない不満を口にする。
「中が丸見えになるぞ」
「あ、そっか。普通のキャンプ場だと周りに人がいるのか。誰もいないっていいね」
 誰の目にも留まることのない青は、その実、誰よりも他人の目を気にしている。自分の姿が見える人を探しているということもあるが、一緒にいる須臾がおかしな目で見られないよう、常に気を配っている。
 青の存在を知る綿や祐里子ですら、見えないこともあって無意識に青にぶつかりそうになることが多く、彼らが腰を落ち着けていない限り青は気を抜くことができない。結果的に彼らとは一歩距離を置いて接することになり、一緒にいればいるほど青の笑顔に淋しさが滲む。

「あのさ、前からちょっと気になってるんだけど……」
 須臾が灯りを消そうと手を伸ばしたところで、声に緊張を忍ばせた青が言い澱んだ。
「なんだ」
「須臾のおじさんってもしかして私のこと見えてる?」
「は? なんでそう思った?」
 須臾は思わず躰を起こし青を見る。青は眉を寄せながら何かを考え込むように天を見つめていた。
「んー、なんとなく。時々じっと目を凝らしているような気がする。目、悪いわけじゃないよね」
「視力は悪くないはずだ。目が合ったことは?」
「それはないんだけど、もしかしてちゃんと見えてないけどうっすら見えるとかなのかな。幽霊っぽく」
「だったら何か言うだろう」
「いちいち言うタイプの人?」
「いや」須臾は叔父を思い浮かべた。「あの人なら言わないかもしれない」
 須臾と叔父に血の繋がりはない。父の妹の夫。義理の叔父。結婚したばかりで、新妻とそのお腹にいた我が子を一度に失った人。唯一の須臾の理解者。互いの失ったものを証明するただ一人の人。
「おじさんって、親のきょうだいってこと?」
「父親の妹の夫」
「叔母さんの旦那さん?」
「そう」
 青は薄々須臾の事情に気付いている。気付いていて核心に触れることは口にしない。
「漁師さんなの?」
「なんでだ?」
「だって、船持ってるし」
「あの船は俺のだ」
 ローンの支払いも終わっている。
「そうなの?」
 青が寝返りを打って半身を起こした。須臾に向けた目がまん丸に見開かれている。
「普段は叔父に預けてある。あの人は役場の人間だよ」
 関東の地方都市の出身で、若い頃の数年ならと自ら志願して離島へと派遣されてきた。そこで叔母と出会い、この地に根差すことを決め、叔母のいなくなった今でもここを離れられずにいる。
「おじさんも船の免許持ってるの?」
「持ってる」
 須臾が海に潜るように、叔父は船を走らせる。何か一欠片でも見付けたいと願いながら。
「船の免許って簡単に取れるの?」
「どうかな、車の免許と同じじゃないか?」
「須臾はなんで車の免許持ってないの?」
「持ってる。使わないから持ち歩いてない」
「え、持ってるんだ。まあたしかに、ここに道ないもんね」
「あったとしても私有地だから免許はいらない」
「ん?」青が一瞬不可解な顔をする。「ここって私有地なの? あ、そっか、そうじゃなきゃ勝手に家なんか建てられないか」
「ここというよりこの島が私有地だ」
「は?」
 青が軽く躰を起こした。ずいぶんと伸びた髪がさらさらと肩を滑っていく。出会った頃は肩に届くか届かないかくらいの長さだったが、今は背を覆うほどになっている。
「この島って須臾のものなの? え、島って個人で所有できるの?」
「山だって個人で所有できるだろうが。ここは代々榛葉家の土地だ。俺が、相続した」
 青の目に一瞬の翳りが過ぎった。今自分はどんな表情をしていたのだろうかと考え始めたところで、青の暢気な声が須臾の思考を遮る。
「うわー、税金高そう」
「そうでもない。定期便もなければインフラ整備もされてないんだ、価値はない。都内で五十坪の土地を買う方が高いんじゃないか」
「そんなもん?」
「そんなもんだ」
 ころんと仰向けに寝転がった青がうーんと唸る。
「もしかして、あの船って高い?」
「高い」
「だよね、ちょっと豪華だなって思ってた。他の漁船よりかっこいいし」
 万が一の場合、ここから本土まで航走することを考慮すると、どうしてもそれなりの物になる。
「なんで吉祥丸? ってか、船ってなんで全部名前付いてるの? しかもなんとか丸って」
「船舶法で決まってるんだよ。最後に丸って付くのは慣例。他国では日本の船をマルシップと呼んでいる」
「へーえ。吉祥の意味は?」
「父親が所有するの船の名前だったんだ。榛葉をヒンズー教のシヴァ神になぞらえて付けた名前で、日本語だと吉祥神だから吉祥丸」
 へー、と声を上げる青は目をしょぼしょぼと瞬き、今にも目蓋を落としそうだった。
「ここは、いいところだよね」
 まったりと蕩けそうな青の声に須臾は思わず笑った。
「寝ろ」
「ん」
 青がすーっと眠りに引き込まれていくのが傍目にもよくわかった。頬にかかるしなやかに素直な髪を指先でそっと後ろに流してから、須臾は灯りを消した。
 風はいつの間にか止んでいた。
 須臾は音を立てないよう丸めたシュラフとともにテントの外に出る。月明かりが木々の影をテントに落としていた。一度大きく伸びをして、月明かりの下にシュラフを広げる。
 潮騒が島に在る全てを包み込んでいた。月が明るすぎて星はほとんど見えない。





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