第9話

文字数 5,398文字

 秋が深まるにつれ、須臾は落ち着かなくなる。
 須臾から全てを奪い、目の前が色褪せた日が近付いてくる。

 青は青で毎夜星を眺めている。晴れの日も曇りの日も星など見えない雨の日も。
 何を見ているのかを須臾が訊けば、青は一言「流れ星」とだけ答えた。
 ソファーの縁に座るでもなく、椅子を持ってくるでもなく、ただぼんやり窓辺に佇んで空を見上げている。
 見かねた須臾がそこにスツールを置いた。
「ありがと」
 スツールに座った青がしばらくしてぽつりと言った。
「透き通った人間って、元に戻ると思う?」
「思わない」
 青の背後に立ち同じように空を見上げながら須臾は断言した。月が明るく星はほとんど見えない。
「きっぱり言うね」
「どういう過程で変質したのかはわからないが、一度変質したものが以前と同じ状態に戻ることはない」
「そっか」
 青の声は落ち着いていた。
「そうかなって思ってたんだけど、やっぱりそうだよね」
「奇跡は一度だから奇跡なのであって、二度起きたらそれは奇跡ではなく一種の病だ」
「なにそれ、誰かの言葉?」
 くすくすと笑う青が悲しかった。
 須臾は喉の奥から絞り出すように訊いた。
「どうして、そうなった」
「初めて聞いたね。いつまでも訊かないから興味ないのかと思ってた」
 そして、うーん、と一度伸びをした青は、空を見上げながらぽつぽつと話し始めた。
「流星を見ようってね、キャンプに行く予定だったんだけど、去年、初雪がとんでもない時期に降ったでしょ、それで中止になって、弟と一緒に弟の部屋で星を見てたの」そこで青は少しの間を空けた。「それで起きたら透き通ってた」
 ねえ、と問い掛ける青の声は張り詰めていた。
「人ってショックで透明になると思う?」
「思う」
 青が振り返った。見開かれた目が零れ落ちそうだった。
「少なくとも俺は、ショックで色覚が狂った」
「絶対に思わないって言うと思ったのに……そっか、だからか」
 青は勝手に納得していた。何をどう納得したのか、青は何にショックを受けたのか、須臾は訊かなかった。青もまた、訊かなかった。



 ────◇────



 須臾の言う通り、一年前と同じ、目が醒めたら透き通っていた日を迎えても青に変化はなかった。
「やっぱり何も変わらなかった」
 がっかりしたのは事実。それと同じくらい、まあそうだろうな、という納得の気持ちというか、諦めの気持ちというか、どこか今の状態を受け入れている自分もいて、青は不思議と落ち着いていた。
「なんかもっと絶望するとかパニクるとか、ぐちゃぐちゃになるかと思ってたんだけど……」
「人は案外単純なものだと言われたことがある」
 須臾がセーター類をクリーニングの袋から出して陰干ししている。もう少し早くにやればいいのに、どうしようもなくなってから出すあたり、普段きっちりしている彼にしては珍しい。
「誰に?」
「坊さんに」
「ふーん。ねえ、なんで今頃セーター出してるの? もう十二月過ぎてるじゃん」
 ソファーに寝転びながら自作ポテチを食べていた青は、カスを落とすなよ、と言わんばかりの須臾に睨まれた。一度カスを落としたことに気付かず、そこに須臾が座り、真新しいスーツのおしりに油染みができた。いっそ罵られた方がマシなくらい無言で怒気を発する須臾は怖かった。
 ここで食べなければいいとは思いつつ、やけに座り心地のいいソファーを青は気に入っている。こんなに座り心地のいいソファーを自作した須臾を尊敬してもいる。ここで寝そべりながら食べるポテチは最高なのである。
「セーターを着る習慣がなかったんだ」
「人には十月の半ば過ぎに冬物買わせたくせに?」
「コート持ってなかっただろうが」
 須臾はこの頃ちゃんと喋る。口数の多い青につられるように少しずつ言葉数が増え、ちゃんと会話が成立するようになった。

 九月の半ばには毛布、十月の頭には羽毛布団が届き、青のベッドは冬支度になった。
 十月の半ばには須臾がいつも服を買う店に連れて行かれ、そこのレディースで青は服を買ってもらった。
 青にしてみれば結構いい値段の店で、ブラウス一枚に値付けられた五桁の数字にびっくりした。コートは一番安いので四万もして、青は何度もウニキュロでいいと訴えたが、須臾は頑として譲らなかった。
 お店に入る前に嫌いなデザインかを訊かれ、ショーウィンドウに飾られた服はどれもステキで、憧れを持って「着てみたいかも」と、まだ値段を知らなかった青が即答すると、だったら次から必要な服はここで買うと言われた後だっただけに、青にはそれ以上断ることもできなかった。
 ただし、と須臾は続け、悪いが下着類はセルフレジのウニキュロだ、と申し訳なさそうに言われ、青の方が恐縮した。

 彼も冬のスーツを新調し、それに合わせたシャツとネクタイも購入していた。それよりもこっちがいいだの、こっちの方が似合うだの。青が横からちょこちょこ口を出したりもした。
 須臾がスーツの裾や袖の長さをチェックをしている間に青は自分の服を選んだ。予めコート一着、ボトムス三着、トップス五着は買えと須臾から言われており、青はどきどきしながら大人っぽいデザインの中から自分好みの服を選んだ。須臾は青が指差す服を次々手に取り、ついでに青が悩んだすえに選ばなかったものもいくつか追加された。いつの間に見ていたのだ、と青は驚いて須臾を見上げたものの、いつもの無表情がそこにあるだけだった。
 いつも担当しているらしき店員さんに「これも」と渡すとき、店員さんがものすごく驚いていたのが印象的だった。「彼女さんにですか?」と訊かれた須臾は面倒そうな顔をしつつもしれっと頷き、いい笑顔になった店員さんが気を利かせてプレゼント用に大きな箱に入れてラッピングしてくれた。それに青は喜び、須臾は渋い顔をしていた。
 新しい靴も、スニーカーも、ブーツも一度に買ってもらえ、青は申し訳ない気持ちよりもとにかく嬉しくて、何度も何度も須臾にお礼を言った。
「配送してくれるんだね」
「普通してくれるだろう」
「えー、してくれないよ。あっ、いくら以上購入とかあるのかな」
 帰り道、青はうきうきと喋り続けた。珍しく須臾から「こいつうるさい」光線が発せられなかったので、青はいつまでも喋りつつけた。

 また、二週間に一度の頻度で須臾が外食に誘ってくれるようになった。
 初めのうちはさすがに見えない青との食事は須臾にダメージがあるだろうと遠慮していた青だったが、個室を用意してくれたり、箸を持参し、一つのお皿をシェアすることで、今のところ周りから変な目で見られることはない。ただ、なぜかいつも海鮮系のお店なのが惜しい。青は魚より肉派だ。ハンバーグが食べたい。
「ねえ、たまにはハンバーグとか食べたくない?」
「ない」
 素気なく却下された青は、生まれて初めてハンバーグを手作りした。出来上がったのは中が生焼けの挽肉の塊で、最終的には大きめのそぼろと化した。リベンジに燃える青をよそに、スーパーでの買い物のたびに須臾に合い挽き肉の購入を却下されている。
 どうやら彼は肉より魚派らしい。焼き魚にした日はいつもより食が進んでいる。

 須臾が陰干ししているカーデガンの一つをじっと見ていたかと思ったら、くるっと丸めてゴミ箱に捨てようとした。
「ちょー! 待って、待て!」
 怪訝な顔をする須臾を睨みながら青は須臾の手からだらりと垂れ下がるカーデガンを素早く横取りした。
「捨てるの?」
「もう着ない」
「なんで?」
「丈が短い」
「そういうデザインでしょ」
「去年もほとんど着なかった」
「じゃあなんで買ったの?」
 須臾の眉根がむむっと寄った。どうせあの店員さんに勧められるがまま買ったのだろう。実際似合わないわけではないし、当時の流行でもあったのだろう。
 あのお店のタグがついているのだからそれなりの値段だったはずだ。広げてみればどこも傷んでいないし、型崩れもなければ毛玉もない。捨てるくらいならフリマに出せばいいのに、と思わなくもない。
「もらってもいい?」
 羽織ってみれば袖は長いものの、丈は青に丁度よかった。
 僅かに目を見開いた須臾がもう一枚差し出してきた。
「これも着ないの?」
「袖が短い」
「だから、そういうデザインでしょ」
 七分袖のたっぷりとしたグレーのセーターは着心地が好さそうだった。青が躰に当てると袖丈がちょうどよく、ニットワンピのようにも見える。
「これかわいい」
 どう? と須臾を見れば、悪くない、と言わんばかりに頷いた。
「次からは捨てる前に見せて」
 渋々頷く須臾に、青はなんとなく勝ち誇った気分で笑った。

 須臾は普段は節約気味に生活している分、使うときは使う。その対象が青になったとしても、必要なところにはお金をかける。必要のないところには頑としてお金をかけない。たとえば青がどれほどお願いしてもスナック類は一週間に二つしか買ってくれない。だったら自分のお金で買うと言ったら本気で怒られた。
 ならば作ればいいと、ジャガイモをスライスして油で揚げたら、須臾もぱくぱく食べる。そういうことかと、青は納得したものだ。以来、できるだけ自分で作るようにしている。
 ちなみに須臾はジャガイモも育てている。サツマイモもカボチャも育てている。大根まで育てていることを知った青は驚くよりも感心した。まだ少ししか実を付けないもののオリーブやコーヒーまで育てていて、彼はどこに向かっているのだろうと青は首を傾げるばかりだ。何より驚いたのは麦茶が自家製だったことだ。大麦の収穫は夏の初めらしく、十月に種まきしているのを見てびっくりした。
 一度訊いたことがある。
「ねえ、なんで野菜とか作ってるの?」
「必要だから」
 あっそう、以外の言葉がなくて、青は口を噤んだ。大抵の人はたとえ趣味であっても必要だから作るのであって、不要なら作らないだろう。青が訊きたかったのは要不要ではなく理由だ。そのときはなんだか面倒になってそれ以上は訊かなかった。

「ねえ、冬は野菜作らないの?」
「必要ない」
 これはたしか十一月の初め頃に再度聞いたときの回答だ。このとき青は食い下がった。
「必要ないって?」
「冬はない」
 意味不明な回答だった。もう一度口を開こうとして、「こいつしつこい」光線を浴びたため口を噤んだ。
 あとになって思えば、訊くタイミングも悪かったのだ。須臾はそのとき苛々していた。
 表面上はいつも通りに見えて、十一月に入ってしばらく、彼はどこか苛立っていた。どことなく落ち着きがなく、怒っているわけでもないのに怒っているようだったり、単に機嫌が悪いといえばそれまでなのだが、なんとなく八つ当たり気味だった。
「私なんかした?」
 不安になって訊いた青に、須臾は虚を衝かれたような顔で「なにが?」と聞き返してきた。彼は自分が苛立っていることにさえ気付いていなかった。仕事が上手くいっていないのか、それ以外の理由なのか、少なくともそこに青は関係していないようでほっとしたものだ。
 十二月に入る頃には落ち着いたようで、普段の須臾は感情がフラットな分、青は少し気になっていた。



 冬はない。
 その意味がわかったのは年末だった。
 須臾がまた地元に戻ると聞いて、冬休みということもあり今度は青も同行することにしたのだ。

「せっかく見えないんだから」
 何気なく須臾に言われて、はっとしたのだ。
 授業についていけなくなった青は、須臾に「ついていける授業を受ければいいだろう」と言われ、目から鱗が落ちた。青にその発想はなかった。
 それ以来、数学や英語は一年の教室に通っている。言われてみれば一年の途中で透き通ってしまった青は、綿に説得されるまでしばらく学校に行ってなかったのだから、元々できのよくない青がついていけなくなるのは必然ともいえる。
 専門知識を必要としないなら、との須臾のアドバイスで化学と物理は諦めた。青としては数学や英語も諦めたかったのだが、須臾に眉をひそめられ、そこはがんばることにした。きっと綿なら全教科諦めるなと言ったはずだ。そう考えると綿は須臾よりも手厳しく、須臾は綿よりも現実を見据えている。

 そして、青は自分にはない考えに、改めて須臾との出会いを感謝した。
 この状態を「せっかく」と思える日など、きっと青一人では来なかった。
 興味があることをタダで学べるなんて、俺にしてみたら羨ましいことだ、とも言われた。
 青がそんなふうに思えるようになるには、庇護してくれる須臾の存在あってこそで、それもまた青一人では先のことなど考えられなかった。
 青は大学にも通ってみようと思っている。せっかく見えないのだから、好きな講義を好きなだけ聴くことができる。
 須臾が言うには、自分にはない考えを持つ人の話を聞くことは、自分の可能性が広がっていくようで面白い、らしい。実際青も須臾の話を聞いたことで少し先の未来がひらけた。

 そして青は今、胃の中のものを全て吐き出したうえ、ほぼアンデット化した状態で南の島に上陸した。




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