第19話

文字数 6,532文字

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 手ずから作り出した物を欲しがる人がいる。それは青にとって、とても大きなことだった。

 実は、綿は青が作った物よりも須臾の作る家具を広く人に知ってもらいたがっていた。須臾に幾度となく「これ絶対に売れるって」と熱心に主張しては、その度に「売り物になるわけがない」とけんもほろろに断られていた。

 あの島で生活して行くには全ての家具を自作する必要があり、その練習も兼ねていたのだから須臾の気持ちもわかる。
 わざわざ家具一つ注文するにも本島までそれなりの送料がかかり、さらにそこから船で運んでこなければならない。須臾の船に乗せて固定できる大きさであればいいが、そうでなければ無理だ。椅子一つに相当な送料を払うくらいなら作ればいいし、食器棚やベッドなどはキットで購入するくらいならやはり自作した方が早い。家を造るキットの送料を聞いて青は目玉が飛び出るかと思ったものだ。

 綿は須臾の作る家具のファンだ。
 綿も須臾に作ってもらった家具を群馬の家で使っている。自分の手元から片時も離したくないと言わんばかりに、出来上がった家具を一度解体し、自分で厳重に梱包し、散々迷った挙げ句、どうしても宅配業者に託すことができず、結局電車で群馬まで持ち帰っている。
 これにはさすがの須臾もいたく感動していたことを知るのは青だけかもしれない。

 綿に依頼された家具を作る際、その進捗状況を知らせるために須臾はインスタントカメラを買い、定期的に綿に送っていたのだ。綿はそれをアルバムに収めて大切にしている。そのついでに青の趣味も同封されていた。
 スマホで写真を撮って送れば簡単なのに、須臾の家のインターネット回線はチェックされているとかで、須臾は頑なに家ではインターネットもスマホも使わない。そもそも青は須臾のスマホの電源が入っているのを見たことがない。
 どうしようもないときだけ、下のコンビニのWi-Fiを使ってノートパソコンで何かをしている。大抵は島に持ち込む木材等の注文や、乗船チケットの予約だ。そのついでに青の知りたいことを調べてもらったりもする。



 青は朝から気もそぞろだった。夢の中でさえどんなラッピングするかを悶々と悩んでいたほどだ。
「落ち着け」
「落ち着いてるよ。ちょっと楽しみなだけで」
 言い返す青を呆れた目で見た須臾は腕時計に視線を落とし、「とにかく、落ち着いて、気を付けて来いよ」と深々とした声で諭すように言い置いて出勤した。

 お昼を過ぎて、いよいよ落ち着かない気持ちを持て余した青は、少し早いけど、と自分に言い訳しながら家を出た。須臾の家の時計は午後三時を少し過ぎたところだった。
 無賃乗車に公務員である須臾はいい顔をしないものの、券売機にも自動改札機にも触れることもできないのだから仕方がない。改札口の端にある柵を乗り越えてホームに出る。

 青が思い付くラッピンググッズを扱っている雑貨店をいくつか見て回り、実際に商品を手にとってシミュレートする。ただ、青がこれだと思うものはどれも数の割に結構な値段がしてその分を上乗せすると絶対に売れないだろう価格になる。
「理想と現実の差って世知辛い」
 青は溜め息を吐きながら商品を戻していく。
「透明な袋にただ入れるだけもなあ」
 ほんの少しでも力を入れたら形が変わったり壊れてしまいそうな物もあるため、できればボックスに入れたい。クッション材も必要で、リボンの一つもかけたい。
「浮かれすぎかなあ」
 欲しいと言ってくれたのは綿の友達カップルだ。誰も持っていないお揃いの物が欲しいとのことで、貝殻と珊瑚で作ったものを選んでくれた。

 青の手が作り出す物は、青が存在する証だ。
 それにお金を払ってくれる人がいる。こんなに嬉しいことはない。
 一度きりのチャンスかもしれない。だったらなおさら、丁寧にラッピングして、できるだけ長く手元に置いてほしいと願う。



 須臾との待ち合わせまでまだ少し時間があり、滅多に来ない場所ということもあって、青は辺りをぶらぶら散策することにした。
 日比谷公園をぶらぶらし、ツーブロック先にも公園があることを歩道に立つ案内地図を見て知り、左右に財務省と外務省の建物を見ながら道路を渡り、憲政記念公園に到着した。この公園でお弁当食べたいな、と思いながらぷらぷら歩いていると、いきなり国会議事堂が目の前に現れた。思わず、おお、と声が上がる。小学生の時に見た以来だ。ついでだ、と近くまで行ってみる。テレビで見るよりも迫力があり、佇まいの荘厳さに圧倒される。

 のんびり社会見学しているうちに待ち合わせ時間が迫ってきた。
 急いで戻ろうと警備員が立つ門をすり抜け、横断歩道を渡り、行きは外務省の脇を通ったのとは逆に今度は財務省側を進んでいく。この辺りのビルはみんな大きくて迫力がある。
 と、前方に須臾の後ろ姿を見付けた。
「須臾!」
 須臾の足が速すぎて青が小走りになってもなかなか距離は縮まらない。青の知る須臾の歩調はもっとゆっくりしたもので、一人の時はこんなに早いのかと驚きながら、酔っぱらいのようにふらふらと頼りなく歩く前の男性を少し距離を取って追い抜こうとして──ぎょっとした。

 手に剥き出しのナイフ。

 思わず立ち止まった青の耳に「シバ」というくぐもった音が聞こえた。一瞬わからなかった。剥き出しのナイフとシバが結びつかなかった。
 結びついた途端、全身が総毛立ち、青は全速力で駆け出した。
「須臾!」
 自分の走る速度がもどかしかった。全ての景色が色を失い、青の焦りとは対称的に周囲はスローモーションのようにゆっくりと流れていく。意識だけが時間を超えて進んでいく。
 必死に足を動かしながら、青はふと思い出していた。

 初めて須臾の名前を呼んだのは、忘れもしない、同居するようになって一年ほどが過ぎた夏の終わりの日曜日だった。
 生活の安定を躰が感じ取ったのか、透き通って以来ぷっつり止まっていた毎月のサイクルが復活した。これまで止まっていた反動なのか、いきなり動けなくなるほどの鈍痛が襲ってきた。
 しかも、リュックのポケットには予備の軽い日用の羽つきがひとつしかなかった。
 トイレから出たところでお腹を押さえて蹲り動けなくなってしまった青は、洗面所の外で整理棚を作っている須臾に助けを求めた。
「あの、ねえ、ちょっと」
 声を出すとお腹に響く。洗面所のドアを開けるためのあと一歩が動けず、ドアノブに手が伸ばせない。ドアの向こうからは電動ドライバーの音が聞こえている。
 お腹の底から声を出すのは一度だけだ。声を出した途端鈍痛は刺すような痛みに変わり、間違いなくどっと排出されることがこれまでの経験則でわかっている。
 ドライバーの音が止んだ。いまだ。
「須臾!」
 そこからは断片的にしか覚えていない。須臾の心配そうな顔。お願い、痛み止めとあれ買ってきて。多い日の羽つき。できれば夜用も。須臾の不可解な顔。お店の人に訊いて。
 後で考えるとずいぶんひどいことを頼んだものだ。
 多い日用も羽つきも夜用も、須臾には意味がわからず、痛み止めの言葉からドラッグストアに行き、青が呟いた言葉をそのまま店員に伝え、そして案内された生理用品の棚の前で苦虫をかみ潰しながら、痛み止めももらえますか、と声を絞り出したらしい。
 たしか、須臾が青の名前を呼んだのもこのときが初めてだった気がする。青、大丈夫か? 大丈夫か、青。何度も何度もそう呼びかけられた。

 どうしてこんな時にそんなことを思い出すのだろう。
 振り返った須臾の前で両手を広げ、青は不審者に向き合った。

 何もかもがゆったりと流れていく。時間が意識についてこない。

 不審者の目が、あの日の父親と同じ色だった。
 あの流星群を見た夜明け。父との血縁がなかったことを妙に納得しながら眺めていた流れ星。いつの間にか寝息を立てる綿を起こさないよう、喉を潤そうとキッチンに向かう途中で耳にしたのは他人だと知ったばかりの男の声。忍び寄ったそこで青が目の当たりにしたのは、青の臓器を売るための段取りを誰かと電話でこそこそ話している、他人を利用することに躊躇のない目の色だった。
 青の腎臓を一つ売ると、父親の手に二千万入るらしい。
 
 ぐっと肩を掴まれた。
 掴まれたと思ったら青の身体が軽く浮き、気付けば須臾の背後に庇われるように寄り添っていた。

 そこからは一瞬だった。急に突進してきた男を須臾が受け止め、あっという間に地面に抑え込んだ。悲鳴や怒号に包まれる。間髪入れず駆けつけた警察官に男は連れて行かれた。須臾が警察官と何かを話し、どこかに電話し、警察官が無線で何かしらの指示を受け、須臾に軽く一礼して去って行った。
 無表情の須臾は息を乱すこともなく、冷静さを失わず、最初から最後まで全てが手慣れていた。
 これが、須臾の日常。

「青、大丈夫か?」
 鼓動が激しい。躰の中心が沸騰したように熱い。歯を食いしばる。感情に溺れそうで鼻の奥がつきつきと痛んだ。
 須臾の心配そうな顔が青の目の前にある。
 背中に手を置かれ軽く押される。須臾の手のひらの温度が青の背中に伝わってきた。崩れそうになる膝にぐっと力を入れる。
「一人で歩けるか?」
 青が須臾の顔を見上げると、仕方がないとでも言いたげな表情で、須臾は青の手を取った。
 須臾に手を引かれて歩いて行く。須臾の背中にぴったりくっついて自動改札を抜けた。須臾の身体に守られるように満員電車に揺られた。家に着くまで青は手を離せなかった。離されることもなかった。

 玄関ドアが閉まった途端、青は気が抜けるのと同時に腰も抜けた。慌てた須臾に腰を抱えられて青はベンチに座らされた。
「根性があるんだかないんだか」
 呆れと心配をきっちり半分ずつ含んだ須臾の声に、青は顔を上げた。
「手、離せるか?」
 須臾に言われて、青は握られている手を見下ろす。思った以上にぎゅっと握っていた。強く握りすぎて互いの皮膚の色が変わっている。
「ごめん……」
 慌てて力を抜こうとしても抜けない。
「青、一度深呼吸しろ」
 須臾に促されて何度か深呼吸すると、少しずつ力が抜けていく。須臾の手から離れた青の指先は小刻みに震えていた。
「まだ怖いか?」
 青の靴を脱がせてサンダルに履き替えさせた須臾も、青の横に腰をおろし、自分の靴を履き替えた。こんな時でもしっかり靴のケアを怠らないところが須臾だった。
 須臾は日々のルーチンを大切にしている。まるで一つでも乱れると全てが乱れるとでも思っているのか、青が考える以上に気を遣っている。

 青はぼんやりしたまま須臾に促されて洗面所に向かい、手を洗い、濡れた手を須臾が差し出すタオルで拭き、洗面所を出され、ソファーに座らされた。
「大丈夫か?」
 ソファーに座る青の正面、ローテーブルの上に座った須臾が眉を寄せている。普段ローテーブルの端に足を置こうとする青をこっぴどく叱るくせに、自分は堂々と尻を置いている。しかもクセになっているのか、座ると同時に須臾はジャケットのボタンを外した。その仕草が慣れていて、青は意味もなくイラッとした。
 訊きたいことは山ほどあるのに、混乱しすぎて色々なことが混ざった頭ではどう切り出せばいいかわからない。
「説明が必要か?」
 青が縋るように頷くと、須臾はまるで説明書を読み始めるような顔付きになった。
「あの男は──」
「違う」
「違う?」
「あの男はどうでもいい」
 不可解な顔をする須臾は気付いていないのか。青は確かめるように須臾の手に指先を伸ばした。
「触れる」
 ますます須臾の眉間の皺が深まった。青の行動の意味を理解していないのだ。
「触れたの?」
「なんの話だ?」
「私に、触ることできたの? いつから?」
「いつからって、最初からじゃないか?」
 当たり前と言わんばかりの顔で須臾が答える。あまりに泰然とした須臾の様子に青は苛ついた。
「なんで?」
「なんでって、青と綿とでは直接物の受け渡しができないだろう?」
 青ははっとして須臾の目を凝視した。これまで直接触れたことはないものの、青が持っている物を須臾も持つことができた。綿とは青が持つ物が見えないせいで直接手渡しすることはできない。そのうえ、触れようとすると本人の意思とは関係なく躰が不自然に青を避ける。
 須臾にはそれがない。今まで気付かなかった自分の迂闊さに青は歯がみする。
「動揺しているのはそっちか」
「そっちかって、そんな簡単なことじゃないよ」
 一生誰にも触れられず、触れることもできないと思っていた。
「須臾は、一生誰にも触れないって、生きてるものに触れないって、体温を感じることができないって、そういうの、わかる?」
 涙が勢いよくせり上がり、間抜けなほどぼたぼたと膝に落ちた。
 須臾はこんな時でも冷静だった。僅かに目を細め、だらだらと止めどなく涙を流す青をじっと見ている。
「普通、一回り近く年の離れた男に触られたくはないだろう」
「時と場合による」
 ローテーブルの上にあるティッシュボックスが青の膝の上に置かれた。素早く二枚取って思いっきり鼻をかむ。すかさずゴミ箱が青の脇に置かれた。かみ足りなくてもう一度かんだ。
「とりあえず、一回ぎゅっとして」
「は?」
「いいから、とりあえず一回」
 立ち上がった青は、両手を煽って須臾を立たせる。
 こんなに近くに体温があったなんて、五年も気付かないとは本当に間抜けすぎる。
 青はぎゅっと抱きついた。遠慮の欠片もなく、ボタンが開かれたジャケットの内側に手を入れて、須臾の背中に手を回す。
 体温があった。温かかった。汗ばんでいる気もした。
「汗かいてる?」
「汗もかくだろう」
 諦めたような声が聞こえて、青はぎゅっと包み込まれるように抱きしめられた。
 同じ洗剤、同じボディソープの香り。その奥にある須臾の肌の匂いを鼻先に感じた途端、また涙が溢れてきた。初めて知るはずの匂いが、ずっと前から知っている匂いだった。

 誰かに触れることができる。体温を感じる。その人だけが持つ肌の匂いに包まれる。
 触れるだけでこんなにも安心できるだなんて、今まで知らなかった。
 体温は命そのものだ。

「鼻水付けるなよ」
「洗えばいいでしょ」
 はーっと青は息を吐いた。
「五年ぶりの体温」
 須臾の体温が青に移る。温もりに勇気をもらう。言うなら今しかない。
「そろそろいいか?」
 腕を緩める須臾をさらなる力でぎゅっとつかまえた青は、一度深呼吸して一気に言った。
「私ね、父親だった男に臓器を売られそうになったの」
 須臾の身体が強張った。
「お母さんが離婚して、綿と縁も切れたから、あの男の再婚先調べて、あの男より新しい奥さんの方が早く家に帰ってくる日に告発文ポストに入れといた」
 須臾の躰から力が抜けた。
「軽蔑する?」
「いや、よくやったと褒めてやる。むしろ手緩い」
「だよね、須臾ならそう言うと思った」
 そのあと彼らがどうなったかは知らない。

 父の再婚先を調べる際に祖母の家に行ったら、青が生まれる前に死んだ祖父の写真の横に青と綿の写真がそれぞれ並んでいた。
 青は父であったずの人に触れたことも触れられたこともない。祖母は触れはしても一度も抱きしめてくれなかった。それでも、戸惑いを隠さなかった祖母の手が青を乱暴に扱ったことはない。
 今ならわかる。青にアレルギーが一切ないのも、虫歯になったことがないのも、視力がいいのも、青を産んだ母と祖母が最大限気遣って育ててくれたからだ。そして、青が人の持つ温もりを知っているのは、おかあさんと綿がいたからだ。

「というわけで、私もあの島で暮らすことにします」
 青が須臾の腕の中から顔を上げると、須臾は見たことがないほど目を丸くしていた。




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