第1話

文字数 6,213文字

 己を知るのはいつも他人を通してだということに、あの日まで気付かなかった。



 ────◇────



「これも一緒にお願いします」
 青の声は透明だ。

 その人がレジカウンターに置いたお弁当とインスタントのカップワンタンの脇に、青は百十六円のメロンパンとその代金百二十円をそっと置く。
「こちらもご一緒ですか?」
 かすかな驚きを含んだコンビニ店員の声に、レジ前に立つその人はうんともすんとも言わない。店員がかすめるようにレジ前に立つ男の背後を確認するも、その背後に並んでいる客はいない。ほんの一瞬怪訝な表情を見せた店員は、「お弁当はあたためますか?」と何事もなかったかのように次の声をかけた。これにその人はかすかに顎を引き、弁当は店員の背後にある業務用電子レンジにばたんとしまわれた。店員はお弁当用の袋とわり箸を用意し、それとは別の小さな袋にカップワンタンとメロンパンを手際よく入れていく。

 青が置いた百二十円の横に、その人は千円札を一枚置いた。
「お会計、七百二十二円になります」
 やたらとはきはき喋る店員は、あらゆる不可解をスルーしながらルーチンワークを適度な丁寧さでこなしていく。会計に合わない金額にもかかわらず、「千百二十円おあずかりします」とカウンターに置かれた金額をレジに打ち込み、おつりの三百九十八円をレシートとともに目の前の客に渡し、タイミングよくあたたまった弁当を職人のような手際で弁当用の袋に入れて、カップワンタンとパンの入った袋と一緒にずいっと客側に押し出し、「ありがとうございました」ときっぱり言い切った。

 その人は決まって、レジカウンターの脇にあるポットからカップワンタンにお湯を入れる。小さなコンビニ袋にはメロンパンだけが残される。青はそれをそっと摘まみ、宙に浮かした。
「ありがとう」
 やはり透明な声で礼を言い、青は入ってきた客と入れ違うようにコンビニを後にした。



 その人は、おじさんと言うには若く、お兄さんと言うには疲れていた。
 特に特徴のない外見。たぶんサラリーマンか公務員。政治家が着るようなオーダーメイドには見えない、かといって安っぽくもないダーク系のスーツを身に纏い、よく見ないと違いのわからない紺系の地味なネクタイを締めている。
 清潔感はある。野暮ったくもない。ついでに言えば個性もない。

 ここひと月ほど観察して気付いたのは、よくよく見ればそれなりに整った顔立ちにもかかわらず、無表情のせいかとにかく顔の印象が薄い。常に伏せがちの目はほぼ死んでいる。
 それでいて、ゆったり見える動作はいざとなると俊敏で、おまけに目敏い。子供が落としそうになった商品を一瞬のうちに背をかがめて受け止めたり、おばあさんがばらまきそうになった小銭をなんてことなく片手で全て掴んでいたり。その人に注目していなければ決して見えてこない、さりげなさを装いつつ一般人は到底真似できない出来事を青は何度か目撃していた。

 そして、その人だけは青が何度同じことを繰り返しても不審がらない。
 最初の一回、ほんの僅かに眉間に皺を寄せただけ。二度目以降は特に目立った反応もない。商品とその代金が突然現れ、会計後に消えるというのはなかなかスリリングな体験だと思うのに、その人にとっては些細なことらしい。
 これまで試した人たちは青の方が驚くほど大騒ぎしたり、必要以上に怯えたり、お店のせいにしたり、動画を撮ろうと待ち構えていたりと、わからないではないものの青にとっては最悪だった。中には心霊現象に慣れている人もいて、逆に青の方が怖くなったり。
 その人の場合、それらとはまた少し違うようだった。たとえ心霊現象ではなく、実際に目に見える女子高生が同じことをしていたとしても、その人は動じないような気がした。その気にしなさ具合がこれまで散々な目に遭ってきた青には丁度よかった。

 毎日このコンビニでほぼ同じ時間に適当に選んだ弁当と決まってインスタントのワンタンスープを買うその人の会計に、青はパンやおにぎりを紛れ込ます。今日のように数円多く払うときもあれば、数円足りないこともある。その人がそれに頓着する様子はない。
 それでも毎日顔を合わせていれば、その無表情の中にも、今日は機嫌が悪いとか、今日は疲れ気味だとか、今日はどことなく機嫌が好さそうだとか、そんなこともなんとなくわかってくる。




 青は半年ほど前、目覚めたら透き通っていた。
 突如発令された大雪警報で中止を余儀なくされたファミリーキャンプを惜しみ、弟の部屋に寝袋を二つ並べて寝転がりながら、夜になっていきなり晴れ渡った夜空を見上げ、キャンプ最大の目的だった冬の初めの流星群を見た翌朝のことだった。
 透き通る、という言葉が合っているのかはわからない。ただ、弟が言うにはそうとしか説明が付かないらしい。
 青より五つ年下の綿だけが青の存在を認めてくれた。

 誰からも見えなくなった青の存在に最も動揺したのは父で、おかあさんは間違いなく何かに気付いていたはずなのに、父は彼女の言うことに耳を貸さず、挙げ句の果てに心霊現象だと言い始め、忽然と消えた娘は誘拐された上に殺されたのだと結論付けた。
 当初、父の証言通り誘拐事件として捜査していた警察も次第に家出を口にし始め、父はひどく憤慨していた。

 青が幽霊ではなく、透明人間でもなく、透き通った人間だと判じたのは綿だった。
 その根拠は、それまでと変わらず食欲があること、食べたら出るものが出ること、その出たものが臭ったことから、綿は最終的に幽霊ではないと結論付けた。青はかなり傷付き憤慨した。
 あろうことか綿はブツを見せろと言ってきたのだ。いくら姉弟とはいえそこは踏み込んではならない領域だ。
 頑なに拒否した青は、こっそりトイレ脇で待ち伏せしていた綿に直後の匂いを嗅がれた挙げ句、「思ってたよりも臭い」の一言を浴びせられた。しかも綿は、「うんちがお姉ちゃんから離れた瞬間、きっと目視できるはずなんだ。だから次こそは見せてね」という変態発言を鼻を摘まんだままにこやかにぶちかましてきた。

 綿は賢い。賢いゆえに一つのことに異常なほどのめり込む気質だった。

 綿は青に次々要求してきた。髪を抜け、唾を垂らせ、爪を切れ、血を見せろ、皮膚を擦って垢を落とせ。ついには目脂や耳垢、へそのゴマや鼻クソまで要求してきた。おならの匂いを嗅がせろと言われたときは、思わず手近にあったクッションを投げ付けた。
 困ったことに、綿の青への要求は日に日に変態じみていった。
 とはいえ、そのおかげで青は存在が透き通っているということや、青の周りで起きる透明化の実態が粗方わかったのだから、感謝するべきなのかもしれない。

「まずなにより、幽霊はうんちもおしっこもしないだろうし、それが臭ったりもしない」
 本当に失礼な報告である。小五男子に高一女子並みのデリケートさを求めるのが間違っているのか。思いっきり抗議したいところだが青の声が綿に届くことはない。
「お姉ちゃんの体温で物があたためられたりするのも、生きている証拠だ。つまりリビングデッドでもない」
 綿の口調がいっぱしの研究者気取りで青の笑いを誘う。綿のきちんと整頓された学習机の上に、青は宇宙を閉じ込めたようなガラス玉をこつんと落とした。相槌や肯定の代わりだ。

 物体は青の体によって地との繋がりが切れたときに透明化する。
 たとえば、椅子に青が腰掛けたところで青の座る椅子は透明化しない。椅子の脚が床、ひいては家が地面に接地しているからだ。それを青がうんしょと持ち上げた瞬間、透明化する。青が手を離すとたとえ浮いた状態でも元に戻る。
 青が手に取ったガラス玉は、机から持ち上げた瞬間に透明化し、青の手を離れた瞬間元に戻り、机の上にこつんと音を立てて落ちる。机の上に置いたままのガラス玉に青が触れても透明化しない。青が透明化したガラス玉を宙に放り投げた瞬間に綿は可視化でき、それを青がキャッチすると再び透明化し、綿の目には見えなくなる。
 青にとってはそれまでとの変化はない。納得できない青に、綿は動画に撮って証明してくれた。

「次に透明人間の場合、肉体が透明であるだけなら僕の体に触れるはずだ」
 そう、青は生きているものに触れることができない。だから、幽霊説がなかなか否定できなかったのだ。
 もう一度ガラス玉を落とす。
 まあ、リビングデッドや透明人間については映画やゲーム等の受け売りなので信憑性は低い。
 身に付けているもの、特に靴下や靴は地面と接しているにもかかわらず透明化する。
「それはお姉ちゃんの動きと一体化しているせいなんじゃないかな」
 それまでと違う自信なげな言い方に、綿もそれ以外に説明のしようがないのだろうと青は察した。

「よって、透き通っていると考えると辻褄が合う」
 はっきり言って青には辻褄のどこがどう合っているのかさっぱりわからなかった。でもまあ、青よりも余程賢い綿が言うのだからそう大きくは外れていないのだろう、と無理矢理納得して、青はガラス玉をこつんと落とした。



 その綿はもういない。
 ポルターガイスト現象に悩んだ父は胡散臭い霊媒師を信じるようになり、無意味で高価なお祓いを何度も依頼し、しきりに「お姉ちゃんは透き通ってるだけなんだ」と訴える息子をこの世の終わりのように憂いた。ついには公務員だった父は仕事を辞め、まるで夜逃げのごとく家族はいなくなった。

 青が朝目覚めたら、無人の家に一人取り残されていた。
 何が何だかわからないうちに家財を処分するための業者がずかずかと家に入り込んできて、青は慌てて自分の部屋から必要最低限のものをお気に入りのリュックに詰め込み、それを背負いながら小さな紙切れを握りしめ、家中が空っぽになる様子を呆然と眺めていることしかできなかった。
 次にリフォーム業者が入り、汚れた壁紙や床のキズ、水回りなどを補修し、隅々までクリーニングされた青の家はあっという間に他人のものになった。



 それから青は紆余曲折の末、小さな公園のベンチで寝起きしている。今のところそこが一番気楽だった。

 最初は、自宅以外に行くところが学校しか思い付かず、保健室のベッドで寝起きしていた。ほんの数日で「誰かが保健室に宿泊している」ことが問題となり、青は仕方なしに空き教室に移動したものの、誰もいない夜の学校が怖いうえに、自分一人だけが取り残されている疎外感と孤独感に耐えられなくなった。

 青が透き通って五ヶ月近く経ったそこに、青の居場所はない。
 仲のよかった友達は青のことなど忘れたかのように陽気に笑い合い、付き合い始めたばかりだった彼氏には新しい彼女ができていた。
 前年度の出席簿の青の欄は長い横線が青の存在を否定し、新学期の出席簿では青の存在は抹消された。
 それでも青は、仲がよかった友達や元カレになんとか自分の存在を知らせようと何度も接触を試みた。ところが、やり方が悪かったのかことごとく失敗に終わり、青の心は完全に折れた。

 それでも青は学校に通う。たとえ青の席がそこになくても、立ったままちゃんと授業を受ける。
 皮肉なことにこれほど真剣に授業に取り組むようになったのは透き通ってからで、そこに綿の言葉があったからだ。
「突然透き通ったなら、突然元に戻るかもしれない。そのときに今以上にバカだったら、お姉ちゃん、お先真っ暗だよ。バカなお姉ちゃんの老後の面倒見るの、僕絶対に嫌だからね」
 綿は毎朝、腕を組んでもっともらしい顔で見えない青に向かって何度も学校に通うよう諭した。青は弟に比べ、少しだけ……正直に言えばかなり勉強が苦手だった。
「透き通ったことに浮かれて犯罪なんか犯してみなよ、絶対に後で制裁されるから。映画でもマンガでもなんでもそうでしょ。悪いことしたら後で絶対に仕返しがくるの。だから万引きとか絶対にしちゃダメだからね」
 青に比べ綿は大人だった。そんなこと一瞬たりとも思い浮かべませんでした、という顔で青はもっともらしく頷いた。が、青のそんなわざとらしい真顔が綿に見えるはずもなく、「お姉ちゃんのことだからちょっとくらいって思ったでしょ」とまんまと指摘され、再度「犯罪だけはダメだからね」と念を押された。



「そうはいってもさあ……」
 青も綿も、親の方針で子供の頃からお年玉などの臨時収入用の口座を自分で管理してきた。高校最初の夏休みはたいした使い道もないのに勉強そっちのけでバイトに明け暮れたおかげで、そこそこの貯金はあるものの、さすがに出て行く一方だと心許ない。生きていくには万引きや無銭飲食を覚悟しなければならなくなる。
 青は電化製品が使えない。
 綿がそれに気付いたときに青の貯金を全額おろしてくれたことは今となってみればこの事態を予見していたとしか思えない。ついでのように自分のささやかな預金も渋々ながらその全てを青に差し出してくれた。

「しかも暑いし」
 まだ六月だというのに、夜になっても気温の下がらない蒸し暑い夜は、公園であっても同じだった。生きものである蚊には刺されないものの、本格的な梅雨を控えた今、公園での寝起きには限界がある。冬になれば尚のこと。
 青はのしかかってくる重苦しい湿気から逃れるようにコンビニに逃げ込んでは涼を得ている。ただし店内に眠れる場所はない。

 青が寝床にしている公園は、道路を挟んでコンビニの真向かいに位置し、残りの三辺はいずれもマンションのエントランスに面している。示し合わせたように三つのマンションのエントランスはガラス張りで、公園自体がガラスに囲われているようだった。
 借景という言葉が浮かぶほど、適度に緑の木々が生える公園は、夜になると四方から光が差し込み、ガラス張りの箱庭を仄白く浮かび上がらせる。
 そのせいかやけに健全だった。あまりに健全すぎて、昼間の公園ではマンションに住む親子の姿をよく見かけるものの、夜の公園は人を寄せ付けない。

「いい加減、どこか住めるとこ見付けないと……」
 綿がいなくなってから、青は独り言が増えた。
 たとえ自分の声が相手に届かなくても、話しかけてくれる人がいるだけで自分の存在が肯定される。あまりに当たり前すぎてそれまで気付かなかった。その当たり前が失われてしまった今、青は自分で自分に話しかける。

「寝ている間に熱中症で死にそう」
 もしかしたら死体になった瞬間、元に戻るのかもしれない。最悪なのは死体となっても透き通ったままの可能性だ。誰にも顧みられることなく、命あるものたちの無意識に踏み付けられながら、腐臭だけを放って朽ちていく。
 ぞっとした。
 考えないよう意識すればするほど、考えてしてしまうのはどうしてだろう。自分の思考すら自分でコントロールできない苛立ちが青を不安の淵に立たせる。ほんの少しでもバランスを崩せば真っ逆さまに落ちていくようで、足の指に力が入った。

 涼に満ちたコンビニエンスストアの店内から図らずもライトアップされた公園を青はただじっと眺めていた。




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