第8話

文字数 6,257文字

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「私来週から学校だから」
 八月の最後の金曜の夜に青がいきなり言った。
 ソファーの端に座る須臾が読みかけの本から顔を上げると、その反対の端で膝を抱えて長編アニメを見ていた青は真正面に据えられたテレビ画面から目を逸らさずに続けた。
「でね、お弁当、持ってってもいい?」
 画面では姉妹らしき女の子二人が祖母らしき女性から渡されたおにぎりを嬉しそうに受け取っている。
「おにぎりか」
「なんでわかった?」
 わからない方がおかしい。須臾は目を丸くしている青に了承の意で頷いた。
 十七歳の彼女は短絡的だ。この年頃ならばそんなものかと思いながらも、もう少しよく考えて行動しろと言いたくなる。青は素直だ。見ているだけで何を考えているかわかるほど表情豊かだ。それでいて、感情が表に出にくい須臾の意図をほぼ間違うことなくくみ取っている。
 訓練もなくこの年でそれができるのは、それが必要な環境に置かれていたからだろう。
「ねえ、お昼ってどうしてるの?」
「コンビニ」
「えー! 昼も夜もコンビニ弁当だったの?」
「違う店」
「えー! お店が違ってもコンビニ弁当はコンビニ弁当だよ」
 奇声を上げる青をうるさいと言わんばかりに睨み付ける。
「おにぎり、いる?」青がにやっと笑う。
 おにぎりか、と須臾が考えていると、再び画面に視線を戻した青が言った。
「日曜の夜までに考えといて」
 一瞬、具はなんだ? と考えた自分に呆れながら須臾は開いたままのページに視線を落とし、さてどこまで読んだかと文字を追った。

 しばらく文字を追っていると、ふと青の声が蘇った。
 ──私来週から学校だから。
「席は?」
 視線を手元に落としたままの須臾の問い掛けに、青がきょとんと首を傾げている気配がした。
「ん? 席? ああ、学校? あるわけないじゃん。あったところで座ったら勝手に椅子が動く怪奇現象だよ」
 どういう過程で席がなくなったのかを青は言わない。普段よく喋るくせに、肝心なことは決して口にしない。今も気まずさを誤魔化すようにへらへら笑っているのが須臾の視界の端に映っている。
 須臾が顔を上げた瞬間、青は決まり悪そうにそっぽを向いた。
「教科書は?」
「ないよ。ぼけっと授業受けてる人のを横から盗み見てる」
 そこまでして高校に通う必要はあるのか。口を開きかけて須臾は言葉をのみ込んだ。

 失って初めてその価値を知ることが世の中には山とある。しかも人それぞれその真価は違う。
 青にとって授業を受けることは、須臾が海に潜ることと同じなのかもしれない。

 少なくとも二年に進級する前に今の状態になったことだけはわかった。
「再来週、出掛ける」
「ああ、もしかして夏休み?」
 八月の中頃、お盆休みはないのかを青に聞かれ、須臾は交代で取ることを伝えていた。
「お泊まり?」
 須臾が頷くと、青は軽く目を伏せた。
「その間、私一人でここに居てもいいの?」
 青は須臾の帰宅まで決して部屋の明かりを点けない。いくつか懐中電灯を購入し、青でも明かりが灯せるようにしているにもかかわらず、日々日が短くなっていく中、一番光源の弱いもの一つを点けたきりで暗がりの中にいる。それが彼女の不安を表しているようで、須臾は心配していた。
 彼女の抱える闇は深く濃いだろう。他人から見えない状態となってもまだ正気を保てているのは驚くべきことだと須臾は思う。
「一人になるのが嫌なら一緒に行くか?」
 つい口が滑った。案の定、青が驚いた顔をしている。
「うわ、今ちゃんと文章だった。いつも単語なのに。うわ、びっくり」
 このやろう、と口の中で悪態をつきながら、須臾はさも何事もなかったかのように手元の本に視線を落とした。
「考えとく」
 ぽとんと滴が一つ落とされたような呟きが聞こえた。
 須臾が顔を上げたときには青の視線は正面を向いていた。画面の中には少し年の離れた姉妹が軽快なBGMをバックに仲良く手を繋いで田舎道を歩いている。それをじっと見つめる彼女の瞳に画面の光が反射していた。




 結局、須臾はおにぎりを持って出勤し、青は一緒に来なかった。
 青が直前まで悩んでいたことは須臾も知っている。
「やっぱ、今学校休むのはどうかなって」
 前々日の晩にそう言われた。それまでにちょくちょく、目的地や日程、交通手段、宿泊場所等、ふと思い出したように青は尋ねてきた。それに短く須臾が答えると、その度に目を輝かせてさらなる質問をぶつけていたのだから、行く気はあったのだろう。
「実は、私あんまり頭よくなくて。段々授業についていけなくなってて……」
 教科書の代わりに参考書を与えると、青は家でも勉強するようになった。青はとにかく数学が苦手で、化学や物理も苦手、英語も世界史も苦手。得意な科目を訊けば首を傾げる始末だ。
「なんかもう、最近は先生の言ってることが呪文に聞こえて。ここで休んだら取り返しがつかなくなりそうで……」
 青は須臾の内心をいつも的確に言い当てる。
「あー! 今、こいつ馬鹿だって思ったでしょ!」
 耳をつんざくような奇声を発した青を睨めば、「睨めばいいと思って!」と八つ当たり気味に言い返された。

 そのときの青のふくれっ面を思い出す。それでいて次の瞬間には、うぅ……現地の石でいいからお土産……、と悲愴感と悔しさを滲ませていた。

 彼女と暮らし始めてひと月以上経ち、医師との面談のたびに須臾はこれまで以上に精神の安定を指摘されている。その理由について探りを入れる医師に、下手に誤魔化すと調査が入ることを知る須臾は、ベタな言い訳だと思いながらも猫を拾ったことにしたのだ。
 須臾が思った以上にあっさり納得した医師は、自身も犬を飼っていることをどこか嬉しそうに告白した。アニマルセラピーと呼ばれる分野があるのだが、ペットでストレスが癒やされる人もいればストレスをぶつける人もいるため、万人に勧められるものでもないらしい。
「あなたは癒やされていますね」
 そうにこやかに言う医師に、須臾は「ずいぶん苛つかされていますが」と反論したものだ。医師は珍しく素の表情で朗笑していた。
「目の調子はいかがですか?」
 穏やかな笑みを浮かべたまま、医師の確認が続く。
「特に変わりありません」
「そうですか」
 それまでと変わりないやりとりは、いつの間にか医師の笑みを作られたものへと変えていた。

 須臾の思い違いでなければ、青の精神も安定してきたようだ。
 ぱさついていた髪や荒れていた肌は潤い、自分で食事の用意をするようになったこともあってか、食欲の回復とともに顔色もよくなり健康的になった。それに伴い、不安に揺れていた瞳が芯を持ち、須臾の様子を窺ってばかりいた最初の頃とは違い、口調が崩れ、言いたいことを言い、自由に振る舞うようになっている。
 使ったものを片付けなかったり、床に物を置きっ放しにするところは再三注意することで改善したが、洗濯物を溜めたり、歯磨きをサボろうとするところは本人にしか害がないので須臾は放っている。
 ロボット掃除機の騒音に顔をしかめ、自分のスペースへの侵入を妨害し、時々わざと触って停止させている。その代わりに毎日欠かさず楽しそうにコードレス掃除機を使って家中の掃除をしているのだから須臾は何も言えない。週末はストリーミングで音楽を流しっぱなしにしておくと機嫌がよく、時々音程が微妙な鼻歌が聞こえてくる。
 風呂や洗面所、トイレ、キッチンはいつもきれいに使っている。使ったら元の状態に戻すことが寮生活で身に付いている須臾に合わせたのか、青も自分が使ったあとはちゃんと掃除している。むしろ須臾だけが使っていた頃よりもきれいなくらいだ。
 ただし、なぜか彼女は排水口の掃除をしない。どうも排水口の掃除をするという発想がないようで、須臾の髪一割、青の髪九割の排水口の掃除に理不尽さを感じながらも、あえて言うほどでもないかと須臾がせっせと掃除している。

 竹芝桟橋からフェリーに乗る。
 片道二十四時間の船旅。須臾にとっては旅ではなく帰省だ。
 到着したらそこからまた数時間かけて須臾が生まれ育った今は無人となった島に移動する。わずか四十八時間ほどの滞在で再びフェリー乗り場へと小型船を走らせることになる。
 滞在中、須臾はただひたすら海に潜る。何も見付けることなどできないとわかっていながら、それでも潜らずにはいられない。

 波の上に寝そべり空を見上げる。
 いつか、この空と海の間に自分もとけ込むことができるだろうか。
 水天一碧。
 かつて当たり前にあったあの青さを取り戻せる日はくるのだろうか。

 ふと須臾は直前の思考に苦笑を漏らす。
 今まで回復を願ったことなどあっただろうか。自分でも気付かないうちに前を向いている。進んでいこうとしている。
 人とは存外単純なものだよ。
 記憶の奥底に沈んでいた僧侶の言葉が不意に小さな泡とともに浮かんできた。
 弾けた小さな泡に須臾は再び苦笑する。青の存在か。

 満天の下、小さな瞬きに応えるように目を細める。
 見慣れつつあるなだらかな島影。
 来るたびに種を植えてきた果樹の影を見る。自生する果樹はたわわに実を付けている。痩せた芋が炎の中で香ばしく香る。捌いた魚を軽く炙る。
 人工物が一掃された景色。
 なんとか生きていける。



 非日常が気怠い疲れとなって躰に纏わり付いている。
 心配していた台風に追いかけられるように、須臾を乗せたフェリーはなんとか出航し、一昼夜の巡航ののち台風による影響よりも一足早く竹芝桟橋に到着した。

 部屋のドアを開けると同時に「おかえり!」と声がかかる。普段出迎えなどしない青が扉のすぐ内側に立っていた。
「どうした?」
「ん? どうもしないよ」
 青は質問の意味がわからないとばかりに不思議そうに首を傾げる。気付いていないのだ。自分がどんな表情をしているかに。
 ずいっと青の顔面に途中のエキナカで買ってきたチーズケーキの箱を差し出す。
「やった! お土産!」
 一度に全部食べてしまいそうな勢いで青はケーキの箱を両手で押し頂きながら奥へと小走りで消えた。開け放たれた扉の向こうは相変わらず心細い明かりしか点いていない。その心許ない明かりの中、須臾は背負っていた荷物を降ろし、靴を履き替えるためにベンチに腰をおろし、そこに残るぬくもりに気付いた。
 ずっとここで待っていたのか。
 須臾は青に五泊六日の行程を詳細に伝えていた。おおよその帰宅時間も伝えていた。フェリーの到着が四十分ほど遅れ、途中エキナカに立ち寄ったこともあり、予定より遅れての帰宅だった。
 須臾の顔を見た瞬間の彼女の安堵の表情は直前まであった心細さを如実に表していた。

「なにこれ、おいしい!」
 名産品の数々をテーブルに並べていく須臾の横で、青は次々手を付けては口に放り込み、その感想を声高に告げる。
「えー、レモンなのに皮が緑なんだねぇ、へーぇ」
 レモンジャムを手に取る青の目は須臾を出迎えたときとは違い生き生きしていた。
「このグミみたいなゼリーみたいなヤツもすんごくおいしい」
 他にもハーブウォーターや石鹸、塩やコーヒー、フルーツジュースなど、須臾にとっては珍しくないものを、青はいちいち珍しがり喜んだ。売店で目に付いたものを適当に買っただけでここまで喜ばれると須臾もまんざらでもない。

「荷物片付けてる間にご飯作るから。もうお米研いであるから後は炊くだけ」得意気にそう言って、青は手を洗い始めた。「ちゃんと野菜に水やったし、収穫もちゃんとしといたからね」
「ハシブトは?」
「ちゃんと餌台の上に賄賂のけっといた」
 ハシブトははぐれガラスだ。ハシブトガラスだからハシブトという安直な名付けに、青は「なんか図々しそうな名前」と微妙な顔をしていたものだ。

 ベランダ菜園を始めた頃、鳥の被害がひどかった。ネットを張ることでスズメやハトは防げたが、カラスだけはダメだった。ヤツらはネットをかいくぐり、熟れた野菜だけを狙う。
 頭にきた須臾は群れずにどの個体よりも畏怖堂々としたカラスに直談判したのだ。毎日一番うまい野菜をやるから代わりにここを守れ、と。餌台を作り、毎日ハシブトにそう叫びながら一握りの野菜や果物を置く。するとしばらくののち、ハシブトがここを縄張りとしたのか、他の鳥の被害がなくなった。晴れた日にはタライに水を張り、水浴びもさせている。初めは警戒していたハシブトも、そのうち気持ちよさそうに辺りに水を撒き散らしながら水浴びをするようになった。
 もう何年もそんな関係が続いているというのに、ハシブトは決して須臾に馴れることはない。須臾の姿が近くにあるうちは決して餌を食べようとしないし、水浴びもしない。そこがまた、須臾がハシブトを信用しているところでもある。

「いただきます」
 声に出すも手を合わせない青と声には出さず手を合わせるだけの須臾。
 青の味付けは基本的に醤油、酒、みりんを同じ分量で合わせたタレが基本だ。それでしか味付けができないとも言えるが、それなりにうまい。
 須臾は野菜と魚中心の食事を好む。青はとりあえず肉だ。料理人が肉食なのでここ最近の食事は肉中心だ。一度青に魚のうまさを教える必要があると須臾は考えている。こう肉ばかりが続くと猛烈に魚が食べたくなる。ここ数日魚料理ばかり食べていたせいもあってか、肉を見ただけでげんなりした。
 もちろん表情には出さないが、察しのいい青は気付いてしまう。
「おいしくない?」
「いや、うまい」
 実際うまい。今日はいつものタレに七味が加わっている。肉にはほどよく火が通り、野菜はしゃきっとしている。ただの肉野菜炒めでも作る者が違うだけでこれほど差が出るのかと須臾は自分の料理音痴を嘆くしかない。
「ねえ、なんか黒くなってない?」
 青のまじまじとした視線に、須臾は自分の腕に視線を落とす。落としたところでそれまでと変わらない色があるだけだ。日中は常に全身を覆うウェットスーツを着ている上、手には軍手、水中では足にフィンを装着している。焼けるとすれば足の甲と顔。
「そうか?」
「うん、焼けてる。日焼け止め塗らなかったの?」
「塗った」
 元々日焼けに頓着しなかった須臾だが、海から離れるうちに日焼けに痛みを伴うようになり、ここ数年は日焼け止めを塗るようにしている。
「でも、ちょっと焼けてる」
「ちょっと?」
「うん、ちょっとほっぺた赤くなってる。ちゃんと保湿した方がいいよ。私の化粧水とか使っていいから」
 よく気付くな、と須臾は思う。そういうところは女の子なのだ。男同士だと少しくらいの変化はたとえ気付いたとしてもさして気にかけないためいちいち口に出すこともない。
 須臾はまじまじと青を見た。
「なに?」
 たじろいだように青が口走る。須臾が何も言わずに視線を逸らすと、青は「なに? ねえ、なに?」としつこく食い下がった。仕方なく須臾は口を開く。
「よく気付くな」
「普通気付くでしょ、一緒に住んでるんだから」
 青の呆れ混じりの声に、須臾はそこで初めて一緒に住んでいるという事実がじんわりと身に沁みてきた。




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