第4話

文字数 6,319文字

「あの、ちょっ…と、ねえ、Tシャツ……」
 青はだるく重い足を励ましながらずんずんと大股で歩くその人の後を追いかけた。ほんの少し早歩きしただけで息が上がる。吐き出す呼気が熱い。冷蔵庫の中に入りたい。
 閉まりかけたエレベーターに青は慌てて駆け込んだ。古く狭く熱のこもったエレベーターの中にはその人と青だけ。噴き出す汗に顔をしかめながら荒い息をなんとか鎮めて、再度声をかけようとしたところで、ちーん、と甲高い音の一拍後にエレベーターの扉が軋んだ音を立てて開いた。
 その階にはその人の住戸しかない。
 前回と同じくドアハンドルの上下にある鍵を二つとも開けたその人は、あの、ちょっと、ねえ、とその背中に何度も呼びかけていた青を振り返った。

 目が合った。
 その人の目には水底のようなしんと深い静けさがあった。澱むこともなければ涸れることもない、静寂の中に閉じ込められた慟哭。それは青の知る煢然の気配と同じで、その視線に引き込まれた青の心もすっと静けさに沈んでいった。
「私のこと、見えてますか?」
 これまで何度も問い掛けてきた言葉を青は久しぶりに口にした。透明なはずの青の声がその人には届いているような気がした。
 目の前に立ち青を見下ろすその人は一切の反応を見せず、じっと見上げていた青からごく自然に目を逸らすと、まるで後に続く人を気遣うようにドアを大きく開けて中に入っていった。軽い混乱の中、青もそれに続く。
 目が合う。それは、見えている、ということ。
 青は勝手に結論付けた。透き通るようになってこれまで幾度となく、目が合った! と感じたことがある。そのほとんどは青の勘違いで、青の目の位置を通過点とした先に視線が向いていただけだった。それゆえ、彼らの焦点が青の目にはない。
 いま、間違いなく青の目に焦点が合っていた。
 人は何もない空中に視線を合わせることなんてできない。少なくとも青はできない。寄り目になるだけだ。

 その人は前回と同じく玄関の灯りを点け、コンビニの袋をベンチの上に置き、靴を履き替えた。青の存在などないかのように、脱いだ靴にきっちりシューズキーパーを入れ、軽く表面の埃をウェスで拭ってベンチ下の収納部分に仕舞った。
 そして、前回はなかったベンチの横に積み重ねられていた段ボールのうちの一つを開け、そこからその人が履いているのと同じクロッグサンダルを取り出した。
 その真新しいサンダルを手に立ち上がったその人は、混乱する青の足元にそのサンダルを揃えて置いた。その人のサンダルは黒。青の前に置かれたサンダルはホワイト。明らかにその人が履くには小さなサイズ。
「わた…し、に?」
 信じられない思いで呆然と呟いた青に応えることなく、その人は青が顔を上げたときにはすでに背を向けていた。青のTシャツが入ったままのコンビニ袋を手に廊下の先に進んでいき、正面の室内扉を開けたまま部屋の照明を点けた。
 廊下の先で長方形に広がる明かり。足元のクロッグサンダル。二つを何度も見比べた青は、靴を脱ぎ、サンダルに履き替え、脱いだ靴を端に寄せ、冷えた空気が流れてくる廊下の先に進んだ。サンダルは青の足に大きくも小さくもなかった。

 廊下の先は倉庫みたいな部屋だった。
 きっと住戸全体は長方形なのだろう。一階のコンビニよりも一回りか二回り小さいくらいの面積。短辺の一つに玄関があり、長辺にはそれぞれ窓が並び、その一辺は大きなバルコニーに面していた。
 窓の外は夜に深く沈んでいた。その人はロールブラインドを一つ一つ下ろして迫り来る夜の気配を遮っていった。
 廊下を中心としたコの字型の大きなワンルーム。
 バルコニー側に大きな黒いソファーやローテーブルが置かれ、その奥にベッドが見え、大きな家具が並ぶその奥にもスペースがありそうだ。
 腰窓側にはキッチンがあり、その奥に作りかけの家具のようなものと木材が無造作に置かれており、その奥にドアがひとつある。
 心地好く冷やされた部屋はこざっぱりしていた。何かを作りかけている木材の周りに木屑など見当たらず、工具やペンキの缶はメタルラックに整然と並べられ、すぐ側で空気清浄機が稼働している。

 廊下の突き当たり、開け放たれた扉から青は光の中に足を踏み入れた。そのまま真新しいサンダルで二三歩進み、くるっと部屋を見渡している青をよそに、その人は部屋の中心に置かれている大きなダイニングテーブルの上に温めたお弁当を向かい合わせに二つ並べていた。いつの間にお湯を沸かしたのか、細い注ぎ口のケトルからワンタンにお湯を注いでいる。
 その人が冷蔵庫から取り出したガラスのボウルにはざく切りにされた野菜がたっぷり入っており、カウンターを兼ねた食器棚から取り皿を二枚手に取ると、彼はそれらを静かにテーブルに置いた。
 そして椅子を引き、その人は再び青に目を向けた。

 座れ、と言われているような気がして、青はその人が引いた椅子に座った。正面に座ったその人は、手を合わせ、お弁当を開ける。青も同じように目の前に置かれた幕の内弁当の透明な包装を外していった。
 温かいものを食べるのはどれくらい振りだろう。
 お弁当を食べる青の目には勝手に涙が滲んでいた。ごく普通のコンビニ弁当がとてつもなくおいしく感じた。インスタントのカップワンタンが極上のスープに思えた。取り分けられたざく切りサラダというよりはぶつ切り生野菜がものすごくおいしかった。青は夢中で食べた。

 お弁当を食べ終わると、青の目の前にミネラルウォーターが置かれた。カップワンタンを飲み干したのに、ペットボトルを見た途端に喉の渇きを覚え、有り難く口を付ける。
 ごくっと一口飲んだら止まらなかった。ごくごく一気に半分ほど飲み干すと、青はようやく人心地がついた。

 その人はそれを待っていたかのように席を立った。青もつられて席を立つ。
 目が合った。ついてこいと言われているような気がして、青は背を向けたその人の後に続いた。廊下へと続くドアを素通りし、右に折れ、ソファーの脇を通り、ベッドを通り過ぎ、本棚やワードローブで仕切られた奥は八畳ほどの空間だった。
 その部分の照明が点くと、部屋の中央より窓寄りに木製のベッドが置かれていた。壁にはまだビニールがかかったままの真新しいマットレスが立てかけられている。
 その人は手早くビニールを外し、マットレスをベッドに設置すると、その上に青が買ったTシャツと鍵を一つ置いた。
「もしかして、この部屋、使っていいの?」
 大きなひとつの空間を本棚とワードローブなどの大型家具で仕切られた部屋と呼べる空間。
 青が部屋の中をぐるっと眺めているあいだに、その人はベンチの脇に積まれていたいくつかの段ボールを抱えてきた。
 なんとなく青も開封を手伝う。段ボールから出てきたのはベッドパッドやシーツ、枕にガーゼケット、タオル、着替えなど、多少の濃淡の違いはあれどグレーで統一されたそれらは間違いなく青のために用意された物だと青は直感した。その人のベッド周りは黒と濃紺で統一されていた。
「なんで……」
 その人はそれに応えることなく、空いた段ボールを次々潰していき、それを脇に抱えると、呆然とする青に視線を定め、無表情のまますっと背を向けた。
 またもやついてこいと言われたような気がして、青はなんでなんでと頭で繰り返しながら後に続いた。

 部屋の外に出て、ベッドの脇を通り、ソファーを通り過ぎ、ダイニングテーブルの脚に潰した段ボールを立てかけたその人は、そのままキッチンを通り過ぎ、今度は左に折れて、作りかけの家具や木材の脇を通り、その奥の扉を開けた。
 照明が灯ると、かなり広めの洗面所だった。真四角の白い洗面ボールが木製のカウンターに据え付けられ、オープンラックにはタオルが並んでいる。洗濯機は縦型。窓の前にはハンガーラックが置かれている。洗濯物はかかっていない。
 その人は場所を教えるようにトイレのドアを開け、お風呂のドアも開ける。どちらもきちんと掃除されていた。用意されていた物の中には、洗面道具もあった。

 青の頭の中は「なんで」でいっぱいだった。その全てに目の前の人が答えてくれるとは思えず、青はひとつだけ質問した。
「私……」いざ声に出そうとすると途端に怖くなった。否定されるかもしれない。青の勘違いかもしれない。それでも訊かなければ始まらない。きっと青の声は届いている。
「ここに住んでもいいんですか?」
 その人は、ほんの少しだけ顎を引いた。それだけだった。それだけなのに、青は声を上げて泣き出してしまいそうだった。もうずっと張り詰めたままだった心の糸がふっと緩むのを感じた。

 その人はざっと浴槽にシャワーをかけ、お風呂にお湯を溜める。追い炊き機能はないようで、直接蛇口からお湯を浴槽に溜めている。
「もしかして、お風呂入っていいの?」
 視線を合わせたその人は、洗面所から出て行った。青は慌ててその後に続き、どこに置いたか思い出せないリュックを探した。ダイニングチェアの横に転がっているリュックを拾い上げ、用意されていたタオルと部屋着を取りに与えられた部屋に戻り、洗面道具も合わせて腕に抱え、キッチンで洗い物をしているその人の背中に「ありがとう」と声をかけると洗面所の扉を閉めた。
 扉には鍵がついていた。鍵を閉めようと指を伸ばし、サムターンを摘まんだ瞬間、青は手を離していた。閉めなくてもいいような気がした。

 湯船に浸かりながらたくさんの「なんで」を一つ一つ確かめる。山のようにある「なんで」を集約すると、大まかにふたつにまとめられる。

 なんであの人には青が見えるのか。
 なんであの人は青を住まわせてくれるのか。

 一つ目の「なんで」は「なんで青は透明になったのか」と同じカテゴリーなので明確な答えはないような気がする。きっとどれほど青が考えたところで青の残念な脳みそが答えをはじき出すことなんてない。たまたま。そのひと言に尽きる。
 二つ目の「なんで」をあの人が答えてくれるとは思えない。無表情のまま、視線だけで語る人。喋れないのか、ものすごく無口なのか。どれほど思い返してもこれまで一度もあの人の声を聞いたことがないことに改めて気付いた。青が知る限りあの人の意思表示は、眉を寄せるか顎を引くかの二つだけ。しかも見逃してしまいそうなほど微かな仕草。

 あの人が青をここに住まわせる目的はなんだろう。
 二つ目の「なんで」に連なる疑問は真剣に考える必要がありそうだ。
 いわゆる躰目的だとは思えない。積極的に生きる気力もなさそうなあの人に性欲を含めたあらゆる欲はないような気がする。甘い考えだろうか。
「んー」と青は喉の奥を鳴らした。どれほど考えてもどうも違う気がする。もし躰目当てだとすれば、もっと早い段階で家に誘われていただろうし、今頃ここに乗り込んできてもおかしくない。鍵はかけていないのだから。
 万が一盗撮されていたとしても、青はカメラに写らない。綿曰く、鏡にも映っていないらしい。青の目にはお風呂の曇った鏡に映る自身がちゃんと見えているのに。
 もし初めからあの人には青が見えていたとして、ともすると青が透明になっているとは知らなかったとして、となるとただの家出娘だと思われているとしたら……ぐるぐると考える。女子高生監禁事件という文字が頭に浮かんだ。即座に否定する。だとしたら合い鍵は渡さないし、きっと今頃拘束されている。

 はっきり言って、困っている人を誰彼かまわず助けるような人には見えない。
 いくら考えてもわからなかった。ただの気まぐれ。それが一番しっくりくる。

 それなのにどういうわけか信用できる。だから、前にも一度頼ってしまったのだ。
 再び青は「うーん」と唸った。どうして信用できると思うのだろう。そう思う根拠がない。勘としか言い様がない。もしくは毎日コンビニで知らん顔をされ続けた連帯感とでも言えばいいのか。
「なんだそれ」
 意識することない小さな呟きが青からこぼれた。知らん顔され続けた連帯感。もう一度、なんだそれ、と小さく洩らしつつ、それでもあの人だけが青の存在を受け入れてくれたという気持ちは強い。
 これまでの数ヶ月、あの人が青を排除しようとしたことは一度もない。信用の根拠はそこにある気がする。根拠のない確信ではあるものの、青にとってはそれで十分だった。

 ふわっと洗い髪が爽やかに香った。ぱさついていた髪がしっとりと潤っている。
 あの人が用意してくれたトライアルサイズのバスセットは青も知っている外国の専門店の物だった。ものすごく香りがいい。同じメーカーの洗顔料やスキンケアセットもトライアルサイズで、とりあえず用意してみた、という感じがする。あの無表情のまま注文したのだろうか。だとしたら笑える。
 ふと見ればバスラックに並んでいる使いかけのレギュラーサイズも同じ専門店のものだった。青のはピンクグレープフルーツ、あの人が使っているのはグリーンティー。爽やか系が好きらしい。

 あれこれ考えながら久しぶりに湯船に浸かったせいか、思っていたよりも長湯をしていることに気付き、青は慌てて浴槽を出た。元々ぬるめだったお湯はすっかり冷めてしまった。
 のぼせたのか強い立ち眩みに暫く動きを止めてから、青は浴槽のお湯を抜き、オープンラックにあったお風呂用洗剤で浴槽や洗い場の掃除を手早く終える。
 急いで髪をタオルドライし、使った洗面道具や着替えを掻き集めて洗面所を出ると、ひんやりと乾いた空気が青ののぼせた躰を心地好く包み込んだ。

 その人は作りかけの家具を組み立てていた。どうやら細長いテーブルを作っているようだ。
「お風呂、ありがとうございました。お風呂のお湯、ぬるくなっちゃったんで抜いて掃除しました。今もう一度お湯溜めてます」
 その人は青と目を合わせ、手早く作りかけのテーブルを脇に寄せ、青が飲み残していたミネラルウォーターを冷蔵庫から出して、飲めと言わんばかりにダイニングテーブルの上に置いた。それを見た途端、青は急激に喉の渇きを覚えた。
「それからあの、着替えとか、色々、ありがとうございます」
 用意されていたタグが付いたままの真新しい部屋着はグレーのなんてことない薄手のパーカーとハーフパンツだった。サイズがMだったのでレディースのMかと思いきや、着てみたらメンズのMだった。インナー代わりのコンビニのTシャツといい、青にはかなり大きい。
 その人は青を一瞥しただけで何も言わない。似合っていないのかと少し不安になり、きっとこの人は青が何を着ても無表情なのではないかと思い直す。そもそも無個性のグレーのルームウェアなのだから似合うも似合わないもない。
 しかもだ。女子高生の風呂上がりにもノーリアクション。ここまで意識されないことに青はなんとなくむっとする。
 片付け終わったその人は、コードレス掃除機で周りを軽く掃除し、青と目を合わすことなく背を向けてベッド側に消えた。暫くすると着替えを手に青の横を通り過ぎ、洗面所の扉を閉めた。直後に鍵の閉まる音が聞こえ、青は一層むっとする。
「誰が覗くかっ」
 悪態をつくと、扉の向こうから溜め息のような息遣いが聞こえてきた。
 青はむっとしたままダイニングテーブルに残されたミネラルウォーターを勢いよくごくごく飲み干した。




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