第20話

文字数 6,218文字

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「意味わかって言ってるのか?」
 須臾が無理矢理青を引きはがす。すると、青は舌打ちしそうな勢いで残念がった。五年ぶりなのに、と恨みがましい目で須臾を見上げてくる。
「だめ?」
 至近距離で瞳を覗き込まれ、須臾はたじろぐより先に青の瞳の色を知った。この距離でなければわからないほど微かな緑が散る。それは、須臾には判別困難なはずの色彩。顔を上げてあたりを見渡せば、それまでと同じ褪めた世界が広がっている。驚きよりも納得の気持ちが強いのは相手が青だからだろう。
「今勢いで言ってるだろ」
「勢いもあるけど、でも、須臾はいつまでも居ていいって言ったでしょ、本心だって」
 青が笑った。なんてことのない笑顔だった。口の両端をくいっと上げて、目を細めただけだ。特別可愛い笑顔でもなければ特別魅力的でもない、いつものどことなく得意気な笑顔だった。

 敵わない。須臾は悟った。絶望にも似た、堕ちるような自覚だった。

 父の顔が浮かんだ。母の顔が浮かんだ。弟の顔が浮かんだ。祖父の顔も、祖母の顔も、伯父の、叔母の、従兄弟たちの、たくさんの顔が須臾の脳裡に目まぐるしく浮かんでいった。
 一瞬にして全てが奪われた。

「あの島で生きることは命がけだ」
 脅しつけるような声音が須臾の喉の奥から低く絞り出される。
「わかってる」
 覚悟した顔で青は頷く。その顔を見て、須臾はやはりという思いがこみ上げた。彼女は間違いなく知っている。須臾が何を失ったのか、誰に訊かずとも肌で感じ取ったのだろう。青にはそういうところがある。
「俺しかいないんだぞ」
「そりゃそうでしょ、須臾の島だもん」
 何をいまさら、とばかりに青は不思議そうに首を傾げる。
「本当に意味わかってるのか? 青は俺のこと好きじゃないだろ」
「好きだよ、普通に。好きじゃなきゃ一緒に暮らせないでしょ」
 飄々と言い返す青の脳天気さに須臾は無性に苛ついた。青は昔から警戒心が足りなすぎる。
「そういう意味じゃない」
 青が顔をしかめ、うわーっ、と声には出さずに口だけを動かした。
「そういうところがおっさんくさいよね」
 青はそう言ったあと勢いよくソファーに腰を落とし、その背にもたれて仰け反るようにむっとする須臾を見上げた。青がソファーの座面をぽんぽん叩いて隣に座るよう促す。
 小さく息をついた須臾が腰をおろすと、青は背を正し、あのねえ、と幼子に言い聞かせるような声を上げた。
「愛とか恋とか、そういうのはどうとでもなるんだよ」
「ならない」
「なるの。たぶん」
 きっぱり言い切ったあとで「たぶん」と保険をかけるあたり信用ならない。そんな須臾の内心を見透かしたかのように、青はまた、うわーっ、という顔をした。実際に吐息に近い声も出ている。
「そんなことよりも大切なのは、そばにいられるかいられないかでしょ。一緒に生活できるかできないか」
 妙な迫力で青は言い切る。
「それ以上に大切なことってある?」
 そう訊かれると「ない」としか言いようがない。そんな須臾の内心を悟ったかのように、青は、でしょ、と得意気だ。
 確かに正論ではある。愛や恋で語られるよりもずっと説得力がある。だが、三十を過ぎた須臾が言うならまだしも、まだ恋愛に夢や憧れを持つ年頃の青が言うのはどうなのか。別の意味で心配になる。
「青は、いいのか?」
「なにが? 須臾でってこと? おっさんだけどって? そんなのいいに決まってるじゃん。嫌な人だったら野垂れ死んでも一緒に暮らそうとは思わないよ。須臾だってそうでしょ、多少なりとも私のことが気に入ってたから、あの日助けてくれたんでしょ」
「それはそうだな」
 それは認める。不快感を与えるような人間であれば、振り払い、見て見ぬ振りをした。たとえ幻覚だったとしてもだ。
 気に入るという言い方がなんとも青らしい。もっと別の、それこそ情に絡めた言われ方をされていたら、須臾は間違いなく否定しただろう。
「だと思った。須臾って善人ってわけじゃないもんね」
「お互い様だ」
「だから、上手くいくって」
 また青が笑った。少し得意気な、小憎らしい顔で。

 敵わない。
 須臾は思った。思ってしまった。

「条件は?」
 条件なんてないよ、と言いつつ青は真剣な表情で考え込んだ。
「三ヶ月に一回、んーやっぱ半年に一回、あーでも一年に一回でいいや。おいしいもの食べに連れてって。特にデザート!」
「それだけか?」
「それ以上に何が必要? あとはあの島に全部あるし」
 青はさっぱりしたものだった。初めから青はそうだった。あの島に通うようになって数年、青は変わらずあの島に全てがあると言う。
「自分で作ろうと思えばたぶん作れるんだろうけど、やっぱ時々はプロの作ったものが食べたくなるような気がするんだよね。んーでも面倒ならいいや。須臾がなんか作って。あ、でもやっぱアイスは食べたい。チョコレートも、あとチーズケーキと──」
 際限のない青の食の欲求を須臾は遮る。
「万が一病気になったら……」
「ああ、それは大丈夫。綿、医者になるんだって」
 驚く須臾に青はしたり顔だ。
「そうなんだよ。綿は頭いいから。それで、塾かなんかの選抜カリキュラムがきつくて島に行けないって嘆いてたってわけ。夏は絶対に行くって言ってたけど……どうかな」
 そういえば以前、綿が孤島で奮闘する医師のマンガについてやけに熱っぽく語っていたことがあった。マンガに感化されたのか──いや違う。青のためだ。そう、間違いなく青のためだ。
「綿は間違いなくシスコンだな」
「やっぱそうだよね」と青が目を伏せた。「最初それでいいのかなって思ったんだけど、まあ手に職だし、食いっぱぐれることはないかなって」
 絶対の味方がいるってうれしいよね、と青は照れくさそうに笑った。
「青が見えるのは俺だけじゃないかもしれないんだ、もっと探さなくていいのか?」
 それは青から表情を奪った。それまでのはしゃいだ表情を消し去った青は、苦しそうに吐き出した。
「いるかいないかもわからない人を探し続けるのは心が折れるよ。少なくとも今まで須臾以外の人はいなかったし、もしいたとしても気が合う人かどうかもわからないし、きっと須臾と比べちゃうだろうし……」
 ふと窓の外を見た青はそのまま口を噤んだ。彼女の視線の先には餌台に睦まじく並ぶハシブトとそのつがい。
 須臾の脳裡にいつだったかの青の言葉が蘇る。ここと決められた方が楽だ、と言ったときの青はどんな表情をしていただろうか。こんなふうに透き通るような表情だっただろうか。
「あっ! もう一つ条件あった!」
 青は直前の悲愴感を見事に吹き飛ばし、情けないほどへらへら笑いながら、洗濯機、ともう一つの条件を明かした。
 そういえば、前回洗濯機の電源を入れたのはいつだったか。三日以内ではないはずだ。
「また洗濯物溜めてるな」
「溜めたくて溜めたわけじゃないよ。うっかり溜まっちゃったんだよ」
 どんな言い訳だ。
「やっぱ洗濯だけはなんとかしたい」
「なんとかするよ」
 溜め息混じりに返せば、青は飛び上がって喜んだ。かくいう須臾も洗濯だけはなんとかしたいと思っていたところだ。



「須臾の島だけど、私の島! ようこそ私! そして! 金のなる島!」
 バカなことを大声で叫んだ青は晴れ晴れとした顔で笑っている。出会った頃のように肩で切り揃えられた髪は、先日須臾の手でカットした。須臾としては満足のいく出来ではなかったにもかかわらず、青は洗髪が楽になったと喜んでいる。

 二人の関係に今のところ大きな変化はない。時々思い出したように青が触れてくる以外は、これまでと同様に須臾から触れることもない。
 そんなささやかな触れ合いの中にも、着実に何かが育っているような気がするのは須臾だけではないようで、どちらかといえば何かが芽生えたというよりは、元々そこで育ていたものに陽が当たったという方が近いのかもしれない。

 あの翌日には、万が一トラウマにでもなったら、という須臾の心配を余所に、青はなんの抵抗もなく前日と同じように待ち合わせ、自分の思い描いていたラッピング用品を嬉々として手に入れた。
 青が言うには「刃物を持った人間に遭遇するよりも、自分に触れられる生きものがいた事実の方が百万倍衝撃的」だったらしい。
 しかも、青の作るチャームが綿の学校で流行っているらしく、綿に送るたびに完売する。それがSNSや口コミで近隣校にも広がりを見せているとかで、青は今のうちに稼げるだけ稼ぐと鼻息が荒い。流行り廃りの早い年代だけあって、勝負は三ヶ月らしい。半年続いたらラッキーなのだとか。
 青は貯まったお金でアイスクリームメーカーを買おうとしている。

 そのおかげもあって漂着物の回収が捗る。
 須臾が何を探しているのかなど知らない青は、ただ素直に流れ着いたほとんどゴミにしかならないものを文句を言いながらもせっせと回収している。
「もう! ゴミのせいでお宝が埋もれちゃう!」
 島のほとんどは岩壁か磯で、砂礫はほんの一部しかない。それもあって打ち上げられるほどのゴミもあまりないのだが、ないわけではないのが困りものだ。一度岩の隙間にマネキンの腕が流れ着いていて、青が「ばらばら死体だ!」とおののいていた。
 水死体がそんなにきれいなものではないことを青は知らない。できれば一生知らなくていい。

「ねえねえ、タコって捕れる?」
「運がよければ」
「じゃあさ、いつか捕れたらたこ焼き作ろうよ」
「別にタコにこだわらなくてもいいだろ」
「はあ?」と青がガラの悪い声を出す。「タコの入ってないたこ焼きはたこ焼きじゃないでしょ」
「じゃあなんて言うんだ?」
「んー、明石焼きとか?」
「明石焼きもタコ入りだ」
「ベビーカステラ和風とか」
「なんでもありだな」
 出来上がったばかりのロフトにシュラフを並べる。二十センチほどの隙間が二人の距離を如実に表している。近すぎず、遠すぎず。
 大きく取った開口部には網戸が入れてある。ガラスは入れない。雨風の強い日は木製の雨戸を閉める。一部に強化ガラスをはめ殺しにした明かり窓がある以外、全ての開口部には網戸と雨戸がついている。
「家の中、何もないね」
 ロフトから見下ろす家の中は端に荷物が寄せられているだけのがらんどうだ。
「これからまた作ればいい」
「あの家にある家具、本当に全部綿にあげるの?」

 青もこの島に移住することを伝えたときの綿は、一瞬痛みを堪えたような顔をした後、須臾に深々と頭を下げた。
「姉ちゃんを、青を、よろしくお願いします」
 綿は青に対する複雑な感情を持て余していたようだった。姉であり、他人であり、自分では救えない大切な人。以前、そう話していたことがある。物心ついたときから綿のことを一番理解していたのは姉である青で、青がいたから綿は生きていられたのだと吐露していた。
「きっと榛葉さんもそのうちわかりますよ。あの人は気付いたら深いところに刺さってるんです。抜こうとしても抜けない場所に」
 そこがまたちょっと苛つく場所なんだよなあ、と綿はなんともいえない顔でしみじみ言う。
「青は信じるから。ちゃんと真意を酌み取って、他人には理解されない、でも自分の中ではここだけはってところは絶対に信じてくれる」
 綿はバルコニーでハシブト用の野菜を吟味している青の気配を探るように目を細めた。綿の視線の先に青はいない。須臾はそれを伝えるべきか一時悩んで、結局口を噤んだ。
 そして綿は、下部に市役所名が印刷された封筒を突き付けるように須臾の目の前に提示した。
「母から預かってきました。あの男、どこまで私から青を取り上げれば気が済むわけ、って怒り狂ってましたよ」
 中から三センチほど引き出してすぐさま封筒に戻した届け出用紙を須臾は綿に突き返す。
「俺じゃなく、青に渡せよ」
 いずれ出さなければならない結論だとしても、今はまだ必要ない。機密保持により須臾に対する監視は任期満了後も三年ほど続く。
「姉ちゃんに渡したら、私じゃなく須臾に渡してって。ってか二人、そういう関係じゃないんですか?」
 しつこく聞き出そうとする綿には間違いなくあの母親の血が入っている。

「欲しがるのは綿くらいだろう」
「しかもあの部屋まで貸すって」
「まだ契約は残ってるからちょうどいいんだよ。高校卒業するまでは好きに使えばいい。時々青だって戻りたくなるだろう」
「なるかなー。ならない気がする。あそこは透き通った人間には住みにくいよ」
 悟ったような青の口調がおかしくて、須臾は小さく笑った。
「あーあ、せっかくの初ロフトなのに、星があんまり見えないね」
「月が明るすぎる」
「こんな日に満月とか、もうなんなの」
 月明かりに照らされた青は不細工にも唇を尖らせている。
「不細工」
「なんなの、いきなり悪口とか」
 一層口を尖らせた青を須臾は軽く声を上げて笑う。
「須臾って、笑うようになったよね」
「それは青もだろ。最初の頃は悲愴感背負ってたくせに」
「須臾だって、死んだ魚みたいな目だったくせに」
「あの頃は死んでたんだよ」
「私だってあの頃は悲愴感で打ち拉がれてたよ」
 不意に青の気配が澄んだ。
「あの日、助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「あのさ、手、繋いで寝てもいい?」
「そこからか」
「そこからだよ」
 青が照れるせいで須臾もまた照れた。いい年して、と思う一方で、青と一緒に二十代をやり直すのも悪くない、とも思う。
 互いに手を伸ばし、そっと結び合う。
「須臾の手ってなんか大きいししっかりしてるよね」
「青の手は華奢だな」
 ふと思い付いたように青は言った。
「ここって、お墓もないんだね」
「ないな。もともと水葬だったんだよ、割と最近までは。水葬が禁止されてからは海に散骨する」
「へーえ。海に還るのか」
 唐突に須臾の脳裡に記憶の奥底から一つの言葉が浮かび上がってきた。
「あおにとける」
 ん? と青が柔らかな相槌を打つ。
 潮が満ち騒ぐ望月の夜は、あおにとけた御霊が水面に揺れる──夜伽の席で語られる水のように静かで深い声。実際にはこの地独特の言い回しで語られる鎮魂歌のようなもの。
「水葬することをここでは昔、あおにとけるとか、あおにとかすとか、確かそう言ったんだ」
「へー、海の青かな。空の青でもありそうだね」
 祖父母はずっと願っていた。死んだら焼かずに海に還してほしいと。私たちは海に還るために生きているのだから、と。
「じゃあさ、私たちも海に還ろう」
 悪戯を思い付いたように青が声を弾ませた。

 須臾が願っても叶わないと思っていたことを、青はあっさり叶えようとする。
 須臾の目蓋の裡には、果てのない真っ青な空と海が色鮮やかに蘇る。

「青、先に死ぬな」
 須臾は繋がった手に力を込めた。
「んー、でもさ、私きっと須臾がいないと生きていけないから、どっちかがもう助からないってなったら、一緒にあおにとけよう。きっと一緒ならなんとかなるよ」
 青がぎゅっと手を握り返してきた。




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