第12話

文字数 6,005文字

 非常口から招き入れられた彼らは、そこから青の部屋の前まで架けられた木材と波板でできた簡易雨よけを見上げ、掃き出し窓の前に置かれている沓脱ぎを眺め、窓の脇に立つ俯く青を視界に入れることなく、硬い表情のまま「おじゃまします」と冬晴れの冷気とともに青の部屋に入ってきた。
 須臾が慌てて用意した来客用のスリッパは、ここに引っ越してきたばかりの頃、自分用にと何足かまとめ買いしたものだ。結局はクロッグサンダルの方が馴染みがよく、何かあったときのためにと未使用分を無造作に放り込んでいたためか、少し型崩れしていた。
 親子はそっくりな仕草で本棚とワードローブの上部に空いた天井までの二十センチほどの隙間を見上げ、青のベッドを眺め、青のデスクを一瞥し、須臾に促されてダイニングに移動した。
 彼らの後から俯いたままの青がついてくる。
 ダイニングテーブルに親子と須臾は向かい合って座った。青は席に着くことなく一歩離れた位置に立ち尽くしている。
「ほら、座って」
 見かねた須臾が隣の椅子を軽く引いてやれば、青はのろのろと須臾の隣席に着いた。
 親子は青ではなく青が引いた椅子に注目していた。

「改めまして、青の母の、丹由、祐里子と青の弟の綿です」
 母親の声に合わせ、弟が軽く会釈した。青は自分の名前が出た途端、小さく肩を揺らした。母親が「丹由」と言う際に言い淀んだことが須臾は気になった。また、青の母、青の弟と紹介したことに好意を持った。
「ご連絡させていただきました、榛葉 須臾です」
 須臾はお茶を出すよりも先に話を聞いた方がいいと判断した。青の母親も弟も一刻も早く真偽を確かめたいだろう。
「娘がお世話になっております」
 祐里子が丁寧に頭を下げた。隣で綿も同じように頭を下げる。青は母親が「娘」と語気を強めたのを受けて小さく身動いだ。
 そして祐里子は視線を須臾の隣に向け、情けないとでも言いたげに顔を歪め、緊張からなのか少し上擦った声を上げた。
「あなたは、榛葉さんは、本当に青が見えているのですか?」
「見えています」
 須臾は事実を淡々と答えた。青は何も言わない。
「どうして見えるんですか?」
 声変わりする前の高めの声が訊いてきた。
「さあ。初めから見えていたのでなんとも」
「僕たちは家族なのに見えません」
 弟の「家族」の一言に、青が再びびくっと肩を震わせた。
「家族……は、あまり関係ないのではないでしょうか」
 須臾は自分の色覚異常が青の可視化に関係しているのではないかと考えているが、そう断定できるだけの根拠はない。
 しかも、色覚異常者は意外と多い。にもかかわらず、青は須臾以外に自分の存在を認識されたことはないと言う。
「僕とおねえちゃんは血が繋がっていませんが家族です!」
 青の弟が憤懣遣る方ないを体現したかのように声を荒げた。きんきんとした残響が部屋を満たす。母親にたしなめられて、綿は立ち上がりかけていた躰を椅子に戻した。
「ああ、そういう意味ではなく──」
「綿、知ってたの?」
 須臾の声を遮った青は目を見開いて弟を凝視していた。
「彼女が、知ってたの、と言っています」
「声も聞こえるんですか?」
 弟は須臾が通訳した青の疑問に答えることなく須臾から視線を外さない。その様子は掴みかからんばかりで、ダイニングの上に上体をのりだしている。
 須臾がはっきり頷くと、綿は身を投げ出すように椅子の背にもたれた。綿の、なんでお前が、と言わんばかりのふて腐れた態度を須臾は自身の弟に重ねた。
「私は青の、いわゆるステップマザーです。世間一般的には色々言われるような関係ではありますが、私は青を自分の娘だと思っています」
 ステップマザーのくだりで言い淀みながらも、祐里子は挑むような目で須臾を睨め付ける。そして、須臾の隣に視線を動かし、しばらく視線を彷徨わせたのち、諦めたようにどこか一点を見つめて言った。
「青はあの夜、私とおとうさんとの会話を聞いたのね」
 がたん、と須臾の隣の椅子が鳴った。青が席を立ち、自室に向かった。須臾の視線を追うように、母親と弟も青の自室の方に目を向ける。
「もしかしておねえちゃん、逃げ出した?」
「いや、何かを取りに行ったんじゃないかな。たぶんメモ用紙だ」
「おねえちゃん、字汚いでしょ」
 綿の態度はわかりやすく挑発的だ。隣の祐里子が小声でたしなめている。
「まあ、あまり整ってはいないかな」
 青の字は女の子らしいを通り越した丸文字だった。読めなくはないが、社会に出たら恥をかくだろう。
「榛葉さんは字きれいだね」
 言外に自分もあの手紙を読んだのだと主張してくる綿を見て、須臾はほほ笑ましく思った。弟として須臾に負けたくないのだろう。弟とはこういうもの、という懐かしい認識が須臾の中に浮かび上がる。
「母親が書道の有段者だったんだ」
 須臾がそう言うと、祐里子はショックを受けたように目を見開いた。
「私の字が汚いから、子供たちの字も……」
 須臾が確認するように綿を見れば、彼は苦笑いしながら頷いた。根が素直なところは青に似ている。
「社会に出たら恥をかくのは親ではなく自分だ。自覚があるなら今のうちに練習すればいい。半年もすればある程度整う」
 余計なことだと思いつつも須臾が口にすると、綿に言ったはずが彼以上に祐里子が深く頷いていた。
 祐里子も綿も青と同じで感情をストレートに表す。実際に二人が青のことを心配しているのは言葉にしなくとも伝わってくる。おまけに感情の表し方や仕草が二人とも青とよく似ていた。

 青がのろのろと戻って来た。手にはノートとペンがある。そして、思い詰めた様子でノートを母親の前に広げた。そこには「私のおとうさんってほんとーはだれ?」と今にも転がり出しそうな丸っこい字で書かれていた。
 祐里子は懐かしむようにその字を眺め、青を探すように視線を彷徨わせた。
「私も知らないの」
 祐里子が答えると、青はノートを自分の元に引き寄せ、何かを書き付けた。
 でも、おとーさんはしってるんでしょ?
「どうかしら。青のママの実家経由で請求するつもりだったんじゃないの?」祐里子は突き放した言い方をした。「あのね青、おかあさんね、おとうさんとは離婚したの。どうしても許せなくて」
 青の目が見開かれた。
「ですので現在は東埜姓に戻っております。東と林に土でとうのと読みます」
 祐里子が須臾を見た。だから自己紹介のときに言い淀んだのか、と思いながら須臾は頷く。隣で青が「東埜」と呟いている。
「おかあさんね、今がんばって青と綿の親権取ろうとしているところ。どれだけ時間がかかっても、二人の親権は私が取るから」
 青の方を向いた祐里子がぐっと目に力を入れてきっぱり言った。その視線が実際の青の位置からは少しずれていて、須臾は青の心情を思うとやるせなかった。
「でも、私って行方不明になってるんじゃないの?」
 青の言葉を須臾が伝える。
「それも、今交渉中。たぶん応じてくれると思う」
「どうして? だって……」
 青の声は聞こえていないはずなのに、母親はまるで聞こえているかのようなタイミングで話を続けた。
「家を売っても住宅ローンとの相殺でたいした金額にはならなくて、結局お祖母ちゃんに頭を下げてお金を借りたのよ。だったら初めからそうすればいいのにね。娘の人生壊そうとするなんて、人として最低だわ」
 憤りを隠さない祐里子の声に、見開かれた青の目に涙が滲んだ。
 話が見えない須臾に綿が説明してくれたことによると、父親の横領が発覚し、公にしない代わりにその返済を迫られた。そこで父親は青の本当の父親に養育費を請求しようとしていたらしい。ところが、肝心の青が見えなくなり、今度は死んだことにして青にかけられていた保険金を受け取ろうと考えた。
「綿は全部知ってるの?」
 須臾が青の言葉を伝えると、綿はこくりと頷いた。
「おかあさんが全部話してくれた。僕もあの学校に不正入学してたから……」弟が悔しそうに言った。「僕は少しだけみんなより賢いみたいだけど、でも、あの学校にはもっと賢いヤツらしかいなくて、僕は落ちこぼれで、毎日塾に通って必死に勉強しても、遊んでばっかいるあいつらにはどうしても敵わなくて、単に頭の作りが違うんだってことに気付かなかった」
 小学生らしからぬ疲れた声と表情の綿を、青も祐里子も気遣わしげに見つめている。
「僕にはおねえちゃんがいたから。ただ授業中の教室にいるだけで勉強してるって勘違いして、全く努力しないくせに開き直って毎日だらだら生きているおねえちゃんがいたから、なんかもう、脳天気に生きているおねえちゃん見てると頭にもくるんだけど、それ以上に必死に勉強している自分が馬鹿馬鹿しくなって、何度もおとうさんに公立に転校したいって言ってたんだけど……」
「無理矢理ねじ込んだ入学でしたから、彼は引くに引けなかったようです」
 綿の話を祐里子が継いだ。冷え冷えとした声に怒りが滲んでいる。
「なんか、ものすごい悪口が聞こえたんだけど」
「事実だろ」
 口を尖らせた青の呟きに須臾が小さく答える。
「どうせ今おねえちゃん、悪口が聞こえるって不細工な顔で言ったんでしょ」
 弟が的確な指摘をした。青に睨まれながら須臾はゆるく頷く。
 そこから姉弟のこれまでが垣間見えて、須臾は安堵した。もしかしたら青は家族に馴染めていなかったのではないかとの疑いも捨てきれなかったのだ。

 会話の途切れを見計らったかのように、青が小さな玉を綿に向けて転がした。
 ダイニングテーブルの上を自分に向かって転がってくるガラス玉を見た綿は、目を見開いて慌てた仕草でそれを掴み取り、まじまじと眺めた。
「僕のスペースジェムだ。本当にお姉ちゃんだ」
 綿は自分の姉がここにいることを信じ切れなかったのかもしれない。見えていないということはそういうことなのだと、改めて須臾は理解した。
「これ! 世界に一つしかないの!」
 綿が興奮したように須臾に訴えてくる。見せてくれたガラス玉には小さな宇宙が閉じ込められていた。
「一つ一つ手作りで、はっきり言ってものすごく高くて、僕はお小遣いのほとんどを費やして……」
 綿は息を吹き返したかのように活き活きとスペースジェムのことを須臾に話して聞かせる。小さな工房で作られていることも、今は三年待ちだということも、たまたま目に入ったサイトで紹介されているのを見てどうしても欲しくなったことも、その頃は半年待ちで手に入ったことも、綿は祐里子に止められるまでそれはもう熱心に語った。
「あの日慌てて出て行ったから、きっとどこかで落としたんだって諦めてたのに……まさかおねえちゃんがパクってたとは」
「パクってないよ! たまたまうっかりあの日返し忘れただけで」
「でも、これのおかげでおねえちゃんがここにちゃんといるって証明された」
 青の言い訳を須臾が通訳せずとも、弟にはわかるのだろう。そして、綿は心底嬉しそうにそれを青の前に置いた。こつん、と小気味いい音が響く。
「貸しといてあげる。おねえちゃんの証明だから」
「私からはこれを。私の成人祝いに両親がくれたものなの。これ自体は世界に一つじゃないし、ずいぶん古いものだけど、私の名前が刻印されているから、もしかしたら世界に一つかもしれないでしょ」
 祐里子が差し出したのはベージュのボールペンだった。高級文具として知られるブランドマークが入っている。使い込まれた形跡が常に持ち歩いてきたことを窺わせる。
「それ、おかあさんが大事にしていたボールペン」
 呟く青に、須臾は手を出すよう促す。
「もう少し手を上に。そこで離して大丈夫です」
 須臾の誘導によって祐里子の手から青の手に直接ボールペンが渡った。ぽとんと両の手のひらに落とされたボールペンを青は大事そうに握り込んだ。

 話が一段落したとき、青が唐突に言った。
「ねえ、それ貰って食べようよ」
「はあ? 自分で言え」
「だって私の声聞こえないもん」
「書けばいいだろう」
 青がしきりに気にしているのは、おそらく祐里子が手土産として持参したであろうラスクで有名な洋菓子店の紙袋だ。
「えー! だってさすがに図々しくない?」
「その図々しいことを俺に言わせるな」
 小声のやりとりは須臾の声しか聞こえていないにもかかわらず、綿は気付いた。
「おかあさん、おねえちゃんがラスク食べたいって」
「ああ、すっかり忘れてたわ。すみません、娘がお世話になっております」
 慌てたように立ち上がり、紙袋から大きな箱を出した祐里子は、再度深々と頭を下げた。
「いえいえ、お気遣いいただき誠に申し訳ございません」
 青の不作法を家族の前で咎めるわけにもいかず、須臾は青を睨むしかない。
「こちらこそ、躾の行き届かない娘で本当に申し訳ございません」
 心底申し訳なさそうに謝られては、須臾は無理矢理にでも溜飲を下げるほかない。
 肝心の青は嬉々として包装紙を剥いている。

 大量のラスクを前に目を輝かしている青を見て、須臾がお茶の準備をしようと立ち上がれば、察した祐里子が「青、手伝いなさい」と言い慣れた様子で命令する。「へーい」と答える青。
「今、青はへーいと言いませんでしたか?」
「言いましたね」
「なんで告げ口するの!」
「青、おかあさんいつも言ってるでしょ。せめて余所様ではお行儀よくして」
 再び、へーい、と答えようとした青は慌てたように「はい」と言い直した。神妙に見せようとしているのが丸わかりだ。
「素直にハイと答えていますが、全く気にした様子はありませんよね」
「そのようです」
「だからなんで告げ口するの! あっ、なんで綿はつまみ食いしてるの!」
「おねえちゃん、ぼろぼろこぼさないように先に割ってから食べなよ」
 賑やかだった。母親といい、弟といい、青のことをよくわかっている。
 懐かしさすら覚える家族団らんの様子に須臾は目を細めた。

 親子間の遠慮のない様子を見る限り、須臾は青が一体何を不安がっていたのかわからなくなる。
 とはいえ実際のところ、須臾に青の考えていることがわかることなどないのだ。それは青に限ったことではなく、親子であろうが姉弟であろうが夫婦であろうが親友であろうが、自分以外の誰かを正しく理解することはできない。時に自分のことすら理解できなくなるのだから、自我と直結することのない他我の思考などわかるはずもない。
 だから、楽しそうにはしゃぎながらも目には悲しみを宿している青の気持ちを、須臾は想像することはできても正しく理解することはできない。




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