第3話

文字数 5,873文字

 今の部署に異動になったとき、須臾は統合失調症についてざっと調べている。専門書は知識が増えはするものの感覚的に理解するには至らず、それについて書かれたノンフィクションをいくつか手に取りその代わりとした。本人の意思とは関係なく幻覚に振り回される話ばかりが目に付いたせいか、幻覚とは得てして非常識なものだという認識が須臾の頭の隅に残っている。

 ところが、だ。
 須臾の前に現れた幻覚はどう考えても常識的だ。しかも幻想的でもなければ突飛なものでもなく、あくまでも日常風景の中に違和感なくとけ込んでいる。そこに差異を感じろというのが無理なほどに。
 あの日なんの気なしに防犯ミラーを見なければ、須臾は今でも幻覚ではなく、何かしらの理由があって自分で会計を行うことができない女子高生だと思っていただろう。
 もしやあれは幻覚ではなく、第二の人格なのだろうか。ふたつめの人格が自分から完全に乖離して目の前に現れることはあるのだろうか。
 幻視に幻聴、おまけに幻臭まである。あの日幻覚が使っていたであろう玄関脇の収納ベンチには、あの年頃の女の子たちに共通する合成香料がはっきりと残っていた。

 通勤電車に揺られながら須臾は取り留めもなく考える。

 あの日、「今日一晩だけ」と言った幻覚は、本当にその一晩だけでまた公園のベンチに戻った。以降はそれまでと変わらず、雨が降る日はコンビニや周囲のマンションのエントランスの隅に座り込んで雨宿りをしていることもある。
 それでいてそれまで通り須臾の会計に紛れ込む。やはりそれまでと変わらない「お願いします」と「ありがとう」の言葉とともに。
 ちゃんと眠れているのか、と幻覚の心配をしてしまう自分を嘲りながらも、須臾は心に嫌な引っかかりを覚えていた。一晩だけと言いつつそのまま居座る気ではないかと内心では身構えていたくせに、翌朝その姿が見当たらないことに拍子抜けした挙げ句、日に日に幻覚の顔色が悪くなっているようで気になって仕方がない。会計時の作り笑いも今はただ口元が引き攣っているだけにしか見えない。
 あの幻覚がもしもう一人の自分、いわゆるドッペルゲンガーのようなものだとしたら──そう考えると自分の顔色まで悪くなったかに思えて、須臾はどうにも気が滅入った。

 ふと、各駅停車とはいえ心なしかいつもより車内が空いていることに気付いた。さり気なく辺りを見渡し、学生の少なさに「夏休み」という忘れかけていた言葉が浮かんだ。
 いつの間にか梅雨も明け、冷房の効いた車窓から眺める日射しの強さに目を細める。
 あの幻覚は夏休みであっても制服を着たままだ。最寄り駅でよく見かける公立高校の制服──。
 と、そこまで考えて須臾は溜め息を吐きたくなった。このところ気付くと幻覚のことを考えている。日常の些細な出来事の先にあの幻覚の女子高生を結びつけてしまう。

 まずいな、と思う。症状が確実にエスカレートしている。それでいて、特殊業務ゆえ月に二度の面談が義務付けられている精神科医は須臾の異常を見抜かない。幻覚についてを口にしないせいもあるにせよ、医師の目を通した須臾は正常に見えるらしい。
 先日行われた面談でも、医師は須臾を一目見た瞬間、それまで同様「特に変わりはなさそうですね」と嫌味ない笑顔でにこやかに断言した。先制されてしまえば口を噤むしかない。それが狙いか、と訝しんだところで、他愛ない雑談をしながらもしっかり観察されていることに気付くのだから、須臾はプロの目にも正常に見えるのだろう。
 確かに須臾の幻覚は日常を脅かすものではない。どちらかといえば幻覚とはいえ自立しているように見える。派生元の須臾に依存していない。須臾を振り回すこともない。

 コユミの最後の耳打ちが蘇る。
 多少の異変はこの場合正常と考えていい。こんな仕事をしていて正常でいられるわけがないんだ。それでも、決して満了日までは異常と判断されるな。

 須臾は公務員だ。勤務地は東京都千代田区霞が関。
 出勤者が引っ切りなしに通過するせいでビルの入り口の自動ドアは完全に閉まる前に再び左右に分かれていく。セキュリティゲートを通過する。途端に須臾の思考が現実に焦点を合わせた。きみはただでさえ……。コユミの声が遠ざかっていく。

 いくつものセキュリティーを通過して、ようやく須臾は自分に与えられた一室に到着する。
 任期は十一年。須臾の場合は二十二歳から三十三歳まで。コユミの任期はおそらく四十四から五十五までだったのだろう。任期がぞろ目の誕生日当日からぞろ目の誕生日前日までと決まっているのは験担ぎなのだと、聞きもしない説明をしたコユミは珍しく嘲笑を浮かべていた。
 外部とは繋がらないパソコンの電源を入れることで須臾の出勤が上に伝わった。



「殺してやる!」
 この職務に就いてから、毎度毎度人は変われど似たような罵りを浴びる。「人でなし」や「血も涙もない」もよく聞くフレーズだ。彼らは散々に罵倒し、罵倒し疲れると今度は情に訴えてくる。
 須臾はただ淡々と業務を履行する。
 事前に勧告を行っているにもかかわらず、高を括っていたのだろう。こうも毎回自分のことを棚に上げて罵詈雑言を捲し立てられると、こちらの方が精神を病んでしまいそうだ。
 因果応報とはよく言ったもので、悪いことをしているという意識がある者ほど、悪因悪果に終わる。ただ、渦中にいるとそれに気付けなくなるのだろう。かえって罪悪感の薄い者ほどあっさりと清算に応じ、清算自体を己とは関係ないところで済ませてしまうのだから始末に負えない。
 須臾はもとより、清算さえされれば、というのが上の判断だ。

黒:[No.193764 履行]
 個室に戻り同僚たちとしか繋がらないチャットに報告を上げると、次々と[お疲れ]の文字がポップアップしてくる。須臾の同僚は十一人いる。実際に顔を合わせたことはないし、互いの個室が中央合同庁舎のどこにあるかも知らない。文字だけのやりとりで互いの業務状況を報告し合い、アドバイスをもらったり、新たな情報を得たりする。個人が特定できるようなやりとりはない。
 さらに彼らに指示を出す上の人間が普段どこにいるのかも須臾は知らない。
黒:[今回また「殺してやる」でした]
 須臾の文字は黒だ。コユミが使っていた色をそのまま引き継いでいる。白以外の十一色分けされた文字はそのまま何代も引き継がれているようで、個人の認識もその色を使っている。
紫:[新鮮味がないね。こないだの橙の「痔になれ」は地味によかった]
黄:[清算方法は?]
黒:[資産売却でしょうね]
橙:[なんて面白味のない]
黄:[保険金精算よりはマシ]
緑:[あれ後味最悪]
橙:[まね]
紫:[こっちも変な罪悪感を抱かずに済む]
橙:[娘の臓器売ろうとする以上のイカレタ清算方法はなかなか出ないな]
緑:[あれなー胸糞だよなー]
紫:[親のやらかし清算に娘の臓器売るって終わってるな]
橙:[ザ☆毒親]
黄:[それって本当に実行されたの?]
紫:[直前で娘が逃げたって話]
緑:[まーそうだろうなー]
橙:[あれ担当誰だっけ?]
黄:[茶じゃなかった?]
緑:[うわー災難]
 カラフルな泡のようなメッセージはしばらく湧き続けた。それを横目に須臾は新たに送られてきた資料に目を通す。



 連日に渡り酷暑が叫ばれる中、幻覚はどう見ても限界だった。
 あの日感じた警告と焦燥が再び胸の奥をざりざりと擦る。

 須臾がコンビニに近付くと、どこかぼんやりしながらコンビニのコピー機にもたれている女子高生の姿が目に入った。出会った頃よりも確実に荒んでいる。髪はぱさつき、衣服に汚れが浮いている。体臭などが気にならないのはどこかで躰を洗っているのか、そもそも幻覚には体臭がないのか。だとしたら合成香料の説明がつかない。

 あの女子高生は須臾にしか見えていないというだけで間違いなく自立した存在だ。

 よくよく観察していると、誰もがあの女子高生を無意識に避けている。
 たまたま手を伸ばした先に彼女がいた場合、伸ばした手は不自然に彼女を避けている。肩を痛めるだろうと思うほどの角度で腕を曲げているにもかかわらず、本人には自覚がないのか平然としている。そして暫くすると遅れて痛みや違和感を覚えるのか、首を傾げながらしきりに肩を揉んでいる。間近で擦れ違う場合も躰が当たるのを避けるように誰もが不自然に歪んだ姿勢になる。

 そして数日前、須臾は思わぬものを目撃した。

 以前から時々見かける点字ブロックに添って歩く白杖を手にした男性がその女子高生と擦れ違うとき、「あっ、すみません」とくぐもった声を上げ、軽く会釈したのだ。「どうかした?」と不思議そうに首を傾げる介助者に「誰かとぶつかりそうな気がしたんだけど」と説明していた。
 それに対し、女子高生は何も気付かないまま歩み去った。

 須臾以外にも幻覚の存在を感知する人がいる。須臾にとって大きな発見だった。
 それは彼女が確かな質量を持ってそこに存在しているということに他ならない。どうしてだか誰も触れることができないだけで。
 それは、幻覚と呼べるものなのだろうか。

 警告と焦燥が過去の出来事と交差し、日に日に強まっていく。
 手遅れになる前に──。

 須臾が扉を開けて店内に入ると、彼女は小さく「あっ」と声を上げ、気怠げに寄りかかっていたコピー機から離れ、ふらふらと歩き出した。この暑さで食欲もないのだろう、ここ数日はゼリー飲料が須臾の会計に紛れ込んでいる。
 制服のブレザーをリュックに押し込んでいるのか、閉まり切らないファスナーから袖がはみ出ている。長袖のブラウスの袖をまくり、首元はボタンを二つも開け、なんとか涼を取ろうとしている様子が窺える。この暑さの中、公園のベンチにはいられずにコンビニに逃げ込んだのだろうが、狭い店内に空白はなく、疲れたようにしゃがみ込む彼女の側を誰かが通るたびに、慌てたように立ち上がっては一層端に寄るのを何度か目撃している。ゆっくり休むこともままならない様子が手に取るようにわかった。
 そういえば、彼女の制服は冬服のままだ。そんなどうでもいいことが頭に浮かび、浮かんだと同時に須臾は腹を決めた。



 ────◇────



「あつーぅ……だるーぅ……ねむーぅ」
 このところの青の口からはそのスリーワードしか出てこない。

 家を追い出されるとき、青が咄嗟にリュックに詰め込んだ着替えは、落ち着いて確認してみれば大半が下着だった。パンツとブラが十枚ずつ。新しいのも古いのも、かわいいのもそうでもないのも、引き出しに入っていた全ての下着がリュックから出てきた。あとは学校指定のブラウス二枚とソックスが二組。
 いきなりだったうえにどこの誰とも知れない他人に触られたくなかったとはいえ、もう少しなんとかならなかったのかと後悔しても遅い。お気に入りだったワンピも、着心地の好い部屋着も、ちょっと背伸びして買った大人っぽいブーツも、おかあさんがこっそり買ってくれたブランドバッグも、大切なものは何もかも置いてきてしまった。きっと綿なら大切で必要な物を満遍なくリュックに詰め込んだだろう。

 リュックの底に入れっぱなしだったお泊まりセットはすでに底をつき、こっそり忍び込んでいる市民プールのシャワー室に誰かが忘れていったシャンプーを今は使っている。コンディショナーとボディソープの忘れ物は今のところない。シャワーが浴びられるだけマシだと考えるしかない。
 ブラウスの襟汚れが落ちなくなってきた。洗剤を使わず擦り洗いしているだけだから仕方がないのかもしれない。透き通っているくせに垢じみてくるとはどういうことなのか。綿に訊きたい。

 イートインスペースのあるコンビニだったらよかったのに。
 何度も思ったことを今日もまた思う。あの人がこのコンビニしか利用しないから仕方がない。あの人ほど青のことを気にしない人は他に見付からない。
 着替えが制服のブラウスしかなく、しかも長袖だから暑くて仕方がない。誰にも見えないとはいえ、さすがに下着姿でうろうろする気になるわけもなく、着替えを買いたくてもうまくいかない。もういっそ万引きした方が楽なのに、と八つ当たり気味に思ったりもする。そのたびに綿の顔が浮かび、青は不毛な着替え購入チャレンジを続けている。今のところ惨敗だ。

 結局あの人に頼るしかないのか。
 青は諦めとともにコンビニに売っているTシャツを眺める。メンズサイズのMとLしかない。しかも真っ白。どう見ても下着っぽい。それなのに一枚七百円もする。今ならセール価格でもっと安く手に入るのに、と思わずにはいられない。七百円も出すならもう少しマシな服がいい。
 あーあ、と口内で呟きながら腰をかがめてMサイズを手に取り、ゆっくり姿勢を戻す。このところ立ち眩みがひどい。耳の後ろの血がすーっと下がっていくのをやたらと感じる。やけに頭が重くて痛い。顔にはニキビがぽつぽつ出て、大きな口内炎が泣けるほど痛い。さすがに睡眠と栄養が足りていないことを自覚する。

 あの人の家に泊めてもらった日のことを思い出す。
 家を追い出されてから初めてちゃんと眠れた。「家」という空間がこんなにも安心できるということに青はあの日初めて気付いた。
 学校の保健室や空き教室意外に、市民ホールのロビーや病院のロビー、公園のベンチ以外にも横になれる場所を探して実際に泊まってみたものの、どこも夜は不気味で眠ることなんてできなかった。
 それまで当たり前に寝ていたベッドよりもずっと硬く狭いベンチだったのに、寝返りを打つたびに落ちそうになったり、寝ぼけながら何度も壁におでこをぶつけていたのに、目覚めは自分のベッドで寝ていたことを思い出すほど爽快で、あまりに爽快だったせいで二度と他の場所で眠れなくなりそうで怖くなって逃げ出した。
 そして、それまで以上に一人で過ごす夜が怖くなった。



 その人はその日、これまでとは違う行動に出た。
 弁当とカップワンタンをそれぞれ二つとミネラルウォーターを何本も買い、ワンタンにポットのお湯を注ぐことなくコンビニを出て行った。青が恐る恐る差し出し購入したTシャツもろとも。




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