第10話

文字数 6,198文字

「大丈夫か?」
「大丈夫に見える?」
 ゾンビ化した青の周囲に支柱が立てられ、須臾は手慣れた様子で日射しを遮るタープを張っている。
 船に乗ったことのない青にとっては、たいして揺れないといわれているフェリーも最悪だったが、そのあとの小型船に追い打ちをかけられた。あれはどう考えても絶叫マシンだ。なにせ座っているのにおしりが浮く。
「今日は少し波が高かった」
「あれで少し?」
 恨みがましく見上げると、須臾は笑いを堪えていた。
「なにさ」
「口の端にゲロカスついてるぞ」
 もう少し優しくしてほしい。青は呻くように口の中で文句を言いながら、のろのろとリュックからウェットティッシュを出して口元を拭う。口の中がこのうえなく不快だった。拭ったウェットティッシュをジップ付きの袋に入れる。
 ゴミは全て持ち帰る。最初に言われたことだ。

 こう気分が悪いとせっかくの絶景も霞んで見える。
 海の青と空の青しかない景色。そこに光を跳ね返す銀色の波と真っ白な雲が加わり、島影が近付くにつれ、木々の緑と岩や木の幹の茶色が混ざる。
 あと一時間もしないうちに日が暮れ始めるらしい。所々咲いている白やピンクの花はなんだろう。
 青は須臾が広げてくれた寝袋の上に横になる。
 確かにここに冬はなかった。十二月末だというのに春のような麗らかな気温は長時間の船旅でがちがちに凝り固まった青の緊張をほぐしてくれる。
「どこで汲んできたの?」
 いつの間にかいなくなっていた須臾が折りたたみ式のポリタンクに水を汲んできた。
「少し先に湧き水がある」
「へー。温泉とか湧いてないの?」
「温泉はないが滝はある、行くか?」
「え、滝があるの?」
「ある」
 驚く青に平然と答える須臾。早速立ち上がろうとして、青は立ち眩みと嘔吐きのコンボを食らった。
「しばらく横になってろ」
「なんかまだ揺れてる気がする」
 どうして須臾が平気なのか青にはわからない。須臾は「慣れ」と言うが、青は慣れる気がしない。
「ほら、口ゆすげ。飲むなよ」
 差し出された琺瑯のマグカップを受け取る。
「飲めないの?」
「俺は飲めるけど、初めて飲むなら腹が下るかもしれない」
 青が持ってきたミネラルウォータはすでに何度も口をゆすいで空っぽだ。須臾が持ってきたミネラルウォーターも青が使って空っぽになっている。
「湯冷まし作っておくから」
「んー、ありがと」
 うがいをしながら青はどこに吐き出せばいいのかを自分の口を指差しながら須臾に訴えた。
「その辺に吐いとけ」
 四つん這いでよろよろと異動し、タープの影から外れた場所に吐き出す。口の中がすっきりすると気持ち悪さも少し和らいだ。
「ってか、ここまで遠いね」
 フェリーで二十四時間、そこから小型船で五時間。
「そうだな」
「あのでっかい島に飛行機来ないの?」
「滑走路がない」
「作ればいいのに」
 飛行機とフェリーでは運べる人数が違うのかもしれない。須臾は答えることなくいつの間にか張ったテントの中でウェットスーツに着替えている。これから夕食の魚を捕ってくるらしい。なんだそのサバイバル、と思った青に対し、須臾はなんの気負いもなく当然の顔をする。彼にとってはサバイバルではなく日常なのかと、青はその意外性に驚く。

 普段通勤している須臾はどこにでもいそうな特徴のない会社員だ。
 それが当たり前に船を運転し、当たり前にウェットスーツを着て魚を捕ってくると言う。慣れた手付きで火をおこし、すでに湯冷ましを作り、ついでに麦茶まで煮出している。どこからか採ってきたジャガイモをざっと洗ってアルミホイルに包んで火の中に入れ、伸縮するモリを手に海に向かっていった。
 手際がよすぎて感心する。ジャガイモを採ってくるときに、まだ少し早いかも、と言いながら、赤く熟れた小振りのトマトや、やたらと大きいグレープフルーツみたいな黄色い実も採ってきた。

 海に突き出た船着き場のコンクリートの塊から少し歩き、海が見晴らせる拓けた場所に青はいる。
 タープやテントが張られた場所は土が踏み固められていて、葉の細く短い雑草が所々に生えている。周りには四十センチほどに切られた丸太が積み上げられていて、その一部は細く割られている。手作りらしい石積みのかまどは使い込まれていて、須臾がこれまで何度もここに来ていたことを物語る。
「本当に誰もいない」
 聞こえてくるのは波の音と鳥の鳴き声だけで、それ以外の音は一切聞こえない。だからか、須臾が少し曲がりくねった道を上ってくる足音がはっきりと聞こえてきた。
 銀色を跳ね返していた海はいつの間にかその色を金に変え、瞬く間に赤く染まってきた。左手に日が沈もうとしているから、今青は北を向いているのだろう。
 須臾が指に引っ掛けているのは、青が見たことのない赤くぎょろっとした顔の魚だった。
「なんて魚?」
「アカバ」
「あかば」復唱する青に、「ああ、アカハタか」と須臾は言い直した。
「ん? ここでの呼び方はアカバだけど全国的にはアカハタってこと?」
 荷物の中から薄いプラスチックのまな板を出しながら須臾が頷いた。丸太を台にしたまな板の上に体長四十センチほどの赤い魚がのる。こう言ってはなんだが正面から見ると不細工な魚だ。
「これおいしいの?」
 須臾が小馬鹿にするように鼻を鳴らした。どうやらおいしいらしい。小馬鹿にされてちょっとイラッとした青はどれどれとその手元を上から覗き込む。
「食欲は?」
「もうゲロ吐いてるときからぺこぺこ」
 嫌そうな顔をする須臾に今度は青がふんっと鼻を鳴らした。
 なにせ丸一日以上水以外何も口にしていないのだ。フェリーが到着したところで須臾が買ってくれたプリンとゼリーを口にしたものの、消化する前に戻している。

 テントの影でポリタンクの水を頭から被り、潮を落として着替えた須臾がカンテラを点けた。タープの中に吊された虫除けの網には早速虫が数匹留まっている。
 青の目の前で鮮やかに魚が捌かれていく。須臾が使っているのは万能ナイフで、それでよく捌けるものだと感心しているうちに、彼はいとも簡単に三枚に下ろし、その一枚を刺身にした。
 醤油ではなく塩で食べる。本島で作られているという塩をふりかけ、箸ではなく指で摘まんで口に運ぶ。
 あまりにおいしくてびっくりした。
 脂がのっていて歯ごたえもあり、塩で食べるせいか甘味まで感じる。しかも獲れたてだからか臭みがない。
「うまいだろ」
「びっくりした。こんなの食べたことない」
「刺身は案外消化にいいんだ。それでもよく噛んで食べろよ」
 須臾は機嫌よくもう一枚の身を鉄櫛に刺し、かまどの火で軽く炙る。油がじゅっと滴り、皮がちりちりと縮んでいく。
 青はその間にトマトを洗う。ひとつ摘まんでかぶりつけば甘さが滴る。いつの間にか気持ち悪さは消えていた。
「なんか、こうやってかぶりついて食べると生かされてるって気がする」
 青が思ったそのままを口にすると、須臾は目を細めて笑った。

 携帯鍋で粗汁も作る。持ってきた鰹節とネギで作った味噌玉を加えると、それはもういい香りが辺りに漂う。アルミホイルに包んで火に入れていたジャガイモはほくほくで、炙ったアカハタはとろんと香ばしく、トマトはフルーツかと紛うほど甘い。
 とてつもなく贅沢な夕食だった。

「どうする? 三十分ほど歩くが、水浴びするか?」
「する。なんか全身ゲロ臭い」
 薄明かりに照らされる須臾があからさまに顔を歪めた。
「鼻がバカになったのか、ゲロ臭がわからねー」
「いいじゃん、わからない方がしあわせだよ」
 フェリーではわざわざ個室をとってくれたのだ。それなのに、青はひたすらトイレに蹲っているか、ゲロ袋に顔を突っ込んでいた。あまりにひどくて、最初は眠くならないタイプの酔い止めを飲んでいたのに、途中から眠くなる酔い止めを飲んでひたすら寝ていた。せっかくの船旅なのに勿体ない。しかも須臾運転の小型船では寝るどころではなく揺れに揺れた。いつか見たバラエティー番組で小型船に乗った芸人たちが吐きまくっていたのも納得である。あれは仕込みではなくリアルだ。

 着替えを持って道なき道をひたすら歩く。カンテラの小さな明かりがかえって夜の濃さを見せつける。
 不思議と怖くなかった。学校に泊まっていたときに感じたような暗闇に対する怖さがない。まるで自分の一部が闇にとけ込んでいるような、妙な一体感がある。
 青は黙々と目の前で交互に繰り出される須臾の足元を見ながら歩き続けた。
 しばらく歩くと水音が聞こえてきた。
「川があるの?」
「その脇にシャワーみたいな滝がある」
「あ、じゃあこれ滝の音?」
 さーっと柔らかな水音は滝というイメージからは遠い。
 大きな岩場の間に、天然の滝が絹糸の束のように落ちていた。高さは三メートルもないくらいで、幅五メートルほどの滝壺があり、そこから流れ出た水が川へと注ぎ込んでいる。余程澄んでいるのだろう、カンテラの仄明かりに照らされて、水の底がちらちら透けて見える。
「冷たい?」
「いや、ぬるめ」
「ってかさ、男女に別れてないよね」
 カンテラに照らされた須臾の顔が呆れていた。
「明かりを消せば真っ暗だ」
「えー! それはそれで怖い」
 さらなる呆れ顔がカンテラの明かりに浮かび上がる。
「着替え持ってきたんだろ、服着たまま浴びろ」
「えー!」
「うるさい! ついでにゲロ臭の染み付いた服も洗っとけ」
「えー!」
 青の叫びが岩に反響する。面白くてつい何度も叫んでしまう。近くにいたらしき鳥が抗議するように鋭く鳴いた。
「すごいね、声がこだましてる」
 前触れもなく須臾がカンテラを消した。一瞬にして闇にのまれる。
「ちょー!」
「しばらくすれば目が慣れる。あとは自分で考えろ」
 衣擦れの音が聞こえて、少しすると水音が聞こえてきた。
 青の目はまだ暗闇に慣れない。もそもそとスニーカーとソックスを脱ぎ、上着を脱ぎ、しばらく悩んでデニムも脱いだ。下着と長袖のカットソーを着たまま水に足を入れる。
 ぬるいというほどぬるくはなく、身が縮むほど冷たくもない。プールの水みたいだった。
 底の石は僅かなぬめりを持つ。危うく体勢を崩しかけ、浮力に助けられながら仄白く浮かび上がる滝を目がけて慎重に進んでいく。初めは膝丈だった水深は、滝壺までくると腰まであった。ごうごうと流れ落ちる滝とは違って飛沫も優しくミストみたいだ。
「ふぁー! 気持ちいいー!」
 青が叫ぶとこだまが返る。須臾の「うるさい」が思ったよりも近くで聞こえて、青は目を細めて須臾の位置を確認する。人二人分離れた位置に黒い影が見える。
 見上げると満天の星が瞬いていた。写真でしか見たことのない絶景に思わず青は溜め息をこぼした。
「星、すごい。ここで流星見たらすごそう」
「そういうツアーもあるらしい」
「だろうね、これはさすがにすごい」
 青はしばらくその場に佇んで夜空を見上げた。月のない空一面に隙間なく星が瞬いている。手を伸ばせば届きそうなくらい、星は大きく明るい。こんなにすごい星空を綿にも見せたい。きっと歓声を上げて喜ぶ。
 青が星を見上げている間に須臾は滝に打たれていたようで、水飛沫が飛んできて青は我に返った。
「ねえ、頭ってどうやって洗うの?」
「指で擦れ」
「それだけ?」
「それだけ」
 言われた通り、そろそろと滝の下に移動し、シャワーみたいな滝に打たれる。シャワーよりも勢いがあり、背中を向けるとほどよくマッサージしてくれる。首の根元が気持ちいい。
「やばい、これ最高」
「あんま長く打たれるなよ」
 ざばっと音がして須臾が水から出たのがわかった。青も慌てて頭を擦り洗いし、顔や躰も手のひらで擦る。透き通って以来軽いメイクすらしなくなったこともあり、思った以上にさっぱりした。

 水から出ると躰が重くなっていた。おまけに寒い。
 青が水から出る頃には須臾は着替え終わっており、カンテラを点けて背中を向けてくれた。手早く躰を拭き、もぞもぞと着替え、ついでに濡れた服や下着を濯いでぎゅっと絞り、再び須臾の足元を注視しながら道なき道を戻る。
「あの滝って湧き水だよね」
 東京の都心部にも湧き水がある。青は小学校のときに等々力渓谷を訪れ、湧き水を飲んだことがあった。
「そう。だからきれいな水だ」
「それはわかった。生臭くなかったもん」
 川の水特有の生臭さが一切なかった。どんなにきれいな水でも川の水はどこか生臭い。滝から流れ落ちる水は前に一度だけ飲んだことのある湧き水と同じで、匂いも味もしなかった。

 青はテントで眠り、須臾はタープの下で眠った。
 夜明け前から鳴き始める鳥の声に起こされるまで、青は夢も見ずにぐっすり眠った。



 すこんと抜けるような青空が広がる翌朝、青は重大なことに気付いた。昨日は胃が空っぽですっかり忘れていたのだ。
「ねえ、トイレってどうするの?」
「その辺で。穴掘って埋めろ」
「うそでしょ! まさか、おしり拭いたティッシュも持ち帰るの?」
「なんのために携帯の尻洗浄器持ってきたと思ってるんだ。洗ったら自然乾燥」
「うそでしょ……」
 力なく項垂れた青に、須臾は無表情で携帯用のおしり洗浄器を青の手に押し付けた。
「おしり拭いたティッシュだけは、そこで燃やしてもいい? 持って帰るのやだよ」
「飯作るかまどでか?」
 うーっと唸る青に、須臾は無言でライターを渡してきた。ついでに水の入ったペットボトルも。
「火の始末はちゃんとしろよ」

 覚悟と気合いと根性を振り絞った青に、須臾は無言で除菌タイプのウェットティッシュを差し出してきた。優しさだと思いたい。

 その日も翌日も、須臾は一日中ひたすら海に潜っていた。青は迷子にならない程度に周囲を探検したり、波打ち際で波に浮かぶ須臾を眺めたり、船着き場に座って足を揺らしたりして過ごした。
 すっきりした潮の匂い。さっぱりした草木の匂い。時々風がどこからか運んでくる花の甘い匂い。しっとりした土の匂い。自然の匂い。人工的な香りにはない清々しさと生々しさがある。
 いい香りかと訊かれれば、青はそうでもないと答える。それでもほっと力が抜ける匂いだ。
 おやつは少しぱさぱさしたポンカン。本来は収穫後に熟成させて甘味を出すらしく、採れたてはかなり酸っぱい。青は湯冷ましした水に果肉を入れてポンカンウォーターにして飲んでいる。
 これもそう。特別おいしいとまでは思わないのに、口に含むとどうしてかほっとする。
「きっとこの場所なんだろうなぁ」
 何もなくて、全てがある。理由もなく涙が出る。
「感動すると涙出るよねー」
 青は自分に言い訳しながら、さっぱりとした涙を気が済むまで流した。

 ふと見れば、波間に黒い影が浮かび上がった。
 須臾はきっと何かをさがしている。
 海の青と空の青が遥か彼方で混じり合う。晴れた海より薄曇りの海の方が果てなく感じる。
 果てのないさがしものが見付かりますように。
 気付けば青は空に願っていた。




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