第7話

文字数 5,656文字

 金曜の夜から始まった青と須臾の共同生活は、翌土曜日には青がここで暮らすために必要なものを買いに行き、日曜日の今日は朝からこの家にある家電製品のチェックを行っている。

 切っ掛けはガステーブルだった。
 青が須臾はコーヒーでも紅茶でも日本茶でもなく、熱い麦茶を好むことに気付いたのも、ティーバッグではない丸い粒の麦茶を初めて見たのも、このときだった。
 青が目を覚ますと、部屋中が香ばしさに満ち満ちていた。
「麦茶って冷やして飲むものじゃないの?」
 横から覗き込んでいた寝起きの青に、琺瑯ケトルで煮出し終えた麦茶をマグカップに注いでいた須臾は冷えた一瞥を返してきた。
「あっまあ、好みだよね」
 慌てて言い繕った青に、須臾は無言で昨日買ったばかりの青のグラスを取り出し、そこに冷凍庫から出した氷を目一杯入れ、熱々の麦茶を注いで冷たい麦茶を作ってくれた。
「うーまっ、なにこれおいしい!」
 一口飲んで驚いた。青がこれまで飲んでいた麦茶よりずっと香ばしくてコク深い。
 須臾の口角が心持ち上がった。一見無表情に見えて、その実、得意気に笑っている。
 青は判断に苦しむ。いい人ならぎろっと睨まないだろうし、嫌な人ならわざわざ冷たい麦茶を作ってくれたりはしない。さり気に得意気なところは弟の綿並みに子供っぽい。
 ぐびぐびと起き抜けの一杯を飲み干した青は、顔を洗いに洗面所に向かった。

 シリアルと採れたて生野菜の朝食を終えると、須臾はステンレスでできたプロ仕様っぽいガステーブルをキッチンから外してバルコニーに持ち出し、分解掃除を始めた。麦茶を湧かすときに炎の一部が赤く立っていたのだ。
「見ててもいい?」
 須臾が何も言わないときは、どうでもいい、つまりは了承の意であると青は解釈している。ダメなときは視線を合わせて眉を寄せる。
 それなりに使用感のある軍手をはめた須臾は、使い古しの歯ブラシと金属ブラシを使って一つ一つ分解しながら黒いススや汚れを落としては元に戻していく。

 この家のガスコンロはビルトインタイプでもなければ細かな調節が電子制御されてもいない。つまみを回し、かちち……と音を立てながら飛び出す火花がガスに引火して着火する。繋がっているのはガス栓だけで、火力の調節はつまみをひねることで弁が開閉し、ガス量を調節している。着火時のスパークには電池が使われ、万が一電池が切れて火花が出なくなっても、ガスさえ噴出していればライターなどで着火できる。
 ということを、青は須臾の片言から理解した。正しく理解できているかは甚だ疑問だが、ざっくり理解できていればそれでいい。
 青の家では月に一度ハウスクリーニングが入っていたので、ガスコンロの仕組みを初めて知った。
「ねえねえ、ってことはさ、これって電気使ってないよね」
 青の家のビルトインのガスコンロは電気制御されていたため、今の青では使えなかった。
 少し考えるように目を細めた須臾は、手早く掃除を終え、ガスレンジを元の位置に設置すると、青を指先でちょいちょいと呼んだ。

 使い方はわかっている。使える気がする。それでも少なくない緊張をもって、青はツマミを慎重に回した。
 かちちちち、ぼっ!
 真っ青な炎が丸く咲いた。

 それから、須臾主導で家中の家電のチェックが始まったのだ。
 直接コンセントに繋がる家電は無視して、コードレスを重点的にチェックする。この家は比較的アナログに傾いていて、トイレはタンク式で便座に付加価値はないし、お風呂にも追い炊き機能はなく、給湯器の操作パネルもない。
「ここって築何年?」
「三十年以上」
 おんぼろエレベータを見る限り十年やそこらでは済まないと思っていた青だったが、さすがに三十年以上は予想外だ。
「うわ、昭和?」
 須臾の口元が僅かに笑みを作った。
 昭和と聞くと遥か昔に聞こえる。「しょーわ」という響きが「しょーゆ」に似てしょっぱく古くさい。
 そんなことを考えながら青は須臾に促されるままスティック掃除機に手を伸ばし、充電スタンドから外して電源ボタンを押してみた。
 うんともすんともいわない。充電スタンドに戻しても充電ランプは付かない。
 須臾が一度手に取り、掃除機をスタンドから持ち上げ、再びスタンドに戻すと今度は充電ランプが付いた。これが現実か、と思うと青はなんともやるせない気持ちになる。

 そこで須臾がじっと充電ランプを見ていたかと思ったら、スタンドから外した掃除機を一度床に置いて青を見た。
 頭に疑問符を浮かべながら青が掃除機を手に取り電源スイッチを入れると、甲高いモーター音が小気味好く鳴った。
「なんで? なんでなんで?」
 さあ、と小さく首を傾げる須臾を尻目に、青はたいして汚れてもいない床を掃除する。嬉しくて仕方がない。青は鼻歌でも歌い出しそうな勢いで掃除機を前後に動かした。

 青が馬鹿みたいに笑いながら掃除機を動かしている間、須臾は工具などが仕舞われている棚の奥から何かを取り出そうとしていた。
 青が掃除機を止め、再度電源を入れてしっかり稼働することを確かめてから充電スタンドに戻す。残念ながら充電ランプは付かなかった。
「あー、やっぱり直接繋がるのはダメみたい」
 いくつかの木箱を出し入れしながら須臾が取り出したのはどっしりとしたトースターほどの四角い物体。
「なにそれ?」
「ポータブル電源」
 最初に青が思い浮かべたのはスマホなどを充電するモバイルバッテリーで、それにしてはやたらと大きくてごつい。コンセントの形状も様々なものが並んでいる。
 ふとコードレス掃除機とポータブル充電器を見比べていた青は閃いた。
「もしかして?」
 須臾が小さく頷いた。
「ドライヤー持ってくる!」
 すぐそこの洗面所のドアを開けて、オープンラックからドライヤーを取り出す。青が地味にダメージを受けているのはドライヤーが使えないことだった。
 透き通るようになって以降伸ばしっぱなしの髪は、もともとボブだったことが幸いしてそこまでみっともなくはない。それでも寝癖は付くし、洗い髪を乾かせないことがもうずっと気持ち悪かった。

 ポータブル電源にドライヤーのコンセントを挿し、青は逸る気持ちそのままに「スイッチオン!」と声を上げる。ドライヤーは機嫌よく熱風を吐き出した。



 共同生活は概ね順調だ。
 基本的に須臾は青にあまり干渉しない。最初のうちはなるべく自分が与えられたスペースにいるようにしていたものの、夕食の後に須臾が見るニュースを一緒に見ているうちに、家の中で自由に過ごすようになった。特に話しかけない限り鬱陶しがられないことに気付いた青は、会話は必要最低限、できるだけ端的に、を心がけている。

 ほぼ日の出とともに起き出してベランダ菜園の面倒を見ている須臾とは違い、朝の苦手な青が起き出す頃には、その日の収穫とシリアルがダイニングテーブルに並んでいる。青が目を覚ますのは麦茶の香りでだ。須臾はしっかり煮出すタイプの麦茶を好む。歯にステインが付きそうだ、と思いながら、青も氷で冷やした麦茶を飲む。

 その代わりといってはなんだが、青は自分が夕食を作ると宣言した。たいして料理が得意というわけじゃないから期待してもらっては困る、と言い訳しながら、もうずっとパンかおにぎりだったから飽きた、と愚痴りもした。ちなみに青は炊飯器が使えない。そもそもこの家に炊飯器はなかった。須臾はこれまで電子レンジでご飯を炊いていたらしい。
 ポータブル電源のおかげで今の青でも単純な仕組みの家電は使えるようになったものの、メニュー操作が必要な家電は使えなかった。つまり電子レンジは使えない。

 須臾から「だったら鍋で炊け」との指令が下され、調子にのって宣言したうえにぺらぺら愚痴りもした青は問答無用で炊き方を教わった。
 青は一週間以上連続で失敗し、須臾は芯の残ったご飯やふやけすぎたご飯を文句も言わずに食べた。
 そして、十日目になってようやく思い通りのご飯が炊けた。一度炊けるとあとはなんの苦労もなく炊けるようになった。ほんの些細な水、火、時間の加減が感覚で掴めた青は、それはもう得意になって炊き込みご飯に挑戦し、見事失敗した。
「なんで? ただめんつゆ足しただけなのに。ちゃんと水も加減したんだよ?」
 鍋の底にはおこげとは到底言えないただの焦げができ、ご飯の一部には芯が残った。それでも須臾は文句も言わずに完食する。青は悔しくて、焦げ付いた鍋を洗いながら、次こそは! と闘志に燃えた。
 そんなこんなで失敗を織り交ぜながらの共同生活は、まあまあ概ね順調と言える。

「ねえ、前にも誰かと住んだことある? ルームシェアとか」
「寮」
「寮って、社員寮? 学生寮?」
 青がまだ小さな頃、公務員宿舎に住んでいたと祖母が言っていた。青にその記憶はない。
「両方」
「ふーん、だからか」
 青も須臾もシリアルはふやけないのが好きだ。須臾は牛乳の代わりにプレーンヨーグルトをのせる。ベランダで採れるブルーベリーとまだ少し酸っぱいキウイもたっぷりのせる。かなりおいしい。
 ぼりぼりと口内でいい音を立てながらシリアルを口にしていた須臾が、なんだ? と言いたげに顔を上げた。
「なんか、他人との距離の取り方が絶妙だなって思って」
 彼は基本的に青のことは放置気味だ。青自身も彼の邪魔にならないよう気を遣っているとはいえ、話しかけたり何かの邪魔にならない限り一貫して居ないのも同然という態度が崩れない。
 かといって無視しているわけでもないのは、こうして一緒に食事をしたり、自分が麦茶を飲むなら青の分も当然のように用意してくれたり、それを青が飲まなくても気にしなかったり、という行動の端々で感じる。
 そんな須臾の態度は、青に気詰まりをほとんど感じさせない。彼との生活はどこか気楽なのだ。
 それでいて実は彼の方がものすごく気を遣っているのかといえばそれも違うようで、青が見る限り須臾はそれなりにリラックスして過ごしている。
 そこで青は、もしかしてこれまでも家族ではない誰かと一緒に暮らしていた経験があるではないか、と考えたのだ。
 そうか? と須臾に視線で問われ、「そうだよ」と青は声に出して返す。
 ひとまずそこで青は黙った。あまりしつこく訊くと「こいつよく喋る」光線を浴びることになる。



 須臾の本棚には実用書が多い。
 須臾に許可を取り、夏休みの間青は須臾の本棚を片っ端からチェックした。ほとんどが野菜や果物の育て方で、他には料理本もあった。鍋でのご飯の炊き方はその中の一冊に写真付きで解説されていた。
「初めからこれを貸してくれればいいのに……」
 そう文句を言いつつも、彼の教え方は端的でわかりやすかったことを思い出し、最初にこれだけを見ていたらもっと失敗していた気がしないでもなかった。
 結局、物事を教わるのは実際にできる人のやり方を真似るのが一番なのだと青は思う。
 青が料理を教わったのはおかあさんだ。できないよりできた方がいいわよ、と柔らかな笑顔に勧められ、特にあれこれ説明された記憶はなくとも見様見真似で覚えていった。それが今とても役に立っている。

 青には母が二人いる。三歳になる前に病気で死んだ「ママ」と、保育園に通っているときにできた「おかあさん」。「おかあさん」が来てから、父の呼び方が「パパ」から「おとうさん」へと変わった。
 祖母は「ママ」が気に入らず、「おかあさん」はあまり好きではなかったようで、「ママ」と「おかあさん」がいない間だけ、青の面倒を見てくれた。青のことも気に入らないながらも、抜け殻のようになった父を見かねて、ゆるんだ蛇口のように不満を滴らせながら息子と孫の世話をしてくれた。
 青が父に似ていないことを一番口にしていたのは祖母だった。青は「ママ」似だったらしい。青に「ママ」の記憶はなく、父は青に母の写真を一枚たりとも見せてくれなかったこともあり、青は「ママ」を知らない。
 病死したというわりに家には仏壇もなく、友達の家で仏壇を見せてもらった小学生の青は見当違いと思いながらも「おかあさん」に事情を聞いてみたことがある。

 私も詳しくは知らないんだけどね、と前置きして教えてくれたのは、青のママはおとうさんの高校の同級生で、おとうさんがずっと片思いしていた人だったみたいなの。おかあさんも直接おとうさんから聞いたわけじゃなくて、おとうさんのお友達からなんとなく小耳に挟んだだけで、あ、小耳に挟むってわかる?
 わかる、と答えた青に、ごめんね、おかあさんもよくわからなくて。おばあちゃんにも……訊きづらいわよねぇ、と困った顔をしたものだ。
 お仏壇がないのはね、青のママが亡くなる直前に、青のママのご両親からやり直しなさいって言われて籍を抜いたからだっておとうさんは言ってたんけど……本当のところは私もよくわからないのよね。ほらおとうさん、青のママのお墓参りにも行かないでしょ、亡くなったのが余程ショックだったってことはわかるんだけど、でもねぇ……と今度は悲しそうに目を伏せたので、青はそれ以上訊くのをやめた。

 一般的に言われるような継子いじめはなかった。どちらかといえば実子である綿よりも可愛がられていたように思う。やっぱり女は女同士よね、とおかあさんはよく、にひっ、と笑って抱き寄せてくれた。
 青にぬくもりを分け与えてくれるのはおかあさんと綿だけで、父も祖母も決して青を抱きしめようとはしなかった。

 あのときも、最後まで青のことを考えてくれたのはおかあさんと綿だけだった。
 だから青は、もうあの二人を頼らないと決めたのだ。
 それでも気付けば探してしまう。いざというときの待ち合わせ場所で。




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