第13話

文字数 7,502文字

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 青が与えられているスペースをおかあさんは興味深そうにひとしきり眺めた。
 青が使っているベッドも、ベッドサイドに置かれた小さな丸テーブルも、勉強机代わりの細長いテーブルも、そこに収められている背もたれ付きの椅子も、オープンタイプのワードローブも、全て須臾が作ったもので統一感がある。
 机の上に重ねて置かれている参考書を目敏く見付けたおかあさんは、よしよしと言わんばかりに小さく二度頷いた。

 綿は昔から「物作り」に弱い。家具やキッチン、洗面台などを須臾が自分で作っていると知って、俄然興味が湧いたのか、工具などを見せてもらっている。普段勉強ばかりしている弟の唯一男の子らしい一面だ。
 しかも須臾が作る家具は木とアイアンでできていている。シンプルなデザインでかっこいい。時々バルコニーで簡単な溶接までしているのだから本格的だ。そんなところも綿の興味を引くのだろう。

「洋服、どれも大人っっぽくてステキね。青が選んだの?」
 ワードローブに掛けられた服をおかあさんが撫でるように触る。確かに以前の青では選ばないラインだ。暗に須臾が勝手に選んだのではないかと言われているような気がして、青は急いで否定する。
《私がえらんだ お金はらおうとしたんだけど、いらないって》
 画数が多かったり咄嗟に浮かばない漢字はひらがなで書く。いちいち書かなければならないことが青は心底もどかしかった。
 青が透き通った最初の頃も、綿との会話は主に筆談だった。そのうち簡単なやりとりはガラス玉を落とす方法に変わっていき、最終的には青の答えが「はい」か「いいえ」になるよう綿が会話を工夫してくれていた。
「ねえ、榛葉さんはどうして青を保護してくれたと思う?」
 おかあさんが小声で訊いてきた。これが訊きたくて青の部屋が見たいと言い出したのだろう。きっと須臾もその意図がわかっていて綿を木工スペースへと誘ってくれた。
 向こうからは工具の甲高いモーター音と綿のはしゃぐ声が聞こえてくる。
《こうかいしたくないからって言ってた たぶん、あの人だれか家族とか、みじかな人が死んでるんだと思う》
「身近はちに点々よ。身に近いって書くでしょ」
 そう言っておかあさんは指先で「身近」という字を書いて見せた。青は、そんなことどうでもいいのに、と思いながらも、急いで「みじか」に横線を引っ張り、その上に「身近」と書き直す。
「ねえ、青……」
 言いにくそうなおかあさんを見て、青は先に答えを書く。綿が言うには、青の文字はひと文字ずつ浮かび上がって見えるらしい。
《何もされてない 一回もさわられたことない》
「本当に? そう言わされているんじゃなくて?」
 疑わしそうなおかあさんを見て、青は無性に苛立った。どれだけ須臾に助けられているか、どうしたらそれを理解してもらえるか、青は頭を悩ます。
《たぶん他の人といっしょでさわれないんだと思う》
「もしかして、だけど、青はあの人のことが好き、とか?」
《は? それはない!》
 直前の苛立ちが怒りに変わりそうだった。変に誤解してほしくない。須臾と青の関係は常に対等で適度な距離が心地いい。それを軽々しく考えてほしくない。
《としちがいすぎ たよりになるし、信用もしてるし、助けてもらってるけど、変なかんけーじゃない》
 文字を書く青の指に力が入った。こんな時こそ顔が見えたり声が聞こえたりすれば青がどれほど怒っているか簡単に伝わるのに、文字ではせいぜい筆圧でしか青の気持ちを伝えられない。かといって、わざわざ怒っていると文字にするのも馬鹿馬鹿しい。使い慣れていた絵文字を手書きするのは馬鹿馬鹿しいを通り越して滑稽だ。
 用意されていたコミュニケーションツールに慣れきっていた青にとって、手書きの文字だけで感情を伝えることはとてつもなく難しい。
《あの人、あんま人にきょーみないんだと思う》
「確かにそんな感じはするわね。やたら落ち着いているっていうか、植物っぽいというか」
《ねっちゅーしょーになりかけていたときに助けてくれた》
「そうなの?」
《そう ずっとあの公えんにいたから》
 おかあさんの顔が歪んだ。青は慌てて《しかたないよ》と書き加える。
「ごめんね。本当にごめん」
 おかあさんのきりっと整えられた眉がへの字に下がった。家にいたときよりも今のおかあさんは全体的にきりっとしている。きっと仕事もしているのだろう。おかあさんは何度か父に仕事をしたいと訴えては却下されていたことを青はよく憶えている。
《おかあさんはわるくないよ》
「でも、あの時おかあさんもどうしていいかわからなくて、おとうさんが全部勝手に決めちゃってて、咄嗟に実家の住所残すことしかできなくて」
 青は、うん、と頷き、慌ててノートに《わかってる》と書いた。何もわかっていないのに、なんだか青はそれ以上聞きたくないと思ってしまった。
「綿から青は携帯が使えないって聞いてたから、電話番号よりも住所がいいだろうと思ったんだけど」
 言葉の端っこに、すぐに連絡をしなかった青を咎めるような気配があった。
《そういえば、私のスマホってもう使えない?》
「おとうさんがさっさと解約しちゃったから……」
 おかあさんはさっきからずっと申し訳そうな顔しかしていない。
《ちょっと気になってただけ どうせ使えないから平気》
 おかあさんの視線が宙を彷徨う。すぐ隣にいる青の目を右に通り過ぎて、また青の目を左に通り過ぎて、結局彼女の視線は机の上に広げられたノートにある青の文字に落ちて止まった。
「青、おかあさんたちと一緒に群馬に帰りましょ。きっとそのうち元に戻るわ。いつまでもそんな状態が続くとは思えないもの」
 青は強烈な違和感に襲われた。
 一度も行ったことのない場所なのに「帰る」という言い方はおかしい。青は一度も彼女の実家に行ったことがない。
 それに、元に戻ることはないと青は考えている。彼女の言ういつまでも続くとは思えないそんな状態がいまや青の通常になってしまったのだ。
《すこし、かんがえる》
 ゆっくり書き綴った文字を見て、おかあさんは今にも泣き出しそうに顔を歪めた。

 きっとおかあさんにはわからない。きっと誰にもわからない。
 誰にも見えないという絶望は、もしかしたら目が見えなくなることと似ているのかもしれない。誰にも声が届かないということは、耳が聞こえなくなることと似たような絶望だろう。さらに青の場合は誰にも触れられない。その絶望は死ぬことと似ているような気がする。
 少なくとも須臾といる限り、絶望が三分の一になる。この世界から弾かれてしまった孤独を忘れていられる。しかも彼は、元には戻らないとはっきり言った。下手な希望を持たせない気遣いは、青の心をすっきりさせた。
 きっと須臾の考え方の方が稀なのだろう。それが特異な状態の青には救いでもある。

《おかあさん ごめんね》
 青の文字を見たおかあさんは溜め息を吐くように呟いた。
「どうしてこんなことになったのかしら」
 青は責められたような気がした。そんなふうに思う自分が嫌で、嫌なのに、それを言いたいのはこっちの方だ、と八つ当たりしたくもなって、青の心はぐちゃぐちゃだった。
 青だって家族と一緒にいたい。元に戻りたい。それでも今の青は透き通ったままで、彼らには青が見えなければ、声も聞こえず、触れることもできない。
 青はすでに心がへし折られるような疎外感や孤独感をもう嫌というほど味わってしまった。



 青の心情を正しく理解したのは綿だった。
 いつだって青を真っ先に理解してくれるのは弟の綿だ。

 再びダイニングに集合し、娘を連れ帰りたいと須臾に話す自分の母の主張を綿ははっきりと否定した。
「おかあさん、それじゃあおねえちゃんがかわいそうだよ」
「どうしてよ」
 少し声を荒げたおかあさんに、綿は呆れたように言った。
「どうしてって、そんなの当たり前でしょ。誰もお姉ちゃんのこと見えない家で、おねえちゃんはしあわせだと思う? それにね、見えない人とコミュニケーション取るのはすごく大変なんだよ。僕はおねえちゃんが透き通ってからずっと大変だった。おねえちゃんはもっと大変だったと思う」
「でも、このままここに居ていいわけないでしょ」
 口を開きかけた須臾を綿は目配せで黙らせた。
「それはおかあさんの自己満足だよ。その考え方は僕をあの学校に通わせ続けたおとうさんと同じだよ」
 綿の言い方は容赦なかった。綿は時々大人を黙らせるような正論を言う。顔を強張らせたままのおかあさんから綿は目を逸らさなかった。
「もしもおねえちゃんの具合が悪くなったとき、僕たちじゃ気付くこともできないんだよ。最悪死んじゃうかもしれないんだよ」
 感情を高ぶらせた綿の声は震えていた。

 一度、青は激しい胃痛に襲われたことがある。今思えばストレスだったのだろう。吐いても吐いても痛みも吐き気も治まらず、その辺にあった紙に「いいたい」と書くことが精一杯で、最初綿は「何が言いたいの?」と勘違いした。青が答えられずにいると、綿は何かを察知したのか考えに考えて、ようやく「もしかして胃が痛いの?」と訊いてきたときには、青はすでに動くこともできないくらい小さく丸まって痛みに耐えていた。
 綿が救急箱から胃薬を持ってきてくれ、それを飲んでなんとか回復した。
 後になって、そのときの詳細を伝えると、そこで初めて綿は青ざめた。綿は軽い胃痛だと思っていたらしい。実際には胃液まで吐いても痛みが引かず、血の気が引き、脂汗をかいていたことを伝えると、綿は泣き出すほど動揺した。
 それが綿のトラウマになっている。

「榛葉さんに訊いたら、毎週遊びに来てもいいって。だから、おねえちゃんはおねえちゃんが見える人と一緒にいた方がいい。僕はおねえちゃんに死んでほしくない」
 青は慌ててノートに《しなないよ》と書いた。そう書いてからその文字の前に絶対を付け加える。
《ぜったいにしなないよ》
「おねえちゃん、絶対と死くらい漢字で書いてよ。あの時だって胃か痛いのどっちかでも漢字で書いてくれてたらもっと早く薬持ってってあげられたのに」
 口を尖らす綿の視線が青とは合わない。それがどうしようもなく悲しい。須臾と過ごすことで忘れていた感情が青の中に吹き溜まっていく。

 それまで黙って成り行きを見ていた須臾が不意に席を立ち、綿の後ろに回り、まだ小さな綿の頭を大きな両手で挟むと、青と視線が合うようその位置を直した。
 綿の視線が青の目を通り抜ける。青の瞳に焦点が合うことはなくても、真っ直ぐ青に向けられた視線が無性にうれしかった。
「この位置に彼女がいる」
 須臾の感情のない低い声に、おかあさんが嗚咽をもらした。

 青はそのとき、急におかあさんではなく母という言葉が頭に浮かんだ。
 青はずっと母という言葉を無意識に避けてきたように思う。「ママ」と「おかあさん」のどっちを母と思えばいいのかわからなかった。自分には二人の母がいると頭ではわかっていても、どうしても母という言葉は二人を一括りにまとめるような気がして、ずっと小さなしこりのような違和感を覚えていた。
 今はすんなり母と思える。青を産んでくれた人も母、青を育ててくれた人も母。一括りの存在ではなく、別々の存在の母がそれぞれに青を支えている。とても単純なことなのに、ずっと複雑に考えていた。

 青は須臾を疑わない。彼が好きなだけ居ていいと言うならそれはその言葉通りであり、たとえ家族が迎えに来たとしても、青がここに残りたいと言えば、彼はきっと、好きにすればいい、と答えるだろう。
 それを母に伝えたとして、はたして彼女は納得してくれるだろうか。

「おかあさん、わかったでしょ」
 不意に綿の声が聞こえた。いつの間にか須臾は青の隣に戻っていた。
「僕たちは榛葉さんがいなければおねえちゃんの正しい位置すらわからないんだよ」
 青ははっとして須臾を見た。それをわからせるために綿の視線を直したのか。
 須臾は青の視線に気付いているはずなのに、俯いたままの母から視線を外さなかった。母は何も言わない。須臾も何も言わない。
 張り詰めた空気を抜くように、綿がふうっと息を吐いた。
「おかあさん。別々に暮らしたからっておねえちゃんが他人になるわけじゃないんだよ」
 母は弾かれたように顔を上げた。須臾を見て、綿を見て、青の周りに視線を彷徨わせると何かを諦めたように一度目を閉じ、そして、母は目に涙を溜めながら綿を見た。
「おかあさん、青のことがすごく好きなの」
「知ってるよ。僕だって好きだもん。時々むかつくけど」
「そりゃあ、おかあさんだって時々むかつくけど……」
 どうして好きだけで終わらせないのだろう。綿は反抗期なのか。母は離婚ストレスでも溜まっているのか。
「なぜそこで悪口を言う」
「日頃の行いだろ」
 青の小さな愚痴に須臾が小さく悪口で返してきた。

 すっと背筋を伸ばした母が須臾に頭を下げた。
「娘を、よろしくお願いします」
 綿までそれに倣って「おねえちゃんをよろしくお願いします」といっぱしの大人のように頭を下げた。

 そこで終わればきれいなのに、そのあと母と須臾はお金のことで揉めに揉めた。
 青にかかる生活費の全てを負担すると言い出した母に、自分が勝手にやっていることだからと須臾は譲らない。須臾にお金の話はタブーなのに、母はしつこく食い下がった。須臾の苛つきが伝わってくる。
「くれるって言うんだから貰っとけば?」
 つい口を出した青を須臾がぎろっと睨む。この人は時々本当に大人気ない。
「受け取るだけ受け取って、あとでこっそり送り返せばいいんじゃないですか? 僕宛に」
 綿がちゃっかりしたことを言い、母に太ももを思いっきりぶたれていた。ばちん、といい音がした。
「実際、普段彼女だけにかかる金額などたかが知れています。主に菓子を買うくらいで……」
「ああ、そこは削っていただいて結構です。むしろ削ってください。この子は際限なくお菓子ばかりを食べて食事をしないので。ですが、洋服など買っていただいたようですし、部屋も調えていただいておりますし……」
「服はまあ、自分の分を買うついででしたし、家具などは材料費だけですのでこれもたいした金額ではありません」
 話はいつまで経っても平行線で、時々さり気なく青の悪口が混じる以外は似たようなことの繰り返しだった。
「ってかさ、お腹空いた。って、もう二時だよ! 先にご飯食べようよ」
 青がノートに《おなかすいた》と書く。すかさず綿が「僕も!」と声と手を上げた。
「ああ、そうだな。人数も多いし、前に行きたがっていた海鮮パスタの店にするか。三人もいれば個室じゃなくても平気だろう」
 須臾の声を聞いた綿が「やっとかー」と伸びをして、母はほんのりと顔を赤らめ「なんだかムキになってしまって……」とごにょごにょ言った。



 母は完全に開き直ったのか、食事の席で須臾にずばりと切り出した。
「榛葉さんはなぜそこまで青の力になってくれるのですか?」
「では現状、私以外に彼女の力になれる人はいますか?」
 須臾がすかさず切り返した。どう考えてもさっきまでの苛々を引き摺っている。
 無表情で淡々と言い返された母はむっとして綿に助けを求めるも、綿は「おかあさん、さすがにしつこいよ」とつれない。
「もう少し、おねえちゃんの立場になってみなよ。おねえちゃんと榛葉さんの間で決まっていることをおかあさんが蒸し返すのはどうかと思う。おかあさんはおかあさんの立場でしか考えないから納得できないんだよ」
「だって私、青の母親だもん」
 拗ねた母の口調に、綿は「いい大人が開き直らない」と厳しい。

「初めは、幻覚だと思っていました」
 ふと須臾が口を開いた。もののついでのようなさり気ない口調に母も綿も自然と耳を傾けている。
「誰にも見えていないものが自分だけに見えるわけですから、そう考えても不思議はない。元々ストレス負荷の大きな業務に携わっていまして、実際に心を壊す者があとを絶たず、ついに私もかと。なんと言えばいいのか、来るときが来たという感覚の中にいました」
 淡々と、ナレーターのように感情を込めずに語られる内容は、青も初めて聞く須臾の回顧だった。
「そのうち、本当に幻覚なのかという疑いが生じました。あまりに彼女は自立した存在だった。どう考えても私が生みだした幻だとは思えなくなってきました」
 母が、ああ、と言いながら小さく何度も頷いた。
「なんとなくわかるような気がします。私も初めは綿の言うことが信じられませんでした。勉強のストレスで綿がおかしくなったのかとまで思いましたから。それでも青が必死に自分の存在を主張してくれたから、もしかしたら、と思えるようになりました」
 青は何度か青と母だけが知り綿の知らない内容を紙に書いて綿経由で渡していた。
 同じことを友達や元彼にもしたが、彼らは青の存在を認めるどころか心底怯え、仲がよかっただけに青は深く傷付いた。
「僕はすぐ信じたけどね」
 綿の得意気な発言を大人二人はスルーした。青は綿にガラス玉を転がす。綿は無視されるのが一番堪える。転がってきたガラス玉を綿は照れくさそうに青に転がし返した。
「彼女は梅雨の蒸し暑さにどんどん弱っているようでした」
「ああ、青は湿気に弱くて。毎年夏前に夏バテするんです」
 母の話に頷きながら須臾は食後のコーヒーを一口飲んだ。
「このまま放っておいてはいけないような気がしました。幻覚だという考えが完全に否定されたわけではなかったので、彼女に何かあれば自分に跳ね返ってくるのではないかとも考えました」
「それで保護した」
 母の確認するような視線を須臾は真っ直ぐ見返し、頷きを返した。
「だとしたら、幻覚ではないとわかった今は? どうお思いですか?」
「乗りかかった船、です」
 船を運転できる須臾が言うとリアリティが増す言葉だ。青がちらっと須臾を見ると、そんなことを気にする素振りもなくいつも通りの無表情だった。
 唐突に青は、モテなそう、と思った。思っていただけではなく口にも出ていたらしく、須臾にぎろっと睨まれた。




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