第2話

文字数 5,199文字

 それはほんの思い付きだった。

 いつものようにその人の買うお弁当とカップワンタンの隣に梅干しのおにぎりをひとつ置き、その横に五百円玉を置いた。その日の青の財布の中には小銭がほとんどなかった。
 青は高校の購買でお昼のパンを買っている。そのときにこっそり両替を兼ねてお札で購入し、勝手におつりをもらっていた。昼休みになると一気に人が押し寄せるため、二人の事務員の間にある購買の手提げ金庫は透明化した青にとっては無防備極まりない。今は試験期間でお昼前に放課となるため、青は購買で両替ができずにいた。 
 現れた五百円玉を一瞥したその人は、小銭入れから百円玉を三枚と五十円玉を一枚、十円玉を一枚、五百円玉の隣に置いた。
 おにぎりのパッケージに書かれた金額は百二十五円。おつりとしては十五円足りない。小銭入れを逆さにしたその人の手のひらには一円玉が三枚出てきた。その人は考え込むようにじっと三円を見つめて、そのまま小銭入れに戻した。これまで一円単位での過不足はあれ、十円単位での過不足はなかった。
 コンビニ店員がお弁当を温めるために後ろを向いた瞬間、青は三百六十円を素早く手に取って財布にしまった。

 この蒸し暑い中、いつもと変わらずカップワンタンにお湯を注ぐその人は、このコンビニが一階にあるビルに住んでいるようだった。マンションには見えない五階建てのテナントビル。その脇にある蛍光灯がちらつく小さなエントランスにその人はいつも消えていく。おそらく家族もいなければ彼女もいない。
 休日らしき土曜日は着ているものがスーツではなくラフな服装に変わるくらいで、同じ時間にコンビニでお弁当とカップワンタンを買っていき、日曜日はスーパーで食材のまとめ買いをしているようだった。誰かと一緒だったことも、どこかに食事に行くような気配もない。

 その日はいつにも増して暑かった。
 通りすがる人たちが今年一番の暑さだと噂していた。通勤中の会社員たちは上着を片手に玉のような汗をハンカチで拭っていた。朝も早くからじぐじぐと騒ぐ蝉の声が不快感をいや増していく。
 公園には遊具などなく、ベンチがいくつか並んでいるだけで、三方をマンションに囲われた空地は風が通り抜けず熱を孕んだまま夜を迎える。
 半ば熱中症になりかけている青はとにかく体を冷やしてぐっすり眠りたかった。

 こんな暑い最中に熱々のカップワンタンを食べられる部屋。
 きっとその部屋は涼しい。

 ふとした思い付きなのに、それしかない! と青の心は勢い付いた。青の思考はここ連日の高い湿度に、もわもわとカビが蔓延り腐りかけていた。
 いつも通り小さな袋に入ったおにぎりを持ち上げると、いつもとは違って青はその人の後をついていった。

 五階建てビルの最上階。古い団地のような鉄の扉の上下にあるシリンダーに鍵を差し込んだその人の横で、青は口を開いた。
「今日一晩だけ、玄関でいいから泊めてください」
 聞こえるはずのない透明な声に反応はなかった。
 金属音が小さく二度鳴って、その人は鍵をポケットにしまう。開かれたドアから漏れ出したひんやりとした気配に、熱を放つ青の躰はゆるゆると力を抜いていく。
 扉が閉まる前にその人に続いて青も中に入る。
 ぱちんと照明が点くと、扉の中は広めの廊下が数メートル続いていた。足元に玄関のような段差はなく、入って二メートルくらい先にあるローチェストのようなベンチに座ったその人は、ウエスで軽く汚れを払ってから革靴を脱ぎ、ベンチの下から出したクロッグサンダルに履き替え、脱いだ革靴にシューズキーパーをセットして収納し、再び立ち上がると廊下の先に進んでいった。
 床に貼られている黒っぽいタイルが、天井に灯るダウンライトを跳ね返している。
「涼しー」
 青の肩の位置まで床と同じ黒いタイルが張られ、縁台よりも大きなベンチにへたり込んだ青の背中を心地好く冷やしてくれる。公園のベンチとは違いクッションが効いている。座面にはシャギーラグが敷かれており、座り心地もすこぶるいい。
 ここ数日はあまりに暑くてリュックを背負うことすら億劫だった。手に持つリュックを膝に抱え、背中から伝わる涼をこれでもかと堪能した。



 ────◆────



「涼しー」
 気の抜けた声が須臾の背後に響いた。
 あれほどはっきり見え、これほどはっきり聞こえるのはすでに末期だからか。自問する須臾は自作したダイニングテーブルに温められた弁当とカップワンタンを置いた。
 声の主は宣言通り玄関に留まったままだ。
 手を洗い、うがいをし、スーツを脱ぎ、部屋着に着替える。テーブル同様自作したダイニングチェアに腰掛け、コンビニの袋から弁当とカップワンタンを取り出した。

 最初は普通の女子高生に見えた。何かのゲームなのかとも思った。
 なんの前触れもなく、彼女は突然須臾の会計に紛れ込んできた。
 須臾の学生時代にも意味のわからないことを平気でやってのけるヤツらが周りにいた。他人の迷惑など考えもしない、ほんの一時の悦楽のためなら何をしても許されると疑わない馬鹿げた行為。
 特に反応せずにいたら、その女子高生は毎日同じように会計に紛れ込むようになった。律儀に繰り返す断りと感謝の言葉に、須臾は次第に何かがおかしいと感じ始めていった。

 そんなことが何日か続いたある日、須臾は、ありがとう、と呟き、小さなコンビニ袋を手にした女子高生を何気なく視界の端で見送りながら、ふと視線を上げて気付いた。
 彼女の姿が防犯ミラーに映っていなかった。
 それはほんの一瞬のことで、女子高生は入ってくる客と入れ違うように外に出て行ったこともあり、目の錯覚だと自分に言い聞かせた。
 翌日も気付かれないよう確認すると、やはり映っていなかった。その翌日も、さらに翌日も。

 そこで須臾がふと思い出したのは、この仕事に入る前に聞いた指導係の声だ。
 ──それが見え始めたら自分を疑え。声が聞こえ始めたらこの仕事は終わりだ。
 いいか、絶対だ、と念を押した二回りほど年上の指導係は、そのときすでに見えも聞こえもしていたらしい。一通り須臾に仕事のやり方を教え、数回同行した後、忽然と消えた。一度上に安否を確認したことがあるが、退職した事実以外の一切はわからないままだ。

 これか、というのが最初の感慨だった。しみじみと事実に浸りながら、須臾は退任を考えた。考えたものの、なかなか上に切り出せずにいた。消えた指導係は退任の仕方を教えていかなかった。特殊な業務ゆえ一般的な退任の仕方でいいものか悩んでいるうちに日々は過ぎ、相変わらず幻覚ははっきりと見えも聞こえもする。
 しかも、さり気なく観察していると、その幻覚は公園のベンチで寝起きしていた。そんなことあるか、と須臾は目を疑い、これまた何度も確認した。公園を住処としている幻覚は、ある朝窓から見下ろすと、公園の水栓で顔を洗っていた。きっちり洗顔料を泡立てて。時々洗濯のようなこともしている。幻覚とはそんな事細かに日常を踏襲しながら動くものなのか。

 須臾は猛烈に指導係に会いたかった。疲れ切り、何かに怯えるようにいつもびくびくしていた男。二回りも年下の須臾にも丁寧な言葉を使い、誰よりも須臾の心を心配してくれた人。ほんの数ヶ月の付き合いだったというのに、須臾の中に今も色濃く影を残す本名も知らない人物。コユミ、とだけ教わった。小弓なのか古弓なのか、それとも別の漢字なのか、名字なのか名前なのか、単なる通称のようなものなのか、そんなことも知らないまま、コユミは消えた。

 ついに自宅にまで現れるようになったか。
 須臾はどこか諦めたようにほのかに湯気の立つカップワンタンを啜った。淡々と弁当を口に運ぶ。日々のルーティンを決して崩してはいけない。自覚なくそこからはみ出していることに気付いたら、それも予兆の一つだ。コユミの声が蘇る。
 幻視、幻聴、幻触、幻臭──それからなんだったか、と記憶をさらいながら須臾は弁当の残りを平らげ、カップワンタンを飲み干した。

 いつもなら木材にヤスリ掛けしていると無心になれるはずが、今日は玄関に存在する幻覚が気になって仕方がない。
 須臾は自分でリノベーションしながら、この古いテナントビルの一室で暮らしている。一階をコンビニエンスストアが占めるこのビルは、二階にデンタルクリニック、三階に学習塾、四階に輸入雑貨系のインターネットショップとネイルサロン、五階に須臾が入っている。
 同じ広さのマンションを借りるよりは格段に安く、古いビルゆえ好きにリノベーションしていいと言われている。元々四階と五階は賃貸住宅だったおかげで生活に必要な設備は整っていた。

 あの幻覚は本当に須臾が創り出したものだろうか。
 幻覚がおつりをもらうか。そもそも幻覚におつりを渡す必要があったのか。なにより、毎回幻覚から受け取る小銭が翌日以降もきっちり財布の中に残っているのはどういうことなのか。
 ヤスリ掛けの終わった木材についた木屑を丁寧に拭い落とし、エボニー色のオイルを染み込ませていく。

 須臾は幻覚だと自覚してしばらくの間、彼女から受け取った小銭を使えずにいた。小銭だと思っているのは須臾だけで、実際には何もない可能性もある。
 小銭入れがぱんぱんに膨らんだある日、自販機の前に立ち、思い切って幻覚の小銭を投入した。
 幻覚だと気付く前に彼女から受け取った小銭を疑うことなく使っていたのだから、小銭は幻覚ではないことくらい本当はわかっていたのだ。それを認められなかったのは、だとしたらこの小銭は一体どこから来たのか、という事実が浮かぶからであり、それを突き詰め始めること自体が幻覚の深みにはまりそうだったからだ。
 がこんと無粋な音を立てて落ちてきたミネラルウォーターを須臾は腰をかがめて取り出し口からしばらく眺めていた。手を伸ばしてその冷たさに触れ、立ち上がりながらペットボトルを取り出し、その重さを確かめるべくしばらく眺めた末、キャップをひねって水を口にした。
 冷たさが口内に広がり、喉を通り、食道に落ちていく感覚がわかり、須臾はますます困惑した。

 どこまでが幻覚で、どこからが現実なのか。その境目がわからなくなるほど重症なのだろうか。
 オイルが馴染んだ木材を眺めながら、須臾は目の端で玄関付近を窺う。幻覚はまだそこに存在しているのだろうか。
 今晩一晩、玄関でいいから泊めてください。
 透き通るような声だった。目を惹くような何かがあるわけではなかったが、会計時に無理に引き上げる口角に切羽詰まったものを感じた。無理矢理作られた笑顔は見るからに痛々しく、放っておけない気になってしまう。
 幻覚なのに。
 幻覚に絆されるとはどういうことなのか。とはいえ幻覚ゆえに安心ではある。これが生身の人間であれば、須臾は関わることができない。

 現在の任務に就く際、須臾はそれまでの人間関係を絶っている。
 元々社交的だったわけでもなく、幼馴染みは国外に出ており、もう一人は離島で公務員をしている。幼馴染みとは数年に一度文面でのやりとりがあるかないか、離島の公務員は公務員であることがネックになったものの年に三度ほど人目の多い場所で挨拶を交わす程度だったこともあり、断交からは除外された。
 それ以外に日常的に親しく付き合うような友人はなく、彼女もいなかったため、特に大きな支障はなかった。須臾にはもう、血縁者はいない。
 今の業務への適性があるとすれば、おそらく身近に身内や親しい人間のいないことが最大の適性なのではないかと須臾は考えている。それだけで機密漏洩のリスクが大幅に下がる。

 かちゃ、と小さく玄関ドアのラッチ音がした。訝しみながらそっと様子を窺うと、玄関に幻覚の姿がない。エレベーターの上昇音がかすかな唸りとなって玄関ドアの向こうから聞こえてきた。
 須臾は部屋に戻り、コンビニ側の窓を覆うロールブラインドの隙間から階下を見下ろす。しばらくすると幻覚が急ぎ足で公園のトイレに入っていった。

 須臾は複雑な思いに囚われる。幻覚とはここまで細かいものなのか。幻覚とは須臾の想像の産物ではないのか。だとしたらここまで細かな幻覚を創り出すなど、もはや賞賛に値するのではないか。
 あまりの馬鹿馬鹿しさに鼻白み、須臾もトイレに入った。連れションだな、と一層馬鹿馬鹿しい思いが湧く。無意識にも須臾が用を足したかったから、幻覚が一足先にトイレに向かったのか。それとも幻覚がトイレに入るのを見て、須臾も行きたくなったのか。
 幻覚のややこしさに頭が痛くなりそうだった。
 



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み