第71話 血の口づけ

文字数 2,605文字

 脚が人型に戻ると、爪が肉から抜け、犬の胸に空いた四つの穴から、止めどなく鮮血が流れ出た。
 タハトはすぐさま立ち上がったが、犬は横になったまま、苦しそうな呼吸音を上げている。大きく開けられた口からは、涎と長く伸びた舌が垂れ、大量の空気が激しく出入りしていた。
 隣に膝をつき、毛に覆われた首筋に手を添えると、弱々しい脈を指先に感じた。
 奇妙な心理状態だった。この者はもうじき死ぬだろう。しかし、悲しみや恐怖といった感覚は、不思議となかった。
 代わりにあるのは、静かな興奮とコメ粒ほどの罪悪感。程よい緊張感の中、思考は極めて鮮明だった。
 これが、人を殺すということか。去る前に相手をよく見ておこうと、タハトは敵の顔を覗き込んだ。
 綺麗な犬だった。運動着を着ているため肝心の部分は見えないが、雌のようだ。
 大型犬の変化種は珍しいものではない。加えて女性の隊員も戦線には大勢いた。
 しかし、黒犬のつぶらな瞳と目が合った瞬間、嫌な予感が胸を貫いた。冷たく重い石が腹の底に落ちるような感覚。恐るべき可能性が脳裏に浮上した。
 掌に、筋肉と骨の移動が感じられた。変化が解かれようとしているのだ。それは、この者の命が尽きかけていることを示していた。
 胸を騒めかせる予感のせいか、タハトは無意識のうちに黒犬の頭を膝に乗せ、目を覗き込んだ。
 瞳孔と虹彩しかなかった目に、白い強膜部分が現れる。それが漸次広がり、ついには三白眼となる。その時には体の殆どの部分で変化が解けていた。
 眼前に現れた女性の姿を確認し、タハトの顔が悲痛に歪む。
 「なんて顔してんのよ」
 リッカが弱々しくタハトに語り掛けた。口からは血が細い線となってしたたり、白い頬に跡を残している。
 「そんな…リッカさん…」
 喉が詰まり、言葉が出てこなかった。
 人とは身勝手なものである。さっきまではすまし顔をしていたにも関わらず、相手次第でこうも態度が変わるのだ。
 だが、辛いものは辛い。その感情には抗いようがなかった。
 「馬鹿。さっさと先に行きなよ。王も水龍もこの先にいるわ」
 何が可笑しいのか、リッカは口角を上げた。その顔に、タハトの涙が幾つもの雫となって落ちる。
 「そんなこと…まさかあなたが此処にいるなんて!」
 泣きじゃくるタハトの頬に、しなやかな指が触れた。火照った肌にヒンヤリと感じられるそれを、強く握り返す。
 「その様子だと、気付いていなかったみたいだね」
 呼吸が浅く弱くなる中、その声はどこか嬉しげな雰囲気を漂わせていた。
 「まあ、そういう私もクオウのアホ毛があの場にあったから、あんただって分ったんだけど…」
 そこで言葉が唐突に途切れる。リッカが大きく咽込んだのだ。咳と共に血が飛び、タハトの胸を染めた。
 鮮血だった。やはり、タハトの鈎爪はリッカの肺を貫いていたのだ。
 タハトは急いでリッカの顔を横に向け、背を軽く叩いた。仰向けにしていては、血に溺れてしまう。暫くすると喀血は一度収まったが、尚も苦しそうな喘鳴が続く。
 弱り続けるリッカの姿を目にし、タハトは自分を責めた。
 相手がリッカだと気付きさえすれば、このような事にはならなかっただろう。戦線に加入した彼女がこの場にいる可能性も考慮できたはずだ。
 珍しい変化種ではないとしても、黒い大型犬とリッカを結び付けて考えなかった自分が腹立たしかった。
 『どうして、貴方だと教えてくれなかったんですか』
 この状態のけが人にそれを言っても意味はない。タハトは何も口にせず、ただ後悔に苛まれながら、愛する人の背をさすった。
 と、背中の筋肉に僅かだが動きがあった。
 「仰向けに…」
 微かだが、はっきり聞こえた。傷に触らぬよう、慎重に、リッカが身を回すのを援ける。 
再び、二人の目が合った。
 「あんたは自分の役目を果たしただけ…気に病む必要はないわ」
 タハトを慰めるリッカの声は息も絶え絶えだが、目には精気が残っていた。心を読んだかのような気遣いに、タハトの眼からまたもや大粒の涙が零れた。
 「これ以上話したら…」
 リッカの身体からは力が抜け、限界が近づいていた。タハトはこれ以上の発言を止めようとしたが、彼女は手を掲げ、それを遮った。
 顔に触れようとしているようだが、その力も残っていないのだろう。微妙な高さで止まったまま、小さく震えている。タハトはそれを優しく包み込み、自らの頬に押し当てた。
 リッカの頬が緩み、特徴的な三白眼に柔らかな眼差しが宿った。
 「碌な人生じゃなかったけど、最後に好きな人の腕の中で死ねるなんて、中々上出来じゃない。ありがとう」
 目の端に光るものをため、こちらをじっと見る。タハトは何も言えず、嗚咽を繰り返した。
 「お願い…しっかり…して」
 リッカの声が急速に弱々しくなった。タハトは唾を飲み込み、繋いだ手に力を込めた。
 「ロクのこと…様子…」
 最後まで言うことが出来ず、語尾が尻すぼみになる。
 「ええ、何度でも会いに行きます。ロク君のことは任せてください」
 よく聞こえるよう、声に力を込めた。
 リッカは安心したように微笑んだが、その目からは徐々に光が失われかけていた。
 手を通して、リッカの四肢から生命力が失われていくのが鮮明に伝わった。
 「リッカさん!」
 もう、タハトの声が伝わっているのかも分からない。それでも、最後までリッカの名を呼び続ける。
 すると突然、完全に力を失ったと思われたリッカの腕が素早く動き、タハトの首に巻き付いた。死にかけの人間とは思えない腕力で頭を引き寄せられる。
 次の瞬間、二人の唇が重なった。即座にリッカの舌がタハトの口に侵入し、熱い接吻に変わる。
 舌の上に、鉄の味が広がった。
 タハトにとって初めての接吻だった。戸惑いはあったが、愛する人の最後の行動に応え、タハトも固く抱擁を返す。
 ほんの数秒の後、リッカが再び喀血した。口の中に、大量の血が流れ込む。
 それでも、リッカの腕は緩まない。寧ろ、より強く、タハトの頭を引き寄せた。
 唇の隙間から、止めどなく血が滴り落ちる。二人の身体とその周辺は、既にリッカの血液にまみれていた。
 喀血が収まった時、女の体に生命の灯は残っていなかった。リッカは接吻の最中絶命したのだ。
 その身を静かに横たえ、立ち上がる。
 口の中にはまだ、リッカから注がれた血が残っていた。タハトは喉を鳴らしてそれを飲み下し、廊下の奥に目を向けた。
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登場人物紹介

タハト

本作の主人公。オオハヤブサの変化能を持つ私立大学生。

卓越した飛行能力を持ち、競技飛行猛禽の部では、全国屈指の実力。

リョウ

タハトの友人。強大な力を持つ”特定変化規制種”の一つ、水龍に変化する。

社会から差別を受け貧しい家庭環境の中、持ち前の要領の良さと努力で名門国立大に進学。

専門は応用化学。

コト

タハトとリョウの幼馴染。変化能はツグミ。

タハトと同じ競技飛行部員だが、成績は地区大会止まり。

溌剌とした性格の持ち主で、常にタハトやリョウを気遣う優しい一面も。

ワカカ

謎のカラス集団に襲われているところをタハトとリョウの2人に助けられる。

国会議員、テス女史の秘書。

筋骨隆々でイカつい見た目だが、博識と落ち着きを兼ね備えた大人の男性。

変化種はコノハズク。

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