第73話 少年
文字数 2,030文字
リョウから借りたビロードの上下は非常に高価なものらしく、着心地が良かった。ズボンの滑らかな生地越しには、龍の固い鱗と強靭な筋肉の動きが感じられる。
今、タハトとスタルの二人は水龍の背に跨り、北へ向け空を飛んでいた。ケイトから西に数十キロ離れた山間部だ。
高高度であるため、景色の変化に乏しく実感は薄いが、かなりの速度だった。
御所を飛び立った後、三人は一度南に向かい、避難所上空を通ってから西に迂回した。仲間を乗せたリョウが南に逃げたと人々に思わせる、タハトの作戦だった。
避難所ではわざと速度を緩めさせ、人々の目に姿を晒させる。そうすることによって目撃情者を増やし、真の目的地を隠した。
そうしてここに至るまで、優に百キロ近くは飛んでいるが、左程時間はかかっていない。どんな鳥でも決して出せない速度である。タハトの胸に、敗北感と羨望の想いが同時に湧いた。
風に飛ばされないよう、リョウが氷で風防を作ってくれていなければ、二人ともとうの昔に吹き飛ばされるか、寒さで凍えていたことだろう。
それでも、透明な風防越しに見えるリョウの後頭部からは、悠々とした雰囲気が伝わって来た。
「お前とリッカは親しい間柄なのだろう」
不意に、後ろから声がかかった。風防のおかげで、すぐ後方に座るスタルの声もよく聞こえる。
「ああそうだ。よく分かったな」
タハトは振り返ることなく答えた。
極力これからの事に集中しようとしていたところに痛い質問である。御所の中庭に埋葬して来た恋人の事が思い出され、目頭が熱くなった。
「リッカの隣に立っていたお前の顔…悲しそうだった。あれは大切な人を失った顔だ」
年端もいかぬ少年の鋭い観察眼に、タハトは舌を巻いた。昔のリョウを思い出させる聡い子だった。
「そんな人を殺さなければならないなんて、お前は哀れなやつだな」
歯に衣着せぬ言い方もリョウ似だ。タハトは振り返り、横目で若王を見遣った。
スタルはその視線を、存外人懐っこそうな目で捕らえたが、そこにもまた悲しみの色があるのが見て取れた。
「あの者は私の友でもあった」
視線を切り、目を伏せる。大人びた少年ではあるが、指で龍の鬣 を弄る姿は年相応でもあった。
「だが、私はお前の事を憎んだりしない。悲しいが、戦争だからな。個人を唾棄しても仕方がない」
大人の都合で振り回されてきたからか、その口調には、諦めにも似た侘しさが漂っていた。
「そうだな」
タハトは一言相槌を打ち、前に視線を戻した。あの場から連れ出してしまったことが、この少年の今後にどう影響するか、じっと考える。
もしかしたら、この子はあのまま置いてきた方がよかったのかもしれない。自身の判断の是非を自問したが、答えは出なかった。
暫く上空にいたことで、龍の背に乗る二人の体はすっかり冷え切っていた。
時折、湯気を立てる液体が口元にふわふわと漂ってくる。二人はこれを飲み込み、体に熱を取り入れた。リョウが空気中の水を集め、作ってくれたものだ。慣れない感覚ではあったが、今はとても有難かった。
右方にあったケイトの街並みも急速になりを潜め、田舎風景へと変わりつつある。目的地の北山が近いのだ。
今頃、ケイト中心部はどうなっているのだろう。南方へ姿を眩ましたリョウと共に、スタルも逃げたことにされたのだろうか。だとしたら、既に御所は制圧されたことだろう。
タハトが居ないことにもじき気付かれるはずだ。極力早く用を済ませ、戻らねばならなかった。
真っすぐ北上していたリョウが緩やかに東へ進路を変更してすぐ、耳元で変化体信号法が鳴った。風防に、リョウが氷を打ち付けたのだ。
『ミエ・タ・ゾ』
リョウの頭は右斜め下に向けられている。その方向に視線を向けると、見慣れた風景が目に入った。
ケイト北部に広がる山々の総称である北山。その斜面の一部がダイコウ薬品の土地として広く整備されていた。
斜面には不釣り合いな鉄筋コンクリートの四角い建物が最上部に建ち、そこから扇状に薬草園が広がる。
建物前には池があるが、これはこんこんと湧き出る清水を溜める人工の貯水池である。そこから薬草園に向けて、一筋の排水路と、新鮮な水を植物に届けるため、幾本もの白い管路が走る。
子供の頃からリョウと共に何度もここを飛んだものだ。眼下の全てが懐かしかった。
だが、記憶にある光景からは、若干の乖離がある。通常であれば、広い薬草園にはちらほらと人の姿があり、植物の世話をしているはずだ。春真っただ中の今時期、薬草園は鮮やかな花と青々とした緑に覆われているのが常だった。
今もそうした草木の営みはあるものの、心なしか元気がない。色彩に優れた鳥の目ではなく人の視細胞で見ているからというのもあるだろうが、それを勘案したとしても、葉の密度や色彩がいつもより劣っているように感じられた。
恐らく、管路上にある給水用の栓が止まっているのだろう。
ここが、三人の目的地だった。
今、タハトとスタルの二人は水龍の背に跨り、北へ向け空を飛んでいた。ケイトから西に数十キロ離れた山間部だ。
高高度であるため、景色の変化に乏しく実感は薄いが、かなりの速度だった。
御所を飛び立った後、三人は一度南に向かい、避難所上空を通ってから西に迂回した。仲間を乗せたリョウが南に逃げたと人々に思わせる、タハトの作戦だった。
避難所ではわざと速度を緩めさせ、人々の目に姿を晒させる。そうすることによって目撃情者を増やし、真の目的地を隠した。
そうしてここに至るまで、優に百キロ近くは飛んでいるが、左程時間はかかっていない。どんな鳥でも決して出せない速度である。タハトの胸に、敗北感と羨望の想いが同時に湧いた。
風に飛ばされないよう、リョウが氷で風防を作ってくれていなければ、二人ともとうの昔に吹き飛ばされるか、寒さで凍えていたことだろう。
それでも、透明な風防越しに見えるリョウの後頭部からは、悠々とした雰囲気が伝わって来た。
「お前とリッカは親しい間柄なのだろう」
不意に、後ろから声がかかった。風防のおかげで、すぐ後方に座るスタルの声もよく聞こえる。
「ああそうだ。よく分かったな」
タハトは振り返ることなく答えた。
極力これからの事に集中しようとしていたところに痛い質問である。御所の中庭に埋葬して来た恋人の事が思い出され、目頭が熱くなった。
「リッカの隣に立っていたお前の顔…悲しそうだった。あれは大切な人を失った顔だ」
年端もいかぬ少年の鋭い観察眼に、タハトは舌を巻いた。昔のリョウを思い出させる聡い子だった。
「そんな人を殺さなければならないなんて、お前は哀れなやつだな」
歯に衣着せぬ言い方もリョウ似だ。タハトは振り返り、横目で若王を見遣った。
スタルはその視線を、存外人懐っこそうな目で捕らえたが、そこにもまた悲しみの色があるのが見て取れた。
「あの者は私の友でもあった」
視線を切り、目を伏せる。大人びた少年ではあるが、指で龍の
「だが、私はお前の事を憎んだりしない。悲しいが、戦争だからな。個人を唾棄しても仕方がない」
大人の都合で振り回されてきたからか、その口調には、諦めにも似た侘しさが漂っていた。
「そうだな」
タハトは一言相槌を打ち、前に視線を戻した。あの場から連れ出してしまったことが、この少年の今後にどう影響するか、じっと考える。
もしかしたら、この子はあのまま置いてきた方がよかったのかもしれない。自身の判断の是非を自問したが、答えは出なかった。
暫く上空にいたことで、龍の背に乗る二人の体はすっかり冷え切っていた。
時折、湯気を立てる液体が口元にふわふわと漂ってくる。二人はこれを飲み込み、体に熱を取り入れた。リョウが空気中の水を集め、作ってくれたものだ。慣れない感覚ではあったが、今はとても有難かった。
右方にあったケイトの街並みも急速になりを潜め、田舎風景へと変わりつつある。目的地の北山が近いのだ。
今頃、ケイト中心部はどうなっているのだろう。南方へ姿を眩ましたリョウと共に、スタルも逃げたことにされたのだろうか。だとしたら、既に御所は制圧されたことだろう。
タハトが居ないことにもじき気付かれるはずだ。極力早く用を済ませ、戻らねばならなかった。
真っすぐ北上していたリョウが緩やかに東へ進路を変更してすぐ、耳元で変化体信号法が鳴った。風防に、リョウが氷を打ち付けたのだ。
『ミエ・タ・ゾ』
リョウの頭は右斜め下に向けられている。その方向に視線を向けると、見慣れた風景が目に入った。
ケイト北部に広がる山々の総称である北山。その斜面の一部がダイコウ薬品の土地として広く整備されていた。
斜面には不釣り合いな鉄筋コンクリートの四角い建物が最上部に建ち、そこから扇状に薬草園が広がる。
建物前には池があるが、これはこんこんと湧き出る清水を溜める人工の貯水池である。そこから薬草園に向けて、一筋の排水路と、新鮮な水を植物に届けるため、幾本もの白い管路が走る。
子供の頃からリョウと共に何度もここを飛んだものだ。眼下の全てが懐かしかった。
だが、記憶にある光景からは、若干の乖離がある。通常であれば、広い薬草園にはちらほらと人の姿があり、植物の世話をしているはずだ。春真っただ中の今時期、薬草園は鮮やかな花と青々とした緑に覆われているのが常だった。
今もそうした草木の営みはあるものの、心なしか元気がない。色彩に優れた鳥の目ではなく人の視細胞で見ているからというのもあるだろうが、それを勘案したとしても、葉の密度や色彩がいつもより劣っているように感じられた。
恐らく、管路上にある給水用の栓が止まっているのだろう。
ここが、三人の目的地だった。