第55話 逃走

文字数 2,381文字

 山頂に向け駆けだしてすぐ、深夜の静寂を切り裂いて警報音が鳴り響いた。思ったよりも早い。
 追手も既に放たれたかもしれない。タハトは隊服に手をかけ、脱ぎ去ろうとした。
 その時、一つの影が頭上を通過し、少し先に降り立った。頭頂部の羽毛が鶏冠の様に跳ねたハシブトガラスだ。
 「クオウ…」
 タハトが立ち止まると、カラスは変化を解き、裸体のまますっくと立った。
 徒手格闘で勝てる見込みはない。ここで戦闘になっても、組み伏せられるか加勢に追いつかれて詰むかの二択だ。タハトは再び、服を掴む手に力を入れた。
 「待て」
 呼び止められ、動きを止める。クオウは両手を上げ、敵意がない事を示した。
 「止めに来たんだろ」
 すぐに攻撃してくることはなさそうだが、こんなところで立ち話をしている暇はない。タハトはいつでも変化できる姿勢を取りつつ、相手を睨みつけた。
 「いや違う。単刀直入に言うぞ。オレも連れていけ」
 今日はもう腹がいっぱいだ。クオウまで何を言い出すのか。くらくらする頭を何とか立て直し、タハトは鋭く問うた。
 「なぜだ?信用できる根拠は?どうしてオレの脱走が分かった?」
 聞きたいことは山ほどあるが、今は時間がない。クオウもそれが分かっているのだろう、簡潔に答える。
 「コトに会いたい。真っ当に生きたい。ここが分かったのは、窓から氷が入ってきた時から、君の事を監視していたからさ。信用に足る根拠はない」
 即答だった。クオウが裏表のない人間だということは分かっている。これ以上の問答は不要であると、直観が告げていた。
 「そうか。ここからは変化して行くぞ。付いてきてくれ」
 幾分緊張を解き、タハトも服を脱ぐ。情報の紙は無くさないようハンカチに掴んだ。これを後肢で掴めば、失くすことはない。
 月光の元、オオハヤブサとカラスが夜空に舞い上がった。
 目立ちすぎないよう、木々の先端擦れ擦れの高さを飛ぶ。この姿であれば、隠れ家まで大して時間はかからないだろう。
 谷底の基地からは未だに警報が聞こえてくる。目を向けると、窓という窓に明かりが灯り、幾つもの照空灯が四方八方に光を投げていた。
 かなりの大騒ぎらしい。リッカの照明弾のおかげで探索の方向は定まっているはず。追手が来るのも時間の問題だった。
 速度を上げよう。そう思った矢先、背後から複数の羽音が近づき、あっと言う間に二人を囲った。
 照明弾が上がった後、リッカ、そしてクオウと言葉を交わしたあの一瞬の隙に縮められていたのだろう。基地からここまで左程の距離はない。仕方のない事だった。
 全部で六羽、複数種の混成隊である。ハシボソガラスが三羽にミサゴが一羽、後の二羽は大会でもよく見かける、機動性に優れたハイタカだった。
 タハト達を包囲する動きから、手練れと分かる。数的不利の中、真っ向勝負をしても勝ち目はない。二人は何とか攻撃を躱しながら、義猿団の隠れ家がある方角へ飛んだ。
 絶え間なく繰り出される攻め手を避けるため、上下左右に激しく動かざるを得ず、進度は遅い。すぐに体中が傷だらけになった。
 猛禽の広い視野の片隅に、団子となった鳥の群れが映った。クオウも苦戦している。
 しかも、あちらに付いているのはハイタカ二羽にミサゴ一羽。機動性と高火力の組み合わせは、タハトが相手をしているハシボソガラス三羽よりも厄介に違いなかった。
 隣に気を取られたこの直後、背中に強烈な衝撃が走った。爪を用いた攻撃が直撃したのだ。肉が切り裂かれる感覚、そして鋭い痛みを感じた。
 一瞬制御不能に陥り、数メートル落下する。何とか体制を立て直すも、次の一撃が直ぐそこまで迫っていた。
 真横からの攻撃。わき腹を狙っている。これを食らえば、この先の逃走は絶望的だ。頭ではそう理解しているものの、躱す余裕はない。タハトは来たる衝撃に備え、筋肉に力を込めた。
 グシャリ。嫌な音がしたが、タハトの体は何ともない。
 代わりに、たった今攻撃を仕掛けようとしていたハシボソガラスが、木々の間に吸い込まれていった。完全に不意打ちだったせいか、意識を失っているようだ。
 その一撃の主は、この場で唯一のハシブトガラス…クオウだ。癖毛をびよびよと揺らし、しゃがれた雄叫びを上げる。
 タハトの窮地を救ったということは、三羽を振り切って来たことを意味する。驚異的な戦闘技術だ。
 空中戦でこれ程頼もしい味方はいない。しかし、安堵したのも束の間、眼下に新たな敵が現れた。
 大型のイヌとオオカミが数頭、真下の林道を疾走している。全員が変化運動着を着用し、背に長い銃を携えていた。
 更に数羽の鳥が追手に加わり、より一層の足止めが図られる。もう、種判別をする余裕すらなかった。
 三、四発、連続して敵の体当たりが掠り、タハトの高度が一気に下がった。
 地上ではイヌ科部隊が変化を解き、銃口をこちらに向けている。水平二連の散弾銃だ。
 仲間に当たらぬよう、タハトの周囲に空間ができる瞬間を待っているのだろう。引き金に指をかけ、微動だにせず機を狙う。
 敵の近くにいれば、発砲はしてこないはずだ。タハトは一羽のカラスに狙いを定めて背後を取った。僅かに残った気力を振り絞り、背中に張り付く。
 しかし当然、黙ってそれを見ていてくれる敵ではない。タハトの平衡を崩そうと、さらに激しく猛攻を仕掛けてくる。
 何とか凌げたのはほんの数秒だけだった。立て続けに強い衝撃を受け、完全に前後不覚に陥る。
 この機を待っていたとばかりに、一斉にタハトから離れる鳥たち。オオハヤブサは恰好の的と化した。
 この窮地の中、クオウの助けももう望めない。タハトは今度こそ死を覚悟した。
 度重なる衝撃による脳震とう、失血による虚脱に呼吸不全、そこに極度の疲労が加わり意識が遠のく中、最後に聞こえたのは幾つもの怒声と悲鳴、そしてヒグマの唸り声だった。
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登場人物紹介

タハト

本作の主人公。オオハヤブサの変化能を持つ私立大学生。

卓越した飛行能力を持ち、競技飛行猛禽の部では、全国屈指の実力。

リョウ

タハトの友人。強大な力を持つ”特定変化規制種”の一つ、水龍に変化する。

社会から差別を受け貧しい家庭環境の中、持ち前の要領の良さと努力で名門国立大に進学。

専門は応用化学。

コト

タハトとリョウの幼馴染。変化能はツグミ。

タハトと同じ競技飛行部員だが、成績は地区大会止まり。

溌剌とした性格の持ち主で、常にタハトやリョウを気遣う優しい一面も。

ワカカ

謎のカラス集団に襲われているところをタハトとリョウの2人に助けられる。

国会議員、テス女史の秘書。

筋骨隆々でイカつい見た目だが、博識と落ち着きを兼ね備えた大人の男性。

変化種はコノハズク。

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