第23話 訓練場
文字数 2,395文字
「作戦開始まで、残された時間は僅かだ。その間に、義猿団屈指の強部隊のもとで最低限の技量を身に着けてもらう」
会議後にブルカハが発した言葉の通り、訓練はその日のうちに始まった。
戦線に無事潜り込めたとしても、構成員として使い物にならなければ敵の信用を得ることはできない。
また、何らかの理由で作戦が敵に知られた場合、討手から逃れながら逃亡することもあり得る。こうした可能性を勘案し、軍人でないタハトにも最低限の能力が求められるということだった。
支給された隊服に身を包み連れて行かれた訓練場は、館から車で三〇分程の山中にあった。
乗せられたのは、幌付きトラックの荷台。両脇に取り付けられた長椅子は固く、しかも悪路が続いたためすっかり尻が痛くなってしまった。昨日乗った乗用車とは雲泥の差である。
運転手のテルベと助手席のリッカ以外の三人は、乗り心地の悪い荷台で移動時間を過ごした。ブルカハ、タナンの両名は、どこかこれまでに無い緊張感を漂わせていた。
その雰囲気に当てられ、タハトも固くならずにはいられなかった。曲がりなりにも、軍隊の訓練に参加するのだ。期待と不安が入り混じった感情を鎮めるため、道中何度も深呼吸を繰り返した。
曲がりくねった狭路を行くと、俄かに視界が開け、トラックはそこで止まった。颯爽と荷台から降りる隊員にタハトも続く。
気持ちの良い広場だった。周囲をモミに囲まれた広々とした土地で、冬枯れした短い草本に覆われている。夏には、一面緑の草地になるのだろう。
土地の中央には、大きな池が澄んだ水を湛え、周囲に生えた枯葦が風に揺れていた。オシドリの番が優雅に水面を滑り、時たま潜水して水草を食んでいる。
池の底を見ると、所々、池底の泥が舞い上がっているのが見えた。どうやらこの池は、地下水が湧き出る泉のようだ。
良い季節であれば、軽食でも持って訪れたいような場所だった。タハトは、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
しかし、次の瞬間、
「整列!」
ブルカハの鋭い号令が、のどかな雰囲気を切り裂いた。
突然の事だったが、テルベら隊員達は迅速な反応を見せた。左から、テルベ、タナン、リッカの順で分隊長の前に並び、踵を揃え、直立不動の姿勢をとる。
慣れないタハトは完全に出遅れる形となってしまった。三人が整列を完了させてからようやく動き出し、もたもたとリッカの隣に並ぶ。
そんなタハトを、分隊長が鬼の形相で睨んだ。肩を怒らせ、鼻息も荒く近づいてくる。目の前で腕を組み、仁王立ちするその姿は、まさに鬼教官と呼ぶに相応しい。
『まずい、殴られる』
瞬時にそう思った。
ハスク共和国軍の軍人は、部下の教育のために暴力も厭わない…。そんな話を聞いたことがある。
官民の違いはあるものの、軍であることに変わりはない。今となってはタハトも分隊の一員。兵士として扱われてもおかしくはないのだ。新兵は上官からの鉄拳制裁を覚悟し、目をぎゅっと瞑った。
ところが、いつまで経っても想像したようなことは怒らない。妙に思い、恐る恐る片目を開く。
そこに居たのは、表情を緩めたブルカハであった。口角がぴくぴくとひきつっている。
騙された!と思った瞬間、隊員たちが腹を抱えて笑い始めた。リッカですらも手の甲を唇に当て、肩を震わせている。
タハトは、恥ずかしいやらなにやらでトホホと眉尻を下げた。隊員達(特にタナン)は相も変わらず爆笑の渦の中だ。ついには、タハトも一緒になって笑いだしてしまった。
ひとしきり笑った後、ブルカハは目尻に溜まった涙を拭き、顔の前で手を合わせた。
「いやー、すまんすまん。道中あんまり緊張していたみたいだから、ついからかってしまった。まあ、あまり固くなるな」
タハトの肩に手を置き、再び破顔する。
突然の事に驚きはしたが、いつの間にか、心身の緊張はどこかへ消え去っていた。流石は部隊の長とでもいうべきか、すっかり見透かされていたようだった。
「でも、いきなりやるんですもん。オレ達もびっくりしましたよ」
やっと笑いを収めたタナンが口を尖らせ非難の声を発した。テルベとリッカも同意を示すように頷き、上司に向けて眉をひそめる。
これに対し、分隊長はしたり顔でニヤリと歯を見せて応えた。
「良い反応だったぞ。日頃から、兵士としての心構えができているな」
このやり取りを見るに、タハト以外にも予告はなかったようだった。そうだとすれば、彼らの迅速な整列は隊としての地力、統率力の高さを物語るものだ。
タハトは横を向き、先輩隊士たちに称賛の眼差しを向けた。テルベとタナンは得意げな目配せを新米にに投げかける。
「冗談はさておき…」
ブルカハの声に、タハトは再び、前方へ注意を向けた。今度は些か真面目な表情だった。
「今の動きからもわかる通り、我々は軍人であり、統率の取れた動きが求められる。そして一時的であれ、その一員として作戦に加わるわけだから君も例外ではない」
ブルカハは掌を上に向け、隊員達の方を示した。三人は手を後ろに回して腰の高い位置で組み、足を肩幅に開いて整列休めの姿勢をとっていた。
こうして彼らと同じ隊服を身に着け、横に立つと、その一員になったことを実感する。タハトは、神妙な面持ちで分隊長の言葉に耳を傾けた。
「軍のような組織で横行している、暴力や恫喝で部下をしごくようなやり方は好きじゃない。とはいえ、君はもう秘書室の研修生ではなく、一人の兵士だ。短期間で技量を身に着けてもらうためにも、多少は厳しく接することになる。いいね?」
二週間の後、工作員として危険な組織に潜入するのだ。当然の事だった。
タハトは承知したことを伝えるため、「はい!」と元気よく返事をした。ところが、
「『はい』ではなく『了解』だ!」
いきなり、鋭い声で指摘が入る。
「了解!」
タハトは慌てて言い直した。
会議後にブルカハが発した言葉の通り、訓練はその日のうちに始まった。
戦線に無事潜り込めたとしても、構成員として使い物にならなければ敵の信用を得ることはできない。
また、何らかの理由で作戦が敵に知られた場合、討手から逃れながら逃亡することもあり得る。こうした可能性を勘案し、軍人でないタハトにも最低限の能力が求められるということだった。
支給された隊服に身を包み連れて行かれた訓練場は、館から車で三〇分程の山中にあった。
乗せられたのは、幌付きトラックの荷台。両脇に取り付けられた長椅子は固く、しかも悪路が続いたためすっかり尻が痛くなってしまった。昨日乗った乗用車とは雲泥の差である。
運転手のテルベと助手席のリッカ以外の三人は、乗り心地の悪い荷台で移動時間を過ごした。ブルカハ、タナンの両名は、どこかこれまでに無い緊張感を漂わせていた。
その雰囲気に当てられ、タハトも固くならずにはいられなかった。曲がりなりにも、軍隊の訓練に参加するのだ。期待と不安が入り混じった感情を鎮めるため、道中何度も深呼吸を繰り返した。
曲がりくねった狭路を行くと、俄かに視界が開け、トラックはそこで止まった。颯爽と荷台から降りる隊員にタハトも続く。
気持ちの良い広場だった。周囲をモミに囲まれた広々とした土地で、冬枯れした短い草本に覆われている。夏には、一面緑の草地になるのだろう。
土地の中央には、大きな池が澄んだ水を湛え、周囲に生えた枯葦が風に揺れていた。オシドリの番が優雅に水面を滑り、時たま潜水して水草を食んでいる。
池の底を見ると、所々、池底の泥が舞い上がっているのが見えた。どうやらこの池は、地下水が湧き出る泉のようだ。
良い季節であれば、軽食でも持って訪れたいような場所だった。タハトは、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
しかし、次の瞬間、
「整列!」
ブルカハの鋭い号令が、のどかな雰囲気を切り裂いた。
突然の事だったが、テルベら隊員達は迅速な反応を見せた。左から、テルベ、タナン、リッカの順で分隊長の前に並び、踵を揃え、直立不動の姿勢をとる。
慣れないタハトは完全に出遅れる形となってしまった。三人が整列を完了させてからようやく動き出し、もたもたとリッカの隣に並ぶ。
そんなタハトを、分隊長が鬼の形相で睨んだ。肩を怒らせ、鼻息も荒く近づいてくる。目の前で腕を組み、仁王立ちするその姿は、まさに鬼教官と呼ぶに相応しい。
『まずい、殴られる』
瞬時にそう思った。
ハスク共和国軍の軍人は、部下の教育のために暴力も厭わない…。そんな話を聞いたことがある。
官民の違いはあるものの、軍であることに変わりはない。今となってはタハトも分隊の一員。兵士として扱われてもおかしくはないのだ。新兵は上官からの鉄拳制裁を覚悟し、目をぎゅっと瞑った。
ところが、いつまで経っても想像したようなことは怒らない。妙に思い、恐る恐る片目を開く。
そこに居たのは、表情を緩めたブルカハであった。口角がぴくぴくとひきつっている。
騙された!と思った瞬間、隊員たちが腹を抱えて笑い始めた。リッカですらも手の甲を唇に当て、肩を震わせている。
タハトは、恥ずかしいやらなにやらでトホホと眉尻を下げた。隊員達(特にタナン)は相も変わらず爆笑の渦の中だ。ついには、タハトも一緒になって笑いだしてしまった。
ひとしきり笑った後、ブルカハは目尻に溜まった涙を拭き、顔の前で手を合わせた。
「いやー、すまんすまん。道中あんまり緊張していたみたいだから、ついからかってしまった。まあ、あまり固くなるな」
タハトの肩に手を置き、再び破顔する。
突然の事に驚きはしたが、いつの間にか、心身の緊張はどこかへ消え去っていた。流石は部隊の長とでもいうべきか、すっかり見透かされていたようだった。
「でも、いきなりやるんですもん。オレ達もびっくりしましたよ」
やっと笑いを収めたタナンが口を尖らせ非難の声を発した。テルベとリッカも同意を示すように頷き、上司に向けて眉をひそめる。
これに対し、分隊長はしたり顔でニヤリと歯を見せて応えた。
「良い反応だったぞ。日頃から、兵士としての心構えができているな」
このやり取りを見るに、タハト以外にも予告はなかったようだった。そうだとすれば、彼らの迅速な整列は隊としての地力、統率力の高さを物語るものだ。
タハトは横を向き、先輩隊士たちに称賛の眼差しを向けた。テルベとタナンは得意げな目配せを新米にに投げかける。
「冗談はさておき…」
ブルカハの声に、タハトは再び、前方へ注意を向けた。今度は些か真面目な表情だった。
「今の動きからもわかる通り、我々は軍人であり、統率の取れた動きが求められる。そして一時的であれ、その一員として作戦に加わるわけだから君も例外ではない」
ブルカハは掌を上に向け、隊員達の方を示した。三人は手を後ろに回して腰の高い位置で組み、足を肩幅に開いて整列休めの姿勢をとっていた。
こうして彼らと同じ隊服を身に着け、横に立つと、その一員になったことを実感する。タハトは、神妙な面持ちで分隊長の言葉に耳を傾けた。
「軍のような組織で横行している、暴力や恫喝で部下をしごくようなやり方は好きじゃない。とはいえ、君はもう秘書室の研修生ではなく、一人の兵士だ。短期間で技量を身に着けてもらうためにも、多少は厳しく接することになる。いいね?」
二週間の後、工作員として危険な組織に潜入するのだ。当然の事だった。
タハトは承知したことを伝えるため、「はい!」と元気よく返事をした。ところが、
「『はい』ではなく『了解』だ!」
いきなり、鋭い声で指摘が入る。
「了解!」
タハトは慌てて言い直した。