第十四話

文字数 1,772文字

「そうか。……其方がこの寺を訪れたのは、あれはいつの頃の話であったかの?」
山吹殿は尋ねた。
猫和尚は顔を上げた。
「……あれは壇ノ浦の合戦を終えて、暫くして後の事で御座いました。……私と水鏡はその頃平家方の落ち武者で、命からがらこの湖の畔まで逃げて参ったので御座います」
「壇ノ浦? 源平合戦の頃か? 嘘を申すな。そんなに遠い昔の事では無い」
「はて……?」
猫和尚が腕を組んで宙を見上げる。
「間違えましたか? うーむ。……あれは、おお、そうだ。都で騒乱があった頃でございましょう? 天皇様が北と南に別れて戦っていた頃の事で御座います。私と水鏡は南朝方でありました。楠正成公のご嫡男であらせられる正行殿の家臣として吉野で戦っておったその頃の事で御座います」
「……何で吉野で戦っておるのにここに来るのだ?」
「南朝方は負けて敗走致しました。私と水鏡は追っ手を逃れ逃れてこの湖まで逃げて参りました」
「吉野からはるばるとここまで? 随分と遠い。遠過ぎる」
「壇ノ浦よりは近いでしょう?」
「いや、まあ、そうかも知れぬが……」
「我等は命からがら逃げて参りました」
「うむう……。しかし、それとも違う気がする」
「織田信長に会った記憶が御座います。織田の所で小姓として仕えておった卑しい身分の子せがれが……確か「猿」と呼ばれていた者がえらく出世いたしまして、後には関白にまでも上り詰めました。我らはその者に仕えました」
「……」
「あの天下分け目の合戦、関ヶ原の戦いで、我等は石田三成公の陣営に在りました。戦いは熾烈を極めましたが、小早川めの裏切りで我等の陣は総崩れとなり……」
「……」
「天下泰平の江戸の世でしたが、後半は大変な事で御座いましたよ。あれは天明2年の事で御座いました。あの時はとんでもない大飢饉が起きました。次いで3年の7月には浅間山が大噴火をいたしました。多くの人が亡くなりました。我らは、坂東に行けば喰うに困らぬと誰かから聞いて、それで、坂東までやって来たという記憶が御座います」

「浦賀に異国の船が参って……」
「えっ?」
「浦賀に異国の船が来たので御座います。私がこの花の寺に参ったのはその頃の事で在りましょうか?」
「……」
「私と水鏡はずっと一緒だったので御座います。だが、いつ頃だったか、……いつの間にか離れ離れになってしまい、そのまま長い時が過ぎました。
あれは、そう異国の船が浦賀に参ったと聞いた頃の事でございました。
私はその頃、若狭の寺におったのですが、はるばると水鏡が尋ねて来たので御座います。そして水鏡は私に一幅の絵を見せたので御座います」

猫和尚はその時の事を思い出す様に語った。

「あれは長い冬が終わって水が緩みだし、桜が綻び始めた春先の事で御座いました。水鏡は有り難い絵だと言ってそれを広げて見せてくれました。普賢菩薩様がここに御座りますと言って。これで兄者もようやく悟りが得られると言って」
「だがしかし、絵の中に普賢菩薩様はおられなかったのです。そこにはあなた様だけが……」
猫和尚はそう言って山吹殿を見上げた。

「では、浦賀に異国の船が来たと私に教えてくれたのは、猫和尚、そなたか? ……いや、違うな。そんな訳は無い。では水鏡殿だったのかのう」
山吹殿は言った。
猫和尚は首を傾げた。
「水鏡が? さあ? しかし勿論私では御座いません。私は初めてあなた様にお会いするのですから」
山吹殿は首を傾げた。
「一体誰が私にそれを……?」

「それは私で御座います」
参道の方から大きな声が聞こえた。
その声に山吹殿も猫和尚も振り向いた。
「猫婆!」
「伯母上!」
二人は同時に叫んだ。
「ん? 猫婆?」
山吹殿は猫和尚を見る。

声の主は姿を現した。黒い着物に黒い顔。大きな口と小さな目。ぞれがずんずんと歩いて来る。猫和尚と山吹殿は立ち上がった。クロサキも立ち上がった。近付いて来る女のその異様な風体に驚いた。
「その声は猫婆。あんたが猫婆なのだな!」
「伯母上が猫婆とは? 一体それはどういう……」
山吹殿は言った。
姉ナマズは山吹殿の前に出ると深々と頭を下げた。
「それをあなた様にお教え致しましたのは私で御座いますよ。ああ、ようやくお戻りになられましたな。よくもまあ長い間お隠れになっていました事よ……。ああ、お懐かしい」
姉ナマズはそう言うとおいおいと泣いた。
猫和尚と山吹殿は顔を見合わせた。
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