第八話

文字数 1,632文字

 厳しい冬が過ぎ去り、そろそろ桜の蕾も綻び掛けると言う頃の事で有りました。

「おコイや。ここ数日、あのキジトラの『アイちゃん』の姿が見えぬが、はて、どこへ行ってしまったのであろう?」
 志度は庭のあちらこちらに散らばる猫を見ながら言いました。
「そう言えば、『シマ次郎』の姿も見えぬ・・・」
「さて? そう言われれば、そうで御座いますなあ。旅にでも出たので御座いましょうか?」
 臨月に差し掛かった大きな腹を愛おしそうに撫でながらおコイは言いました。 
「アイちゃんもシマ次郎も若い猫だから・・・まだ死なぬ」
「ああ、そう言えば・・・」
 おコイは両手を打ちました。
「先日、アイちゃんが湖の方に歩いて行くのを見掛けました。きっと湖で魚を獲ろうと思ったので御座いましょう。愛しい旦那様。湖には実は恐ろしい化け物ナマズがいるのです。いえ、私が見た訳では御座いませぬ。旅の途中で村人から聞いたので御座います。きっとアイちゃんは魚を獲りに行ってその化け物ナマズに喰われてしまったので御座いましょう」
 志度はとても驚きました。
「何と!! そんな事は初めて聞いた。その様な恐ろしい化け物があの湖には棲んでおるのか? よく今まで私が無事でここに居られた事よ」
「あら、だって志度様はご立派なお坊様で御座いますから、化け物ナマズも畏れて出て来なかったのでしょう。志度様にはどのような化け物も敵いませぬ。その法力で妖かしなど粉々に打ち砕いてしまいまする」
 おコイはそんな事を言いながら志度に凭れかかります。そしてにっこりと微笑みました。
 志度は子を身籠って輝くばかりに美しさを増した妻の赤い唇を吸うと「そのようなものかの」とまんざらでも無い顔をして、でれでれと鼻の下を伸ばしたのでした。

 しかし、その後も一匹、また一匹と猫の姿が消えて行きました。志度は訝しがりましたが、その都度おコイに上手く言いくるめられて、それもその様なものかと考え、深く追求する事も無く、妻の可愛らしい口を吸い、懐から手を入れてその豊かな乳房に手を這わせるのでした。
 庭の猫達はそんな二人の姿をじっと見ておりました。

 実を言うと、志度には猫が消えて行くのに加え、もうひとつ不思議な事があったのです。それは夜中に妻がどこかへ出掛けて行って、明け方近くに戻るという事がここ数回あったという事でした。
 志度は妻を探しましたが、妻はどこにもいませんでした。これは夜中に厠にでも行って、倒れてしまっているのでは無いかと慌てている内に妻は帰って来ました。
 聞くと、おコイは
「寺の裏の広々とした高台に行き、湖の龍神様に無事にお子様が産まれます様にと願っておるので御座います」と答えました。
「いえ、これは私一人で願わなければいけませぬ。あなた様が御一緒だと龍神様が嫉妬いたしますれば」
 おコイはそう言いました。

 志度は頷きながら聞いていましたが、「はて?湖を一望に見渡せる場所などあったであろうか」と考えました。岩山は深い森に覆われていたので、そんな場所は随分あの岩山を登らなくてはならないのではと考えたのです。
「身重の体でそれは危険では無いのか?」
 志度はそう思いました。
 志度がそう言うとおコイは「山は登りませぬ。おコイはあなた様の知らない秘密の場所を見付けたので御座います。いずれ、あなた様もそちらにご案内いたしましょう。だが、それは今では御座いませぬ」と言いました。

 それから幾らも経たぬある夜半の事でした。
「旦那様。旦那様」
 おコイに呼ばれて志度は目を覚ましました。
「何じゃ? おコイ」
「裏山においでください」
「何故じゃ?」
 志度は半分眠りながら言いました。
「赤子が生まれまする」
「えっ?」
 志度は慌てて飛び起きました。
 ところが、隣の布団を見てもおコイの姿は有りません。
「夢だったのだろうか・・?」
 志度はそう訝しがりました。しかし、何とは無しに胸騒ぎが致します。
 志度は慌てて起き上がると、衣服を整え、明かりを持って外に出ました。
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