第十八話

文字数 2,647文字

 猫和尚は水浸しになりながらじっと岩壁を見詰めていた。
 残り少ない髪からもぽたぽたと水が滴る。

 山吹殿は猫和尚の前で蓮華座を組むと静かに彼を見る。山吹殿の隣には座禅を組む猫羅漢がいる。ハナ子がすりすりと猫和尚に体を擦り付ける。

「山吹殿。水鏡は悟りを得たのですか?」
 猫和尚は視線を山吹殿に移すとそう言った。
「さあ、私は知らぬ」
 山吹殿は答えた。
 猫和尚はまた岩壁に視線を戻す。
 ハナ子は猫羅漢の隣に座る。

 無言の時が流れた。
「あの掛け軸には本当に普賢菩薩様がいらっしゃったのですか?」
「そうだ。あの黒猫の背中には確かに普賢菩薩様が乗っていらっしゃった。それが消えてしまわれたなどと言う事は信じ難い事だ」
「だがしかし、水鏡が私に見せてくれた絵にはあなた様しか描かれていなかったのです。角の生えた美しい黒猫とその背中に山吹の花をあしらった麗々しい台座……。その上に普賢菩薩様はおられなかったので御座います」
「あの黒猫はあなた様で御座いましょう?」
 猫和尚は尋ねた。
「だったら、普賢菩薩様の行方はあなた様がご存じかと」
 そう言ってじっと返事を待つ。
「あれは私ではない。それこそ稀なる偶然じゃ。あの図は父の師で在らせられた阿寒和尚が描かれた図である。私が生まれるずっと前に阿寒和尚は亡くなられた。だから私はあの猫では無いのだ。図の中の普賢菩薩様がどこに行かれたかなどと、そんな事は知らない」

「でも、水鏡は……」
「水鏡殿はそう思い込んでおった様だ。それは違うといくら申しても信じなかった。私は否定するのをやめた。水鏡殿の悲しい顔を見るのは嫌だったのじゃ。優しい鬼であったからのう」
「水鏡は、……ああ、そうで御座いますなあ。優しい心を持っておりました」
 猫和尚は弟の面影を追う様に目を閉じた。
 細面の優しい顔が浮かんで来る。
「兄者」と自分を呼ぶ静かな声を思い出す。

「水鏡殿はあの絵に惹かれておった。よくあの掛け軸の前でそれを眺めておった。あの絵を見ていると心が安らぎ、仏の教えもまるで雨が柔らかい土に染み込む様に心に沁み込むと言っておった」

「是非この絵を兄に見せてやりたいと私に頭を下げたのじゃ。兄者の悟りの助けになると言ってのう。……大切な阿寒様の絵じゃったが、水鏡殿が余りにも必死じゃったから、だから了承したのじゃ」

「そうで御座いますか……」
 猫和尚はそう言うと黙った。

「猫和尚。この世の全ては『空』である。怒りも喜びも悲しみも恨みも哀惜の念も『五蘊』を断ち切ってしまえば、全ては消える。『根』を断ち切ってしまえば迷いの草木も育つことも無く枯れ果てるのと同じじゃ。……いや、実はその『根』さえも空なのじゃ」
「『色即是空』、『空即是色』とは、よく言ったものよのう。正にその通りじゃ」
 山吹殿は言った。
 猫和尚は微かに笑った。
「経も読めぬあなた様が、僧侶である儂にその様な説教を……」
 山吹殿も微笑んだ。

「猫和尚。私は経を必要としないのだ。分かるだろうか?」
 猫和尚は首を傾げた。
「私は既に世界は空であるという事を知っている。それは学んで理解するという事では無くて

いるのだ」
「この世の真理を理解するために経と言うのがある。経は緻密で壮大な理論を張り巡らした大きな伽藍の様なものだ。仏の英知が満ち満ちておる。だが、他方に八百万の神と言う概念がある。この神と言う概念を用いたこの世の理解というものはのう、理論と言うよりも、直感であり全てを包括した感性なのだ」
「八百万の神々と言うのはのう。古の物語だ。経の様に哲理の壮大な大伽藍も構築された理論の美しさも無い。ただ素朴な話があるだけよ」

 猫和尚は首を傾げる。
「昔から神仏は習合して御座った」
「全部が全部、重なり補うものでもあるまい?」
「そうで御座いますか?」
「うむ」

 猫和尚の体は小さくなり、元々の体になった。
 猫和尚は自分の体を撫でる。
「長く親しんだこの体とももうそろそろ別れたい。はて、さて……もう人間に憑依する事も終わりにしてゆっくりと休みたいと考えておるのだが……。ご本尊様にお会いしこの様に言葉を交わすことも出来ました。後は、わが弟の水鏡ともう一度会って、静かに語らいたいものだと思っておりますが……。水鏡は悟りを得たのだろうか……? 水鏡はどの様な修行をして来たのだろうかと……我らは行く道を違えてなおも……」
 猫和尚は言葉を切ったまま宙を見詰めた。

「どうして我らは住処を追われ、あれほど苦しまなければならなかったのか……、その答えが仏の道にはあると、そう我らに教えてくれたあの僧は、今はどこにおるのだろうか」
「我等は果たしていつまでこの世に留まり、苦難の道を歩まねばならないのか……悟りを得て涅槃の地に向かえば、それも終わりになると……」

 猫和尚は口をきりりと結んだまま宙を見ていたが、ふうっと小さく息を漏らした。ここ数時間のうちにめっきり老けてしまった様子だった。

 猫和尚はクロサキを見た。
「クロサキ、猫畜生にしたら、お前は大した猫野郎だ。猫にして置くのが勿体ない位だ」
 そう言って笑った。
 クロサキは「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 猫和尚は離れて立っている姉ナマズの方を向いた。
「猫婆、実際のあんたにも会えた」
 猫和尚は姉ナマズに言った。
「あんたは……思っていた程、ブサイクでは無かったよ。見慣れれば愛嬌のある顔だ」
猫和尚ははははと笑った。
姉ナマズは顔を顰めた。
「余計なお世話だよ。あんたに褒められてもちっとも嬉しくない。猫和尚、悟りはどうするんだ? 救いはどうするんだ?」
 姉ナマズは言った。
「悟りか……うむう、悟りは、暫くの間休みじゃ。俺は一休みをしたい。ああ、随分長い事生きて来たなあ……」
 猫和尚は目を閉じた。
 暫し黙る。

 山吹殿は口を開いた。
「猫和尚。では、私が知っている唯一の経である般若心経を其方の為に唱えよう。今まで私の般若心経を聴いたものは誰一人としておらぬ。伯母上でさえものう。其方の為だけに唱えようと思う。聴いてくれるかのう?」
 そう言ってにっこりと笑った。
 天上の飛天が微笑んだかの様な香しい笑顔であった。

 猫和尚はじっと山吹殿を見詰めていたが、ゆるゆると頭を垂れ、地面に頭を付けて深く礼をした。
「それは誠に……誠に、有難いことで御座ります」
「救われる事の無い、凡愚である私などの為に……なにとぞ宜しくお頼み申す」
 猫和尚は頭を下げたままそう言った。
 山吹殿は頷いた。そして静かに「誰か(りん)を持て」と言った。
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