5
文字数 1,995文字
~嶌梓~
俺のことを何となくでしか覚えていない、と言う雅環菜は、俺から目を逸らして楽譜を見る。
大きなチューバに身を隠されそうなくらい小柄な姿は、以前と変わらない。
「俺は、環菜先輩のこと、覚えてましたよ」
「……そっか」
チューバとフルートの場所はすぐ近くで、環菜先輩は気まずそう。
「はじめまして、千歳唯です。二年で、フルート担当しています」
一方で、担当だと言う先輩は、準備室からフルートを一つ持って来てくれた。
「フルート経験者なんだっけ?」
「はい、小さい頃から楽器習っていて、一通り吹けます」
俺はフルートにサックス、トランペットとピアノとでき……うちは音楽家の家系で、父は指揮者で全国を飛び回っている。
母は元ピアニスト、姉は音大に入り、サックスをしている。
小さな頃から音楽には触れていたのだが、運動が好きなため中学ではバスケ部に入部したものの、俺は高校で吹奏楽をしようと思っていた。
──それは、雅環菜がいたからだ。
再び環菜先輩に視線を戻すと、彼女は俺の方を見ようとはせず、チューバを吹いている。
気まずいのは分かる。
でもそれは、こちらだって一緒だ。
だって俺は、環菜先輩に振られてしまったのだから……。
*
中学二年、環菜先輩と図書委員でカウンター当番をしている時は、正直何とも思っていなかったし、間接的にだが告白をされた時は驚きを隠せなかった。
おっとりしていそうな、口数の少ない先輩、という印象しかなく、恋愛感情は抱いていなかったからである。
でも、これをきっかけに、俺はまだ知らない環菜先輩のこと、少しずつ知っていけたらと思っていた。
環菜先輩に悪い印象はなく、控えめな性格の奥にあるものを知りたい、と思っていたのは、事実。
それなのに、告白はされっぱなし。
やがて、夏休みに入っても、校内で環菜先輩と顔を合わせることなく、俺に間接的に言ってきた大堂美知佳先輩も、特に何も言わない。
何だったんだろ、俺、告られたよね……?
しかし、ぼんやりそんなことを考えている間に、夏休みは終わり、二学期に入ってすぐだった。
「俺、環菜と付き合うことになったんだぁ」
部活終わり、部員達とダラダラ喋りながら駐輪場へ向かっていると、先輩の一人がサラッと言って、心底驚いた。
「環菜って、雅環菜……?」
思わず足を止めて先輩に尋ねると、そうだよ、と頷くではないか。
「え、嶌って、環菜のこと知ってた?」
「あ、あぁ……委員会一緒で」
「そうなんだ。環菜、可愛いよね」
え、何で。あの告白は?
納得がいかずにモヤモヤしていると、他の部員が椎川先輩を小突く。
「椎川、雅さんのこと、ずっと好きだったもんな」
「うん、嫌って言えない性格なのは知ってたけど、OK貰えて嬉しかった。今がチャンスって言った、美知佳の言った通りだった」
どうやら、椎川先輩は大堂美知佳に告白の相談をして、実行したらしい。
「環菜、最近振られたらしくてさ、だからこそ今って言われた」
「えー、相手誰だろ」
「そこは教えてもらえなかった。でも、すぐに俺が忘れさせるし、いいんじゃね」
ハハッと爽やかに笑う椎川先輩の様子に、俺は一瞬ヒヤリとしたが、腑に落ちないまま。
しかし、もう委員会は変わってしまって、そもそも連絡先を知らないため、環菜先輩との間には既に大きな壁ができていた。
普段のマイペースが仇となり、今更連絡先は聞けやしない。
こんなに早く事態が変わるとは思っておらず、余裕をかいて、環菜先輩の隣にはもう、違う彼氏がいる。
動かなかったのはお互い様なのに、そこから俺は、急速に環菜先輩のことが気になり始めてしまった。
俺の方が先だったら、知らない一面を見せてくれていた?
どうして椎川先輩の告白を受けたんだろう。
好きだった?
じゃあ、俺なんか、ホントは好きじゃなかった?
でも、チャラチャラ軽い感じには見えない。
だが、たまに廊下ですれ違う時は、決まって目を逸らされ、もう俺のことなんか目の端にも映っていないのか。
俺自身、たまに告白を受けることはあっても、断っていたのは、心の底では俺のことを見ない環菜先輩がいたからかもしれない。
それから、三年はあっけなく卒業し、学年が上がった。
あっけない最後。結局環菜先輩とは、委員をしていたあの一ヶ月しか言葉を交わすことはなかったのだ。
腑に落ちないモヤモヤだけが心に残り、俺は取り残されたこの一年、環菜先輩を忘れることができなかった。
この感情を一体何だと言うのだろうか。