第100話 「じゃあね、坊や」

文字数 1,325文字

 三月の春休みになった或る日、哲司は一人で出かけたいと言い出した。
「ちょっとジャズ喫茶でモンクやパーカー、ガレスピーやローチなどを聴いて来たいんだ」
彼はそんな風に主張した。
 麗子はそれまでにも何度か彼に連れられてロックのクラブやジャズ喫茶に出かけてはいたが、其処は彼女にはとても耐えられる所ではなかった。騒音と言い、ガキどものパンクっぽい態度と言い、周りで引っ切り無しに起こる下らない騒ぎと言い、兎に角、そう言ったものは彼女の好みではなかったのである。
 そんなことがあった数日後の夜、哲司が外出先から電話を架けて来た。
「今日はちょっと遅くなるから」
その夜、明け方近くに戻って来た彼は、そろっとベッドの中に潜り込んで来た。
 
 そして、四月のある晩、とうとう彼は帰って来なかった。
麗子は一晩中、怒りと吐き気に捉われて胃の辺りを痙攣させながら、眠ることも出来ずに横たわっていた。
哲司から以前に聞いたことのあるクラブや喫茶の幾つかに電話を入れてみたが、聞こえて来たのは、不躾な声と騒音だけだった。
 麗子は然し、時間が経つに連れて冷静さを取り戻し、二人のこれまでのことを顧みて考えた。
わたしが歳上で、然も、年齢差が在り過ぎるからだろうか・・・自分に若さと美貌が足りない所為だろうか・・・知性も不足していて彼に対しても優しさが足りなかったのかしら・・・姉さんぶって独善的に振舞い過ぎたのだろうか・・・年若い彼に対して寛容さが足りなかったのだろうか・・・これでなきゃ駄目と自分の世界の規範を押し付けようとしたのだろうか・・・そう言った諸々のことが彼を圧迫し息苦しくしたのだろうか・・・
彼は男の誇りと言う奴に苛まれ始めたのだろうか・・・色々な勘定を女の私に払わせるのが堪らなくなったのだろうか・・・傷ついた男の誇り、ヒモのような後ろめたさ、自立への強い欲求・・・
麗子は自分を責め、反省もした。が、然し、それは所詮、答があって無きようなものだった。彼女は一睡もせずに朝を迎えた。
 
 翌日、昼近くになって、すっかり憔悴した麗子は祥子を誘ってランチを共にすることにした。
その時、マンションの前の大通りに赤いクーペが停まった。
哲司が助手席から降りて来た。
若いロングヘア―の学生風の娘が運転席に座っていた。
哲司は顔を上げて麗子を見たが、直ぐに眼を逸らした。
「おはよう!」
麗子の方から声を掛けた。
「俺、荷物を取りに帰って来たんだ」
哲司が応えた。
「そう。そうだと思ったわ」
麗子が言った。
「じゃあね、坊や」
麗子は哲司の前を通り過ぎて駐車場の方へ行こうとした。その時、哲司はロングヘア―の娘の方をチラリと見て、気にしながらも麗子の腕を掴んだ。
「俺・・・あんたに一言、礼が言いたくて・・・あのう、俺・・・」
「何も言わないの!さっさと行きなさい」
 麗子はそう言うとどんどん歩き出した。
後ろを振り向かずに建物の角を曲がると、サヨナラ、をするかのように軽く手を挙げて駐車場の方へ消えて行った。
その時、麗子は身体中がふわりと浮き上がるような、不思議な解放感が全身を駆け抜けるのを感じた。
「何も言わないのよ!」
今度は自分自身にそう言うと、麗子はあっと言う間に愛車に乗って其処から走り去って行った。
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