第21話 飼い犬が芸大生新田次郎の手を噛んだ

文字数 1,150文字

 或る夏の日曜日の夕暮れ、麗華は飼い犬の柴犬を伴って散歩に出た。
家の門を出て二、三歩行くと、向うからやって来た学生風の男女五人連れと行き交った。
「まあ、可愛いワンちゃん!」
連れの一人がそう言って手を差し出すと、日頃人懐きの良くない柴犬が目を細め尻尾を振って、クンクンとじゃれ合った。頭を撫でられ喉を擽られて犬は更に愛想を振り撒いたが、後ろに居た一人の男子学生が同じ様に手を差し出した途端に猛然と吠え始め、驚いた麗華は慌てて繋いでいた紐を手元に引き寄せた。
「あっ!」
男も驚いて一旦手を引き込めたが、彼が何の悪気も無く、もう一度手を伸ばすと、犬は、がぶりとその手に噛みついた。
「痛ぇ!」
引き込められた手から忽ち血が滲み出て来た。
「ご免なさい!直ぐ手当てをしますから、どうぞ家の中へ入って下さい」
詫びながら麗華は彼等を門の中に招じ入れ、柴犬を庭木につないで、玄関の引き戸を開けた。
彼女が薬箱と包帯を持って戻ると、手を噛まれた男子学生がホールの上がり框に腰掛け、他の連中は立って彼を見下ろしていた。噛まれた手は赤い布で被われていた。
「まあ、大変な血だわ!」
愕いて叫んだ麗華に連れの一人が言った。
「違うんです。ハンカチが赤いんです」
胸を撫で下ろした麗華は徐に手当てを始めた。
「少し滲みるかも知れないけれど、我慢してね」
手当てをする間、麗華は彼の名前を訊ねた。
「お名前を伺っておいても良いかしら・・・」
新田次郎と言う二十一歳の芸大生だった。
芸大は麗華の邸宅から真東へ数キロ入った北白川に在った。彼はその大学の美術科に在籍して居ると言う。連れの連中も皆、同級生だった。
「で、あなたはどの辺りから通っているの?」
彼は麗華の邸宅と大学との丁度中間地点ほどの位置に在る小さな農場の息子だった。
麗華は何とはなしに、少しの間、気晴らしに若い学生たちと饒舌を交わした。
彼女は傷の手当てを終え包帯を巻き終わっても、話に気を取られて、次郎の手を握ったままだった。
「もう、良いですから」
彼はそう言って手を引っ込めた。
 恥にかむような表情を浮かべた次郎の貌を見て、麗華は何故か急な羞恥を覚えた。眉の濃い、きらきらと敏捷そうな黒い眼だった。日焼けした顔色からは凡そ画学生には見えず、スポーツ選手の如き印象があった。真実に絵なんか描けるのだろうか、と思ってふと可笑しくなり、その瞬間に麗華は次郎を好もしく思った。
 彼女は思ったのである。
誰かを愛すれば良いんだわ。あの全き愛の形によって嘗て沢本としたように・・・。あの空虚な三年という時間を取戻し、あの虚妄から逃れる為に、私は誰かを愛そう。創られた私が今度は他の誰かを創りながら愛そう。あの全き愛の一致で私が自分自身の内に見たものをもう一度実体有る誰か他の愛の対象に与えれば良いのだ・・・。
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