第1話 初デート

文字数 3,156文字

 午後四時半を過ぎて、小田靖彦は得意先との商談を終え、会社への帰り道を急いでいた。彼が運転するブルーバードの助手席には同じ本社営業部の田沼龍二が顔をほころばせて乗っていた。靖彦と龍二は同期に入社した営業の相棒だったが、彼等は今日、自社の新商品を念願の得意先へ納入する契約を締結してその達成感に気持を昂ぶらせていた。それに、靖彦には自然に口元がほころぶ原因がもう一つあった。彼は今日これから、好意を抱いている小野光子と初めて二人切りで食事を共にすることになっていた。光子は地元の商業高校を卒業して本社経理課へ配属され、売上高や売掛金、回収額や未収などの売上事務を担当していたので、営業の靖彦とは仕事の上での確認や問い質しで、時折、言葉を交わすことがあった。彼女は色白のふっくらとした頬に大きめの潤んだ瞳、愛らしい口元にはいつも優し気な微笑を湛え、凡そ刺々しさなど微塵も感じさせない穏やかな二十二歳だった。三つ歳上の靖彦は太い眉に涼し気な眼、筋の通った鼻梁の下の口元には意思の強さが滲み出て、なかなかのイケメンだった。二人は互いに好感を持ち合っていた。
 つい先日のことだった。
靖彦は共に仕事をする営業アシスタントの中村祥子から囁やかれた。
「光子はあなたが好きみたいよ。あなたの方はどうなの?一度デートに誘ってみたら?」
祥子と光子は高校の同級生で一緒に同じ会社へ就職した仲の良い友人同士だった。靖彦はその夜、光子の自宅に電話を入れて夕食を共にする約束を取り付けた。
 交差点で信号待ちをしながら靖彦は考えていた。
今からだと五時少し前には会社へ帰り着く、上司に今日の成果を報告しパソコンに営業日報を打ち込めば一日の仕事は終わる。約束の六時半にはゆっくり間に合うだろう・・・
 眼の前の信号が青色に変わって靖彦が車を発進させようとしたその瞬間、一台の自転車が靖彦の視界を掠めた。靖彦は慌ててブレーキを踏み込んだが、一瞬、間に合わなかった。自転車の後輪に車の左前部が接触して自転車は転倒した。横断歩道に横たわったのは若いサラリーマン風の男だった。助手席に乗っていた龍二が直ぐに車から跳び降りて男を助け起こし、靖彦が駆け寄って声を掛けた。
「大丈夫ですか?怪我はありませんか?何処か痛むところは無いですか?」
自転車を起こして立ち上がった男は、背広の裾を払いながら、なに変わらぬ表情で答えた。
「大丈夫です。特に痛むところも怪我も有りません、真実に大丈夫です」
だが、靖彦も龍二も大企業の営業マンだった。対処すべき方法と手順はわきまえていた。男の身体の具合だけでなく、後々に何かの齟齬が在ってはいけないと、男を医者に診せることを咄嗟に判断した。
「真実に大丈夫かどうか、念の為に病院へ行きましょう。診て貰って何も痛むところや悪いところが無ければ、それで一安心じゃないですか」
そう言って、直ぐ近くに在った救急外科病院へ男を搬送した。自転車は龍二が乗って運んだ。診察を待つ間に靖彦は会社へ電話を入れたが、上司が不在だったので、総務課長に事の次第を報告した。暫くすると、総務課から中年の担当者が慌しくやって来て相手の男に挨拶をし、名刺を差し出した。男は恐縮して立ち上がり、自らも名乗って名刺を交換した。
問聴診をし、手足や背骨のレントゲン撮影をし、最後の診察を終えた結果は、身体に異常は全く無かった。靖彦も龍二も総務担当者も、そして、相手の男も、一様にほっと胸を撫で下ろした。
診断書を書いて貰い治療費の精算をし終わった時には、時刻は午後の七時を少し回っていた。
 靖彦の心はざわついた。
いくら何でも、もう待ってはいないだろう・・・約束の時間は既に一時間以上も過ぎている・・・携帯電話の番号もメールアドレスも分からず連絡のしようがなかった・・・悪いことをしちゃったなあ・・・
待ち惚けを喰わされた光子の気持を慮って、靖彦は詫びのしようもない自責の念に駆られた。
車に乗り込むと龍二が言った。
「今からでも行って来いよ。ひょっとして待っているかも知れないじゃないか。とにかく自分の眼で実際に確認することだよ、な。営業日報は俺が書いておくからさ」
車は龍二が運転して靖彦を待ち合せ場所まで連れて行った。事故った靖彦に気忙しく運転させる訳には行かないという龍二の心遣いだった。
 待ち合わせの場所は京都の東の端だった。八坂神社の大鳥居前に在る祇園会館の前だと言う。会社の連中や知合いに極力出逢わないように用心した故だ、と靖彦は言った。
混み合う夕暮れの街中を、二十分近く車を走らせて祇園会館の見える辺りに到着した時、二人が眼にしたのは、しょんぼりと空を見上げて一人佇む光子の淋し気な姿だった。
居たあぁ!・・・
靖彦は一遍に胸が熱くなった。
待っていてくれた、一時間近くも!・・・
靖彦だけでなく龍二の胸も震えた。
靖彦を光子から見えない処で車から降ろした龍二は片目を瞑り、手を挙げて会社へ引き返して行った。
 四つ角を曲がって駆けて来る靖彦の姿を眼にした光子の顔が瞬時にしてパッと輝いた。
やっぱり来てくれた・・・待って居て良かった!・・・
だが、眼の前に立った靖彦の顔を見た途端に、光子の眼から大粒の涙がぽたぽたと滴り落ちた。光子は顔を覆って忍び泣いた。靖彦はどうして良いか判らずにただおろおろと光子の前に立ち続けた。
 やがて、二人が向かった先は祇園町から直ぐ近くの、甘党の店「大原女屋」の二階に在る和食レストランだった。
「済まん!悪かった、長いこと待たせてしまって」
そう詫びて靖彦は事の次第を詳らかに話した。
「そうだったの、大変だったわね。でも、相手の人にもあなたにも何事も無くて良かったわ。これからも気を付けてね」
そう言って光子はスマホの電話番号とアドレスを靖彦に教え、靖彦も自分のそれらを光子のスマホに入力した。
素面ではなかなか気持が解れないと思った靖彦は光子に聞いた。
「少しお酒を飲まないか?」
意外なことに光子は、私は日本酒の熱燗が良い、と答えた。
「へえ~、格好良いね」
それから二人は銚子と盃で差しつ差されつ熱燗を嗜んで語り合った。仕事以外の私事も舌滑らかに口を吐いて出た。
 靖彦は富山県高岡市に生まれ育ち、大学へ入ってからは京都に一人住まいで、今は会社の近くのワンルームマンションに住んで居ると言う。両親と弟の四人家族で、父親は地元中堅企業の部長だが、母親は継母だった。
「生みの母は早くに他界して、弟は腹違いなんだ」
靖彦はさり気なく言ったが、光子は靖彦の生い立ちを察して少し心が痛んだ。
 光子は京都では有名な老舗和菓子店の次女だった。
「姉は既に婿を取って店を継ぐことになっているけど、両親はわたしにも婿を取らせて分家の店を持たせようとしているらしいの」
それを聞いた靖彦は、えっと思って、心を少し曇らせた。
「でも、私は婿を取る気は全く無いの、和菓子の分家をやる心算も毛頭無いわ」
光子は明るくそう言って靖彦に微笑みかけた。その表情には屈託がないように靖彦には見えた。
 レストランを出た後、二人は四条通りを西に向かってアーケードの下を、肩を並べて歩いた。光子は中肉中背で太からず細からず、中ヒールを履いてゆっくり歩くタイプだった。
急に靖彦が立ち止まって真直ぐに光子の顔を見つめながら、真剣な表情で言った。
「もし俺が嫌いでなかったら、交際ってくれないか!」
「嫌いだなんて・・・」
「なら、良いんだな」
光子もじっと靖彦の顔を凝視して頷いた。
「うん!」
「そうか、有難ぇ!」
二人はまた微笑み合った。
 やがて二人はタクシーを拾い、靖彦が光子を家まで送り届けた。
閑静な住宅街の一角に在る瀟洒な家の門前で、靖彦の乗ったタクシーの紅いテールランプが見えなくなるまで手を振って、光子は彼を見送った。
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