第50話 龍二、惚れた郁子を初めて食事に誘う

文字数 1,662文字

 その頃、田沼龍二には惚れた女性が居た。
同じ会社の人事課に居る中崎郁子だった。郁子は飛切りの美形だった。背中まで垂れた長い栗色の髪、良く動く大きな黒い瞳、ツンと先の尖った鼻、心持ち捲れ上がった唇、身体全体から匂うような色香が漂っている二十三歳だった。ミニの裾からすらりと伸びた足は艶やかで、将に男泣かせの玉の肌だった。然し、郁子は冷たく冴えわたるような美貌ではなかった。愛くるしさの残る可憐な華の趣が在った。
 龍二は営業マンである。仕事のことで郁子と話す機会は滅多に無かったが、ワンフロア―の広いオフィスの通路や出入口で顔を合わせることは偶には有った。一礼して行き交う郁子を見返りながら、龍二はいつも、良い女だなあ、とつくづく思うのだった。郁子が人事課に配属されて本社事務所に姿を現した時から龍二は彼女に一目惚れしていた。
 
 或る日、来客との商談が遅れて居残り仕事になった龍二が、湯沸かし場へ飲み終えたコーヒーカップを洗いに行くと、其処に郁子が居た。
「あっ、田沼さん。カップは其処に置いておいて下さい。私が一緒に洗いますから」
「そう?じゃ、頼む、ね」
「はい、解りました」
「然し、君も遅くまで大変だね、未だ終わらないの?」
「いえ、これを洗ったらもう帰りますから」
「そうか、僕ももう直ぐ終わるんだけど、良かったらそこら辺まで一緒に帰らないか?」
断わられるかな、と龍二は思ったが、郁子は、一瞬躊躇いはしたものの、はい、解りました、と答えた。
「じゃ、君がオフィスを出たら直ぐに僕が後を追うから、正面玄関を出た辺りで落ち合うことにしよう」
龍二の胸は躍っていた。憧れの郁子と初めて二人で話が出来ることに顔が自ずとほころんだ。
 超高層の会社ビルを出ると龍二は直ぐに郁子に追いついて肩を並べた。
話す間も無く、本社前のバス停にバスが到着して二人は慌てて乗り込んだ。バスの中は、ラッシュアワーを過ぎていたにも拘らず、結構に混み合っていた。龍二と郁子は身体をくっつけ合うようにして吊り革に摑まった。郁子は餅肌だった。龍二は身体が吸い付けられて離れないような感覚を覚えた。そのままの姿勢で龍二が訊ねた。
「人事課でどんな仕事をしているの?」
「わたしの主な仕事は、お給料と社会保険と教育研修の実務です。田沼さんは毎日お客様廻りですか?」
「僕は営業マンだから、毎日、注文を頂く為に得意先の間を奔走しているよ」
「そうですか。大変ですわね」
「ところで、斎藤栄一は元気でやっていますか?」
「はい。斎藤さんは私とペアで仕事をする頼もしい先輩です。田沼さんは斎藤さんと同期の入社なんですってね」
「あいつと富山へ赴任した小田と僕の三人は、百人以上も居る同期生の中で、今でも親しく付き合っている仲間だよ」
「良いですわね、親しく付き合えるお友達が居らっしゃって。女にはそういうお友達がなかなか出来ませんわ、嫉妬や妬みや虚栄心がいろいろ絡んで・・・」
郁子は少し淋しそうな貌をした。
龍二は郁子の気持を引き立てるように話題を変えた。
「君はいつもこのバスで通勤しているの?」
「ええ。田沼さんもこのバスでしょう?」
「えっ?良く知っているね」
「わたしは人事課員ですよ。大抵の人の通勤経路は存じ上げていますわ」
「そうか、そうだったな、知っていて当たり前なんだ」
二人は微笑んで眼を見交わし合った。郁子の眼は黒い瞳が動く度に怪しげな茶色い光を湛えて光った。何とも官能的な眼だった。
 四条大橋を渡って川端通りの東詰めで停車したバス停で、龍二に別れの挨拶をした郁子が降車すると、彼女に続いて龍二も降り立った。
「あらっ、田沼さんの降りられるのは、もう少し先の祇園石段下じゃないんですか?」
「流石は人事課員だね、良く知っているねぇ」
龍二は感心顔で言ってから、郁子を誘った。
「この先に有名な老舗のレストランが在るんだけど、ディナーでも一緒に食べない?」
郁子はちょっと躊躇う素振りを見せた。
「わたしは・・・」
「どうせマンションへ帰っても、お互いに一人で晩飯を食べるだけだ。一緒に食べようよ、ね」
 
 
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