第64話 山崎、商品クレームを喰らって頭に来る

文字数 2,103文字

 その日、クラブ「華」のカウンターで、山崎は少し濃い目のバーボンを飲んでいた。
外は寒かった。高い夜空に満天の星が輝き、月は煌々と冴えていた。身震いしながら飛び込んだ馴染みの店は、程よい暖房で暖かかった。立て続けに呷った酒が次第に廻って来て、冷え切った身体が少し温まり、漸く人心地がついたところで、山崎は先ほど迄の腹立ちを思い出した。
「何を言ってやがる、訳も解らん新任課長が!」
呟くと、カウンターの向こうの女性バーテンが、おっかなびっくりの眼で山崎を見た。
「いや、悪い。こっちの話だ。独り言だ」
「はい」
「バーボンのお替り、頼むよ」
山崎が言うと、バーテンは黙ったまま目顔で肯いて、グラスの氷を入れ替えて酒を注いだ。無口な女性バーテンだが、こういうところが、酒で心身を癒しにやって来る客をもてなす人間には似つかわしい。バーボンの味は実に旨い。
 納めた商品にクレームをつけたのは、あの課長だろう、と山崎は思っていた。
丁重だが冷淡な物言いをする四十五歳前後の男の顔が、山崎の目の裏に浮かんでいる。得意先の資材購買課に最近転勤して来た新任課長である。
 山崎は営業マンである。業界では国内トップと言われる大手上場会社で営業部に配属されてもう五年になる。営業成績は常に上位にランクされ、自社の商品には少なからず自信を持っていた。だが、今日は、山崎が担当する得意先から納入商品が戻されて来た。先方の受入検査でクレームをつけられたのである。
山崎は頭に来た。カッとなって頭の中に火花が散った。
「返って来た商品のサンプルを持って、一寸、得意先へ行って来ます!」
山崎は立ち上がって上司に言った。
「何処が問題なのか、聞いて来ますよ」
「止めろ!」
上司の課長が遮った。
「何だ、その態度は。大事な得意先に対して何を言っているんだ」
「・・・・・」
「何処が問題なのか、納品に行った配送者が聞いて来ただろう。ちゃんと話を聞いて、自分の目で確かめ、早く作り直す段取りを取るのが君の仕事だろうが」
 頭に血が上っても、上司には逆らえない。
山崎は、配送者に返品された商品のサンプルを持って来させ、状況と内容を詳しく聞いて、自分でもそれを確認した。それから自分の席に戻ると工場の製造課長に電話を入れて、作り替えの依頼を行った。パソコンで規格書を引張り出し、作業指図書を書いて製品サンプルを添付した時には、午後八時近くになっていた。
残業の時には、普段は、軽食を摂れるのだが、山崎は腹の減ったことなど忘れていた。それよりも、この程度のことでクレームをつけられたことの腹立たしさが沸々と胸の中に滾って、在った。
 仕事を終えて帰り支度を始めようとした時、営業アシスタントの瀬戸優子がコーヒーを運んで来てくれた。山崎が残業していたので、優子も居残っていたようである。優子は女子大の文学部を出て来た入社三年目の二十四歳で、今や頼りになる山崎の良きパートナーであった。仕事はてきぱきとこなし、なかなか聡明であるが、優しい性格で、時折、山崎に好意を示すこともあった。旅行にでも行って来れば、皆へのお土産の他に特別のものをくれたりもする。
「ありがとう」
山崎はそう言って熱いコーヒーを一口啜った。
「俺も後片付けをして帰るから、君はもう終ってくれて良いよ」
「そうですか。それではお先に失礼致します。カップは湯沸かし場の流しに置いておいて下さい。明日の朝、私が洗いますから」
「うん。解かった」
「では、失礼します」
「有難う、お疲れさん」
優子は山崎に軽く頭を下げて、部屋を出て行った。
 退勤間際に優子が差し入れて呉れたコーヒーで山崎は少し元気を取り戻していたが、それで納得した訳でもないし、胸がすっきりした訳でも無かった。火事場の余燼のようなものが残っていた。
この程度の問題でクレームになったことは今まで一度も無かった。あの新任課長が格好を着けたのだろう。
バーテンが差し出した何杯目かのバーボンを啜りながら、山崎はそう思った。
 得意先と納入業者の間ではこうした軋轢は、時々はあった。理のあるクレームには注文を戴く納入業者の方があっさりと肯く。だが、そうではない、曖昧な、買い上げる立場の強さをひけらかすようなクレームもある。そういう時は、普段よく売っている誇り高き骨っぽい営業マンほど、カッとなる。「何がお客様は神様だ!」と吐き捨てるように呟く。
 げんに山崎も、上司である課長が未だ課長になる前に、訳の解らぬクレームをつけられて血相を変えたところを、入社間も無い頃に一度見ている。あの時、課長は、相手が全部言い終わらぬうちにぱっと席を立ち、「解りました。それじゃ、この商品は全部引き取らせて頂きます」と言って、後も振り向かずに得意先を飛び出したのであった。一緒に同行していた山崎は大いに泡を食ったのを覚えている。
その顧客との取引はそれ切りになった。課長は啖呵を切って、その時は気持ち良かったかも知れないが、相手との事後処理やその後の営業活動に苦労したようであった。山崎が得意先に確認に行くと言ったことに、課長が必要以上に怒ったのは、若い頃の自分のことを思い出した所為かもしれなかった。
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