第61話 俊夫と妻の瑠美、堕胎を決断する

文字数 2,187文字

 翌日の昼休み、食事を済ますと直ぐに、俊夫は会社の診療所を訪れた。
本社に隣接した京都事後場内に在る診療所には週に二回、契約医が終日出っ張って診療に当たっている。
医師は五十過ぎの小太りの男だった。頭は禿げ上がっていたが眼は優しかった。
「どんなことでしょか?」
「実は酩酊児のことについて、ちょっと教えて頂きたいと思いまして・・・」
「ほう、酩酊児とおっしゃると酒に酔った時の?・・・」
「そうです」
「良くご存知ですな」
医師は感心したように何度も頷いた。産婦人科医ではなかったが、やはり、知っているようだった。
「実は友人からちょっと聞きまして・・・」
「なるほど」
「酩酊児と言うのは、やはり、有るのでしょうか?」
「無い訳じゃありませんが、何か心当たりでも有るのですか?」
「今、妻が身籠っている子が、どうもそうではないかと不安でならないんです」
「確かな証拠が有るのですか?」
俊夫は昨日自分で調べたことを全て話した。
「やはり堕さなければいけませんか?」
「あなたはアルコール中毒ではないのですね?」
「はい、そんなには飲みません」
「これは一般的に言われていることですが、酷く酔ってアルコールの血中濃度が高い時には、射精される精子もその影響を受けるのではないか、と思われるのです。子供を作る時は健全な状態で関係される方が一番好ましい訳ですよ」
「酔っていては、絶対、いけませんか?」
「いや、絶対と言う訳ではありません。医学的にも調べるのが難しい問題ですが、外国の学者が調べた結果では、明らかに劣等児が生まれる率が高いと言われています」
「やっぱり・・・」
「ええ、知能指数が極度に低かったり、感情にむらが在ったり、極端な例では、無脳児が産まれたり・・・」
「無脳児?」
「頭は在るが脳みそが無いのです」
「えっ!」
俊夫は小さく叫んだ。
「頭の中が空ん洞で、考えたり物を観たりすることが出来ないのです」
俊夫にはとても想像が尽かなかった。
「まあ、そんなことは滅多に無いのですが、然し、その時に酷く酔っていたことが確実なら、堕した方が無難かもしれませんね」
俊夫はもう何も言えなかった。不気味は恐怖に慄いていた。
「解かりました。有難うございました」
「奥さんにもその点をよく話して納得して貰うことですね」
瑠美は堕すことに反対はしていない。堕して良いと言えば今でも素直に肯くだろう・・・
もう一度、医師に深々と頭を下げながら、俊夫は瑠美の透けるように白い腹の膨らみを思い出していた。

 一週間が経った。
俊夫は毎夜、酩酊児が大きくなる夢に魘された。
彼奴が大きくなって来ている・・・
俊夫が夢に見る酩酊児は、決まって、ぐにゃぐにゃと骨の無い軟体動物のように蠢き、頭だけが水頭症のように馬鹿でかく、振り向いた顔は一つ目小僧のように奇怪で、口が大きく割れている。
昼間想像する姿はもっと明快で具体的だった。苦労して産んだ挙句の子が、低能で良く喋りもせず、親の顔も満足に憶えない。学齢期になっても涎を垂らし、下のものもよう告げもしない。ただ唸り這いずり回るだけで、何も答えない。心の繋がりの無い動物を飼っているようなものである。周りの人の陰口が聞こえる。「あれは親が深酒をして性交した酬いだよ」と。
 その日、夕食の時、俊夫はウイスキーの水割りを飲んだ。酒の力でも借りなければ堕すことを瑠美に切り出せなかった。三杯目を飲み乾した時、瑠美が食事を終えて流しに立った。
「子供のことだけど・・・」
聞こえたのか聞こえなかったのか、瑠美は後ろ向きのまま水道の栓を捻った。
「やはり、堕そうか?」
「堕す?」
水栓を閉じて瑠美が振り返った。
逃れるように俊夫はウイスキーグラスに眼を落した。今まで堕すのに反対して来た自分が急に堕そうかと言い出す、その身勝手さに心が退けた。
「本気なの?」
「うん、お前の悪阻もきつそうだし・・・俺たちは未だ若いんだし・・・」
「・・・・・」
「どうだ?」
瑠美はやつれて大きくなった眼で真直ぐに俊夫を見詰めた。
「私は・・・良いわよ、別に・・・」
「じゃ、明日にでも病院へ行ってみよう」
「随分と早いのね」
「堕すとなったら速い方が良いだろう」
俊夫は薄い水だけになったウイスキーを飲み乾した。
「あなた、どうして急に気が変わったの?」
瑠美は探るように俊夫を見た。
「別に急に変わった訳じゃないんだ。お前が堕したいと言った時、それでも良いかと思ってはいたんだ」
「だって、絶対に産むんだ、と言って私を叱ったじゃないの」
「その時はそう思ったが、色々考えてみると、お前の言う通り、そう急ぐことも無いと思って、な」
瑠美は流しに背を向けたままじっと立ち尽くし、暫くしてから言った。
「あなたの言う通りにするわ」
 翌日、瑠美は初めて妊娠を告げられた病院へ行った。俊夫も会社を休んで同行した。堕すことをしっかり見届けたいと言う思惑があった。
「もうすぐ四カ月ですよ」
診察の後、医者はさも困ったように息を吐いた。
「初めての妊娠は堕さない方が良いんですがね」
瑠美も俊夫も黙り続けた。
「やはり堕しますか?・・・」
無言のまま二人は頷いた。
「惜しいですね。きちんと整っているご夫婦なのに」
そう言うと医師はカルテに横文字を書き込んだ。
「宜しいんですね、奥さん!」
俊夫には目もくれず医師は瑠美を見詰めた。瑠美は何も言わず、少し蒼ざめた顔で頷いた。
俊夫はひどくゆったりした気持になった。
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