第82話 日高の脳裏に、嘗て妻と二人で旅した記憶が蘇った

文字数 1,339文字

 車のドアがバタンと閉まる音がする。諍い合う子供たちの声も波の音に掻き消されて微かにしか聞こえない。エンジンが唸り、タイヤが小石を撥ね上げて、車は走り去った。
日高はふう~と煙草の煙を吐き出した。白い壁を後ろにふんわりと浮かんだ紫煙の輪を眺めながら、今、あいつは何を考えているのだろう、と思った。子供たちを後部シートに座らせ、怒りに眼を引き攣らせてハンドルを握りながら、高速道路を飛ばしている彼女の姿が脳裏に浮かんだ。すると、嘗て二人で鳥取へドライブ旅行をした時の記憶が、ぎらつく真夏の太陽に炙られて砂丘を突っ切って旅した記憶が、蘇えった。

 あの旅の途中、日高は何とか妻に自分を理解して貰おうと努めた。当時は未だ子供も生まれていなかった。車を運転しながら彼はしきりに話し掛けたのだが、妻は眼前に広がる風景に眼を据えて真面に聞こうとはしなかった。
この俺と言う男はどういう人間か、せめてそれだけでも理解して欲しい、と彼は思った。
俺はお前に、この俺と言う人間を丸ごと預けよう、その俺を受け止めることが出来たら、お前も俺にお前と言う人間を丸ごと預けてくれないか、俺はお前の肉体とではなく、お前という人間と寝たいのだ・・・
が、妻は彼をチラッと見ただけで、直ぐに話題を日常生活のあれこれに切り替えてしまった。それは、そんな話は今更何もしたくないの、という彼女の意思表示だった。それっきり、温泉宿に着くまで、彼女は口を利かなかった。
 
 日高はゆっくりとベッドから起き上がった。茹だるような暑さの外を窓から見遣りながらひげを剃った。去年の夏季休暇には何をしていたのだろう、来年の夏季休暇には何をしているだろう、と考えた。冷蔵庫を開けるとウイスキーの小瓶の最後の一本が入っていた。ストレートで一口呑んで、口中を漱いだ。それから、ごみ類を全部大きな青いビニール袋に入れて外に出た。少し離れた所で、隣のハウスの夫妻がワゴン車に荷物を積み込んでいるところだった。ごみ袋をポストの隣にある大きな鉄網の収納庫に入れて、家の中へ引き返した。ラジオからロックン・ロールが流れている。道路を行き交う車の数が増えつつあった。
スーツケースに荷物を詰め、窓とドアに施錠して、鍵を管理人に返しに行く。外へ出ると焼けつくような暑熱で朝靄は消えていた。
 車を運転しながら、東京へ戻ったら直ぐにマンションを捜さなければ、と日高は思った。養育費や慰謝料を払わなければならないから、あまり家賃の高い所は無理だな、出来れば渋谷辺りにしておこうか・・・そして、ベッドとテーブルと椅子を買う。これまで妻と一緒に買い揃えて来たものを、また最初から揃えて行かなくてはならない。トースター、ナイフ、フォーク、箸、カップ、皿、テレビ、ステレオなど、など、など・・・それらが整うまでは友人の山崎の処で世話になろう。彼も離婚して独り暮らしの身だ。きっと解ってくれるだろう。
 MGが一台、小柄なボディーに不敵な表情を漲らせて追い越して行った。助手席には、黄色いスカーフで髪をきっちり巻いたあのグラマラスな女性が座っていた。ハンドルを握っているのは、頬にも顎にも髭を生やした中年の男だった。日高は、見る見る遠ざかって行く車の後姿に手を振って別れを告げた。
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