第83話 主婦となり、母となった奈津子

文字数 2,331文字

 上の二人の子供を学校に送り出すと、奈津子はキッチンの大きなテーブルの前に座って、朝刊紙の第一面に目を走らせた。出て行った筈の子供達が、いつまでもズキズキと疼く歯痛のように、未だ心にしがみ付いている。見えない子供たちが奈津子に触れ、縋りついて、彼女の掛け替えの無い朝の一時にまで割り込んで来る。下の子がイチゴ・ジャムを零して行ったらしく、新聞を持ち上げようとすると、食卓にへばり付いていた。零れたジャムは粘ついてしつこいところが子供に似ている。違いが有るとすれば、子供は濡れた布巾でさっと拭い去ることは出来ない、という点だろう。奈津子は息を止めて、上の部屋で眠っている末の子が泣き出す瞬間を待ち構えた。
 記事を読もうとするのだが、活字が左右に流れて一向に焦点を結ばない。
フランス南部ニースでのテロ事件・・・。大統領が言明したところでは・・・。スポークスマンは本日記者会見で・・・。軍のクーデターに怯えるトルコ・・・。それらの記事の内容がすんなりとは頭に入って来ない。殺戮にせよ災厄にせよ、余りにも規模が大き過ぎて、活字の背後の現実が遠く霞んでしまう。一時に八十人もの人間が轢き殺される情景など、もはや想像出来ないし、クーデターがどういうものかも正確に思い描くことは出来ない。何かの抜け殻のようにぐったりと椅子に凭れかかって、奈津子は壁を見つめた。
 
 奈津子はふと、昔観た映画のことを思い出した。「パリの日本人」・・・。
画家を夢見て独りパリにやって来た十八歳の日本の少女。言葉も解らず、価値観も異なり、習慣や感覚の相違に翻弄されながらも、絵を描くことで大人の女性へと成長して行くハートフル・ストーリー。あの映画を観てから一年というもの、映画の中のヒロインを真似て、せっせと自分の部屋で画架に向かって励んだものだった。あの映画は確か渋谷のアート・シアターで観たのだ。あれは何年だったろうか?美大で絵を学んでいた頃だったから、もう十五、六年も前の筈だ。一緒に観に行ったのは、当時、交際していた同級の日高達夫だった。確か、友人の部屋でドンチャン騒ぎのパーティーをやった時に紹介されて交際い始めたのだった。彼は後に自動車のフェンダーやダッシュボードをデザインしたらしい。あの頃もデザインやイラストは上手かったが、絵は下手な男だった。
 
 上の階で末の子の泣き声がした。此方に来て構ってくれと執拗にせがむ甲高い声。思わず身体が強張り腰の辺りが疼き始めたが、もう一度新聞の紙面に眼を凝らした。
もしあの子を無視出来れば、泣き止むまで放っておくことが出来れば、無造作に引っ叩いて黙らせることが出来れば、ひょっとして、今の暮らしにも耐えられるかも知れない。
 奈津子は、昔ピカソの展覧会を見た後で自分の描いた絵を思い出そうとした。
あれは誰もが抽象表現派になりたいと憧れた冬だった。土日には彼方此方の展開会や画廊に通い、月曜日には皆こぞって、黒と白の大胆な図柄の絵を描き出すのだが、水曜日にはまた意気消沈してしまうのが常だった。
明るい陽光の差し込む広い邸宅のキッチンにじっと座り込んだまま、奈津子は、今の暮らしを白い布で覆ってしまえないものかと、と思った。
 
 無関心の鎧はやはり綻びた。奈津子は二階に上がった。
子供のおむつを取り外し、身体を拭き、細い脚にパウダーを振りかけてから、じっと見つめた。これ以上してやれることは無いのに、未だ何かをせがんでいる。
彼女は、ぎゅっと抱き竦めて黙らせよう、と抱え上げた。生後七か月のその子を身籠った夜も、いつもと変わらぬ義務と責任の味気無い交わりだった。
 子供を抱えて、複製画とポスターの掲げられた階段を降り乍ら、奈津子はまた家を出ることを考えた。その時の手順はもう何度も頭の中に諳んじて在る。樫のテーブルに夫宛の手紙を書き残し、子供たちを実家に預け、衣類をスーツケースに詰めて玄関から出る。その練習を頭の中で繰り返す時の彼女は、いつも二十二歳で、行く先は何時もパリだった。パリに着いたらソルボンヌでフランス語を学び、午後には存分に絵を描く・・・
テレピン油やリンシード油の臭いを彼女は思い出した。キャンバスにパレット・ナイフで勢い良く絵具を塗りたくる時の感触を思い出した。誰もが抽象表現派に手を染めるようになる前の年、彼女はどんなに個性的な絵を描くことが出来たか・・・
「パリの日本人」に出て来たヒロインのアパートメントの内部を奈津子は思い出した。
画架は北側の隅の窓の前に立ててあった。それに、煙突に置かれた植木鉢、鳩、ヒロインの野球帽、「天国への階段」と言う歌・・・
だが、奈津子はパリに行かずじまいに終わり、代わりに結婚したのだった。
 
 電話が鳴った。母からだった。
子供達は元気?偶にはうちにも顔を見せなさいよ。旦那さんは忙しいの?万事順調に行っているのね?
ええ、と奈津子は嘘を吐いた。
順調よ。全て上手く行っているわ。もう最高。何もかも順調よ、順調なのよ・・・
受話器を置いて、まだ自分にしがみ付いている赤子に気付いた時、彼女は泣き出した。
やっぱり駄目、家出なんて出来っこない・・・
夫が如何にも弁護士風のあの深刻な顔で空っぽの洋服ダンスを見詰める様や、犬小屋に容れられた犬を引き出すように子供たちを実家に受け取りに行くところを想像すると、とても耐えられなかった。やっぱり此処に座って、夫や子供たちの帰りを待つしかない。
 
 奈津子はレンジに歩み寄ると、赤ん坊の為の哺乳瓶を温め始めた。
暫くして、赤ん坊をベビー・サークルに入れると、また新聞を開いて、天気予報の欄をじっと見つめた。東京の温度は二十五度、晴れ。明日にでも夜具を虫干ししてみよう、と彼女は思った。
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