第72話 信吾が美沙を大きな自宅に招いた

文字数 1,882文字

 四月のある温かい土曜日の午後、普段は六本木ヒルズのマンションで独り暮らしをしている信吾が美沙を東京の郊外に在る大きな自宅に招いた。
 迎えに来た信吾のベンツ高級サルーンに美沙が乗り込むと、それは皮張りのエグゼクティブ仕様で、サイドステップが付いて居た。側面が全て透明のガラス窓で車内は明るく、高い車窓からの眺めは爽快だった。
サルーンは六本木から北へ一時間ほど走って、美しい邸宅や歴史的建造物が建ち並ぶ閑静な住宅街の一画に着いた。
門を潜って玄関へ、と思いきや、邸宅は見えなかった。緑の芝生を左右に見ながら、丘の上までくねくね上って行くと漸く屋敷が見えて来た。正面には玄関を見上げるように噴水と彫刻がド~ンと構えて在った。
敷地内にあるガレージへ乗り入れて美沙は驚いた。ガレージと言っても、それは巨大だった。スペースの半分ほどに何台もの車がズラリと並んでいて、それもクラシックカーのオンパレードだった。美紗が興味深かったのは電気自動車も一台停まっていたことだった。
 信吾の部屋に通されて部屋の中で初めて二人きりになった時、美沙は自分が特別大事なもののように扱われている気がして快い興奮に満たされた。
書架に立て掛けられたアルバムを指差して美沙が訊ねた。
「見せて貰っても良いかしら?」
「ああ、良いよ」
小学校の校庭で丸い野球帽を被った信吾の写真があった。
暑い夏に、恋人の少女と二人で自転車に乗って撮った写真もあった。
「あらっ、この子、可愛いわね。好きだったの?」
「さあ、いつ頃のことか、全く記憶に無いよ」
それから、誰かの結婚式で出席者の娘たちや親族の皆と楽しそうに笑っている信吾も居た。そうした写真を見ている内に彼女は、自分の知らない過去の信吾の人生に嫉妬を覚えたが、彼女にそうした嫉妬心を起こさせるものまでを含めて、彼に纏わる一切のものをそっくり集約し、それを象徴的に表現したものが即ち、今、彼女の眼の前に厳然と構えて居る信吾と言う一個の人間に他ならないと思った時、美沙は直ぐにでも彼と結婚し、彼の妻として此の邸宅に住みたいと言う気持に駆り立てられた。
 
 ところが、そのまま時を置かずに結婚に進むと言う段取りにはならなかった。それどころか、婚約したことさえも時期が来るまで伏せておくことになった。
「二人は未だ若い。何も生き急いで息苦しい雑駁な世の中に自縄自縛する必要は無いよ」
信吾のそんな言葉に美沙の不満は彼女を駆り立て、信吾にも自分と同じように、もう待ってはいられない、と言う気持にならせてやろうとの思いを急速に高めて行った。彼女は近々に多少の無理をしてでも事の決着を着けようと心に決めた。
「ダーリン!あなた!信吾さん!真夜中に眼が覚めて、あなたの居ない闇を見詰めていると、私、死んでしまいたい気持になるの。あなたが傍に居なければもうこれ以上生きて行けないわ。私にとってはあなただけなの、あなたが全てなの」
美沙はそんな電話を架け、又、信吾の気を引こうとして、自分が持て囃された華やかな宴席の動画メールや写メを送ったりした。
 然し、初心でも鈍感でもない信吾はそんなことで心を動かされたりはしなかった。彼女のメールの中に男友達の名前が出てきたりすると、それは自分に対して気がある証拠だと思い、胸中には彼女に対する軽蔑の気持さえも動いた。彼はそういう結婚の駆け引きなどに心を煩わされる人間ではなかったのである。そうは言うものの、信吾は、いつか美沙と結婚したい、という気持は強く持ち続けていた。
 
 信吾は、東京の煌びやかな躍動の中に力一杯飛び込んで行き、夜遅くまでダンスや酒に興じたりしながら、二つの世界を生きていた。自分自身の世界と歓楽街に彩られた夜の世界の二つである。それで居ながら、彼は正味八時間と言うものをぶっ通しでビジネスの仕事に捧げるのが常で、有力な一族の縁故と、鋭い頭の働きと、体力そのものの豊かさとが相まって、何をしても直ぐに成果を挙げて頭角を現した。彼も又、頭の中が幾つにも小さく仕切られていると言う貴重極まる頭脳の持ち主であり、時に一時間足らずの睡眠をとっただけで元気を回復し、爽やかな顔をして出社するということもあった。そんな訳で、俸給や配当や手数料と言う形で入って来る彼の収入は他の連中とは群を抜いて多額なのは間違い無かった。
 信吾は美沙が自分を愛していることを信じて疑わなかった。が、然し、こんなことをしていたらひょっとして彼女を失うことにならないとも限らない、と不安になり、落ち着かなくなることもあった。そんな時には無性に彼女に逢いたいと思うのだった。
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