文字数 5,056文字

 赤く葉を色づかせた桜の樹に手をかけて、ぼくは、幹の後ろに回り込むように一歩足を踏み出した。
 一瞬、空気の流れが変わったような感じがあった。
 振り向くと、あの見慣れた家は消えていた。高い木々がうっそうと生い茂る山の中に、ぼくはひとりで立っていた。
 ぼくの手がまだ触れている桜の老木だけが、同じ姿でそこにある。唯一の結び目なのだ。オンのいる空間とこの世界との。
 空は青く、高かった。ぼくの知っている空は常にぼんやりと白く、夜にはそれが陰って行くだけのものだった。太陽も月も星も、雲さえも、ぼくは実際に見たことはなかった。空のただならぬ広さに、ぼくは目眩さえおぼえてその場に立ちつくした。
 風が木々の葉をどよもした。乾いた音をたてて落ち葉が舞い散った。
 ぼくは、ぞくりと身震いした。この世界の空気は、ずっと冷たく感じられる。
 でも、行かなければ。
 ぼくは、そっと樹から手を離して歩き出した。
 茂みの中に見え隠れしながら、細い道らしきものがあった。ゆるい下り坂が続いていた。
 いたるところで鳥や小動物に出くわしたが、人の姿はどこにもない。昔、僕が見たあの男は狩人か何かだったのか。それにしても、なぜぼくはこんなところに捨てられていたのだろう。
 ふと疑問がかすめた。オンが拾ってくれなければ、間違いなく死んでいたはずだ。
 はじめて怒りのようなものをぼくは感じた。せめて、赤ん坊のぼくを連れてこの山に来たのが、本当の親でないことを願いたかった。
 だが、まずはハマを探し出すことだ。
 誰かに出会いさえすれば、この世界のことをもっと知ることができる。必要なのは情報だ。魔法使いがどこにいるか、どんな手がかりでもいいからつかみたかった。
 ぼくがハマと会うことはまずあるまいと断言したアオだったが、ぼくの出発に対してはあれこれ助言してくれた。大きな旅嚢に入った旅の荷物は、みんなアオが教えてくれたものだ。水筒や携帯用の調理道具。当面の食料であるビスケット。 
 ぼくがまとっている灰色の頭巾つき外套も、アオが屋根裏から引っ張り出してきた。ハマのものなのだろう。家を離れたことのないオンは、もちろん外套など持っていなかったから。だいぶ大きかったものを切ったり縫ったりして、ぼくに合うようにしたわけだ。
 温かいのが何よりだった。ハマに感謝する気はなかったが。
 ぼくは、どこまでも道を下っていった。しだいに足ががくがくしてきた。こんなに歩くのは、はじめての経験だ。
 ひと休みしようと立ち止まった時、かたわらの茂みががさりと動いた。
 押し殺した生きものの唸り声。身構える間もなく、黒い大きな塊がぼくを押し倒した。
 熱い息を首筋に感じるまで、何がなんだかわからなかった。目の前に、赤く切り裂いたような口があった。鋭く尖った牙が、みごとなほど整然と並んでいた。絵でしか見たことはなかったけれど、まぎれもなく狼だ。
 アオの注意をいまさら思い出した。山には危険な生きものがいるのだ。熊や、こんな狼のような。
 狼の前脚は、ぼくの両肩を地面にがっしりと押しつけていた。ぼくがもがいても、びくりともしない。
 これでおしまいか。
 われながら、情けなくなった。ハマを見つけ出すところか、この世界に来て早々に狼の牙にかかってしまうとは。
 狼の顔は近づくばかりだった。なすすべもなく、ぼくは狼をにらみつけた。狼の深く皺のよった鼻の上に、驚くほど澄んだ緑色の目があった。
 ぼくは、はっと力を抜いた。まじまじと、狼を見つめた。
 狼の双の眼が、驚いたようにぼくを見返した。一呼吸後、狼はふいと顔を背け、ぼくから離れた。ぼくが見守るうち、身をひるがえし茂みの中に駆け去った。
 ぼくは、ぼんやりと身を起こした。
 あの狼には、間違いなく知性があった。
 肩をさすって立ち上がる。
 ただの血に飢えた獣でないことは確かだ。たぶん、魔物。
 ぼくは、深々と息を吐き出した。この世界に来てはじめて会ったのは、人間ではなく魔物だったというわけだ。そのことがどんな最先をしめしているのか、まるで見当がつかなかったけれども。 

 人間には、その日の夕方、ようやく会うことができた。
 魔物に襲われた場所からほどないところに川があり、流れを辿って行くと谷間に小さな集落があった。道端で遊んでいた子どもたちが、ぼくを見つけて騒ぎ立てた。何人かの男女が近づいてきて、ぼくを上から下まで珍しそうに眺めまわした。
「なんだね、あんたは。どこから来た?」
 彼らのひとりが口を開いた。ぼくは、後ろを振り返った。重なり合う山々は、すでに夕日の下で黒い影になっていた。オンが待っている家がどのあたりにあるのか、むろんわかるはずもない。
「旅の途中なんです」
「あんただけで?」
 小さな子どもを抱えた女が、目を丸くして言った。
「親はどうしたの」
「いません、ぼくひとりです」
「おやおや」
 女たちが気の毒そうに顔を見合わせた。
「もう、日が暮れてしまうよ」
「どこかに泊めてもらえませんか」
「村長にきいておやりよ」
 側にいた男がひとつ頷いて、村の奥に引っ込んだ。村長の許しはすぐに出たようだ。戻ってきた男は、ぼくの肩をぽんとたたいて言った。
「リョーの所へ行けということだ。一人暮らしだから、寝場所もある」
 谷間の斜面を背に、小さな庭と家畜小屋がついた同じような木造の平屋が並んでいた。ぼくが通されたのは、少し高台にある家だった。入ってすぐが土間で、板張りの居室に続いている。床に切った炉の前に、男が一人座っていた。
 褐色の髪の毛の、痩せた青年だっだ。眉が濃く、険のある顔立ちをしている。
 ぼくは、はっとした。炉の火の照りぐあいかどうか、一瞬、彼の目が鮮やかな緑色に見えたのだ。
「この子だ。よろしく頼むよ、リョー」
 すでに話はついているらしく、ぼくを連れてきてくれた男が言った。
「ああ」
 リョーは、ぶっきらぼうに頷いた。
「じゃあ、おれたちはまた後で来るから」
 二人きりになって、ぼくは、もう一度まじまじとリョーを見つめた。
「どうした」
 リョーは顔をしかめた。
「あなたは、さっきの・・」
「さっきの?」
「さっき、森の中で狼に会ったんです。緑色の眼の。あの眼は、絶対に獣のものではなかった」
 リョーは、挑戦するようにぼくをにらんだ。
「だったらなんだ?」
「たぶん、魔物」
「ほう」
 リョーは、口をゆがめて薄く笑った。
「恐ろしくはなかったのか。喰われたかもしれないんだぞ」
 ぼくは、首を振った。
「魔物は危険なものじゃない。よほどのことがなければ人を傷つけないと教わりましたよ」
「誰に?」
「いっしょに暮らしでいた魔物です。猫だっだけど」
 リョーは、唖然として口を開いた。
「おまえも魔物なのか」
「いえ。でも人よりも魔物との方がつきあいは長い」
「他の人間の前で言うんじゃないぞ。そんなこと」
「でも、あなたなら」
 リョーは、あきれたように肩をすくめ、ついで低く笑い出した。
「道理でな。変わったやつだと思ったよ。普通の人間ならば狼に襲われた時は目を閉じるもんだぜ。見返すやつなんていやしない」
 ぼくは、微笑んだ。
「やっぱり、あなたでしたね」
「時々、むしょうに森を駆けまわりたくなるのさ」
 リョーは、真顔になり、ため息をついた。
「人間に戻ることも忘れて、このまま狼でいてもかまわないと思う。実際、狼の心になりきる瞬間もある。だが、だめなんだな。どこかで人間が顔を出す」
 リョーはうつむき、両手で顔をこすった。
「ほかに、仲間は?」
 リョーは、首を振った。
「両親がそうだったが、二人とも早死にしたよ」
「村の人は知らないの?」
「あたりまえだ。知られていたら、おれはとっくの昔に火焙りさ」
「何も、悪くはないのに・・」
「悪いんだ。人間は、異質のものを嫌うのさ。災いなすと思いこんでいる」
 ぼくは、リョーを見つめた。リョーは、ぼくを見返し、肩をそびやかした。
「いったい、おまえは何者なんだ」
 ぼくは、リョーにすべてを打ち明けた。リョーは、黙ってぼくの話を聞いていたが、最後に吐き出すように言った。
「魔法使いに、何を求めても無駄なことだ。だいたい、連中はもうこの世界にいるわけがない」
「いないという確証もない」
 ぼくは、きっぱりと言った。
「だから、ぼくは・・」
「悪かったよ」
 リョーは、ぼくの肩を軽くたたいた。
「ただ、おれは魔法使いが気にくわないだけだ。魔物を作り出したのは、魔法使いだと、むかし母親から聞いたことがある」
 それは、ぼくも同じ思いだった。気まぐれな魔法使いたち。この世界にふらりとあらわれ、またどこかに姿を消した。彼らが生み出したたくさんの魔物やオンを残して。
「いったい、魔法使いというのは何者なんだろう」
 家を出る前、ぼくは、アオに訊いてみた。
「どこから現れて、何をしようとしているの?」
「彼らの考えなど、わたしにわかるはずもないが」
 アオは言った。
「魔法使いにも生まれ故郷はあったと聞く。彼方の時空で、とっくに滅んでしまったと言うがね。彼らは不死に近い寿命を持つ。年を重ねるにつれて、その魔力は増大する。生まれ故郷が滅んでも、彼らは力を増しながら時空間を渡り歩いている。彼らのことを、神や悪魔と呼ぶ世界もあるらしい」
 リョーは、夕食に肉汁を分けてくれた。ぼくたちが食事を終えて間もなく、村人たちが次々にやってきた。こんな辺境の小さな村では、たまの来訪者が珍しくてしかたがないらしい。
 身寄りを失ったので、仕事を探しに大きな街に行く途中だ、とぼくは言った。それでも、ぼくが住んでいた場所や、旅の出来事など、彼らは熱心に聞きたがった。旅ははじめたばかりだし、オンの家のことなど正直に話せるわけがない。
 しかし、彼らが求めているのは何もぼく自身の話だけではないということがやがてわかった。彼らは娯楽が欲しいのだ。見知らぬ土地の、変わった話を聞いてひとときを楽しみたいのだ。
 物語ならば、ぼくはアオからたくさん聞いて憶えていた。きみの世界の話ではないがね、と言いながらアオはぼくにせがまれるまま、のんびり語ってくれたものだ。アオが生まれた世界の昔話もあれば、彼が若い時代に旅した異世界の物語もあった。
 そういったもののいくつかを、ぼくはみんなの前で話してみた。継母に毒リンゴを食べさせられて死んでしまった少女が、王子の救けで生き返った話とか、働き者の蟻と怠け者のキリギリスの話とか。
 村人たちはけっこう満足してくれたようだ。
「りっぱに語りとしてやっていけるな、おまえ」
 みなが帰った後、寝床の用意をしながらリョーが言った。
「語り?」
「村や街をめぐって、昔話や伝説を語り聞かせるのさ。歌ったり、楽器を使う連中もいる。旅していくにはいい商売だ」
「なるほど」
 ぼくは、リューに感謝した。どうにか食いつなぎながらハマを探していく方法が見つかったわけだ。
 翌日、ぼくは村人たちに別れを告げた。
「山を下って平地に出れば、大きな街がたくさんある」
 リョーが教えてくれた。
「人も多いし、都に行く船もある。魔法使いについても、なにかわかるかもしれないさ」
「あなたは、ずっとここにいるの?」
 ぼくは尋ねた。
「どこかに、あなたと同じ仲間がいるかもしれない」
「おれと同じ、か」
 リョーは、つぶやいた。
「そうだな、その気になれば同類が見つかるかもしれない。おれのように人間と獣の身体を持つ、中途半端な魔物がな」
 リョーは、軽いため息をついた。
「だが、見つかったところで、どうなるものでもないさ。人間ではないという、互いの傷口をなめあうだけだろう」
 ぼくは、リョーを見つめた。彼は、曖昧な笑みを浮かべた。
「ここが嫌いなわけじゃないんだ。みんな気のいい連中ばかりだし、正体がばれない限り居心地はいいんだよ。おれの両親もここに紛れ込んでおれを生んだ。二人とも、人間のふりをしたまま墓に入っている」
「そう」
 リョーが、少し羨ましくなった。彼には、ちゃんとした居場所がある。
 ぼくは・・。
 オンが胸の鼓動を取り戻さない限り、ぼくの帰る場所はどこにもないのだ。
 
 



 






 
 




 

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